暗澹のアザーサイド(三)

 ――『4月2日(月)』

 今日は刻水館こくすいかん中学の入学式。これからは中学生なんだ。

 しっかり勉強して、部活も頑張って、青春しないとね。

 嬉しかったのは、ダイちゃんと一緒のクラスだったこと。

 知らない人達ばかりだったから、ちょっと安心。

 でも、もっと色んな人とも仲良くなりたいな――




 表紙をめくった一枚目からつづられていたのは、ある意味では平凡な、それでいてかけがえのない日常の一幕であった。未来へ向けて希望を抱く女子中学生の等身大が、そこに刻み込まれているかのよう。

 その後も同じように穏やかな生活の断片が続いている。




 ――『4月5日(木)』

 新しい学校生活にも少しだけ慣れてきたかな。

 部活も色々あるみたいだったけど、私はやっぱり手芸部。

 先生も先輩達もみんな優しそうだった。

 ダイちゃんは陸上部だって。

 ガンバレ! 応援してるよ!――




 日付は毎日というわけではなく、ある時は三日、ある時は一週間ほど不規則に空いていた。




 ――『4月11日(水)』

 隣のクラスに、とても綺麗な子がいたの。瀧川たきがわさんっていうんだって。

 背も高くて、大人っぽい雰囲気で、なによりあの綺麗なストレートの髪!

 お手入れ大変なん――――――




 だが、知りたいのはこんな場面ではない、と、パラパラと一葉かずははページをめくりだす。

 その肩口から、迷いを見せながらも手元を覗き込んでいた大地だいちが、「あ」と名残惜しげに声を上げた。

 それを気に留める様子もなく、一葉は反復横跳びのように瞳を左右に走らせて、高速でめくられる文字の流れの中から目ざとくその事件を見つけ出す。

 中学入学から三ヶ月後のことだ。




 ――『6月18日(月)』

 この週末で、学校で飼ってるウサギが殺されてたって。

 先生が、登下校は注意するように、って。

 そういえば何年か前も、公園で猫が殺されてたよね。

 怖い。どうして他の命を軽々しく奪うことができるんだろう。

 私には、よくわからないよ――




 一葉は目を細めて、手を止めたまま、しばらく何かを考える。

 だが、またゆっくりとページの先へと急いだ。


 そこからしばらくは、動物殺しの話題は鳴りを潜めている。

 テストの結果の一喜一憂。

 友達同士でショッピングモールへ遊びに行ったこと。

 初めての文化祭、体育祭。

 長い夏休みと短い冬休み。

 大地が一年ながら短距離走の地区大会に出場したこと。

 瀧川に話しかけられて舞い上がったこと。


 一見、何も問題のない中学生活のように見える。

 だが、それだけに、動物殺しがその片隅で暗い影を落としていた。いかに街並みが清潔で清掃が行き届いていたとしても、その奥底では絶えず汚れた下水が流れているものなのだ。単に蓋をされて見えていないだけで、その闇の息遣いは荒々しさを増しているのかもしれない。


 そして、それは約一年後、再び顔を覗かせる。




 ――『6月10日(月)』

 公園で鳩が殺されたらしい。

 一羽じゃないの。友達の話だと、十羽くらい死んでたって。

 全部、頭が切りとられて捨てるように転がされてたって。

 酷い。残酷だよ。

 やってるのは誰なの? もうやめてって言いたい――


 ――『6月11日(火)』

 お母さんがピリピリしてる。

 やっぱり動物殺しのせいだよね。

 警察でもどうしようもないのかな?

 お母さん、久々にお父さんとも話したみたい。

 お父さん、なんとかできないかな――




 ――『12月8日(日)』

 また、動物殺しが起きちゃった。

 子犬がね、殺されていたみたいなの。

 やっぱり信じられないよ。

 どうしてそんなことができるんだろう。

 同じ人間なの? 人間の心を持っているの?――




 ――『3月17日(月)』

 瀧川さんちの飼い犬が殺されちゃったって。

 シベリアンハスキーだったよね。

 そんな大きな犬でも狙われちゃうんだ。

 瀧川さん、すごくふさぎ込んでた。

 大丈夫って、気丈に振舞うのが、痛々しいよ――


 ――『3月18日(火)』

 瀧川さんのために、私にできることないかな。

 ますます誰も寄せ付けない感じになってきてるけど。

 でも、きっと誰かが寄り添ってあげないと――


 ――『3月20日(木)』

 瀧川さんに贈り物、春休みまでになんとか間に合った。

 喜んでくれたわけじゃなかったけど、

 でも、受け取ってくれたから、よかったんだよね?

 元気になってほしいな――




 ――『5月30日(金)』

 また、動物殺し。

 この話題を書くのももう嫌だよ。

 今年になってから毎月のように起きてる気がする――


 ――『6月1日(土)』

 最近お母さんの様子がおかしい。

 すごく神経質になっている気がする。

 今日は久々にお父さんと一緒に食事をしたんだけど、

 結局つまらないことで喧嘩別れになっちゃった――




 ――『6月12日(木)』

 お母さん、ほんと、どうしちゃったんだろう。

 今日も勉強してたら、ドアが少しだけ開いていて、

 お母さんがじっとこっちを見てた。

 心配だからってことみたいだけど。怖いよ――


 ――『6月14日(土)』

 わたし、動物殺しが誰の仕業か、わかってしまった。

 かもしれない。本当なの? まだ、混乱してる。

 でも、どうして?

 どうしてそんなことができるの?

 人間の心を持っていないって思っていた。でも。

 ううん、ちゃんと確かめないと――




 日記はここで終わっていた。

 その後はまだ十枚ほどページが残っているが、白紙……白紙……。

 いや、次のページに何か書かれている。




 ―― 見 た な ――




「ひっ」


 一ページにその三文字だけが大きく並んでいて、覗き込んでいた大地が思わず声を漏らした。一葉も手が震えてノートを落としそうになる。だが、なんとか唇を噛んで踏みとどまり次のページへ進む。




 ――見たな見られた見ちゃだめ見たな見られた見ないで忘れてお願い私じゃないのお願い見ないで忘れて――




 続いていたのは、まさに混沌と云うほかなかった。

 四方八方から書き殴られた単語の群れは、上も下もわからなくなってしまったような有様で、先ほどまでの綺麗に整理されていた文章の面影は欠片もない。

 そのまま文字だけでほとんど真っ黒になりかけたページが幾つか続いて、最後のページにたどり着くと、




 ――私にはわからなかった――




 その言葉だけがぽつんと白地の真ん中に残されて、そこで今度こそ日記は終わりを迎えていた。


「どういう……ことだろ?」


 大地がぼそりと呟いた。

 一葉も答えられず、ただ口元に手をやって考え込んでいる。


「だけど、やっぱりアヤコじゃないのは間違いないよな。動物殺しの犯人。たぶん、最後の方で混乱してたのは、俺があいつの姿を見た後だと思う」


 一葉も同意するように、こくりと頷く。


「でも、どうしてあいつは猫を殺すような行動にでたんだろう。俺は間違いなく見たんだ。あいつが殺そうとしているのを」

「私にはわからなかった、か……」


 一葉はノートを閉じて、落ちていた場所に戻そうとする。

 そこで、一枚の写真に気づいて、それを拾い上げた。


「わかろうとしたのかな。犯人の気持ちを」


 写真には三人の仲睦まじい家族が収められていた。まだ幼い藤崎ふじさき綾子あやこを挟むように、藤崎あかねと父と思われる男性が笑顔を咲かせている。

 その熊のような野性味溢れる顔に、一葉は見覚えがあった。思わず声が出そうになる。


 日野ひの雄三ゆうぞう


 幾度か顔を見合わせた刑事であった。


「おい、おいっ! たちばな!」


 大地が勢いよく一葉の肩を叩いた。

 振り向いて、一葉は息を飲む。

 藤崎茜が部屋の扉を開け、鬼の形相で立っていた。見ていたのか。同じように、ひっそりと扉を開けて。

 右手で何かがギラリと妖しい光を放った。刃渡り十五センチはあろうかという出刃包丁だった。


「ドロボウ!」


 鬼が恨み言を吐き散らす。だが何も言い訳できる状態ではない。引き出しは外され、鍵付きのところはノコギリで壊されているのだ。


「あんた達がアヤちゃんを奪った! 殺してやる、コロシテヤルッ!!」


 その咆哮ほうこうに、金縛りにあったように一葉の身体が固まった。致命的なまでに最悪の反応だった。

 茜は一葉目掛けて飛び掛かり、迷いなくその左胸に包丁を振り下ろそうとする。


「危ねえっ!」


 大地がすんでのところで茜の身体に体当たりをして弾き飛ばした。


「橘、逃げろ!」


 包丁を持つ茜の右腕を両手で押さえつけながら、大地が叫んだ。一葉はようやく呪縛から解かれたように我に返って、しかしそこからは速かった。自分の鞄をつかんで階段を駆け下りる。

 玄関の戸を開け放って、後ろを振り返るも大地の姿が見えない。

 一瞬、一葉は迷うように前後を確認するも、そこへ、


 ドンっ!


 と上から何かが降ってきた。大地がベランダから飛び降りたのだ。

 驚き目を見開く一葉を前に、鞄をクッションにして片膝をついて着地した大地はぐっと親指を立てて示すと、一度玄関で靴を履き、


「行くぞっ!」


 の掛け声で二人揃って走り出す。


「返してええ! アヤちゃんを返してよおお!!」


 ベランダからは茜の悲痛な叫びがこだました。その声は激しい雨の中を風に乗って、どこまでもどこまでも二人を追いかけていくようだった。







 走り続けていた二人も、やがて立ち止まって息を整える。大地とは違って、一葉は体力的にも厳しそうだ。

 しかし立ち止まったのは別の理由だ。アスファルトの先、二人の前に一人の男の姿があった。


 日野雄三、相変わらずボロボロのジャケットのせいで熊のような立ち姿ではあったが、今はどこか肩を落として小さく見える。写真の姿よりも幾分か白髪が増えているようであった。


「さっき、茜おばさんに会いました。おばさんは、もう……」


 大地が恐る恐る語り掛けた。

 それに対して日野は「そうか」と呟いたきり、二人とは目を合わせないように通り過ぎようとする。

 大地はそれを黙って見送るのみだ。が、一葉は違った。日野に近寄って、日野にしか聞こえない大きさの声で何事かを伝えた。


 日野の反応は淡白なものだった。


「俺は……もう捜査から降ろされた。娘の死と同じだとか、くだらない理由でな。だから、どうすることもできん」


 そう言いながら、足を進めようとして、しかしぴたりと立ち止まる。


「……そういえば、あのボウズのことはいいのか?」


 一葉がはっと顔を上げた。


「あのボウズ、さっき一度捕まったらしいがな、どうも搬送の途中で逃げたようだ」


 そう言って、日野は二人に背を向けた。そしてぼそりと「あいつの仕業とは思えん」と置き土産のように呟いて去っていく。


 一葉と大地は、しばらく黙ってその広い背中を見送っていたが、




 プルルルル――




 そこで唐突に一葉のスマホの着信音が鳴った。

 画面に表示された相手の名は、瀬尾せおだった。

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