第八章・そして、始まるタクティクス ~ La・WOOL side④ ~
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「キュエェェェェ!!キュエェェェェ!!」
夜明けの直後。
快晴とは呼ぶにはポツポツと幾つか雲が浮かび、されどやっぱり夏の朝らしく澄んだ青空の中を切り裂くように飛来してきた一匹の怪鳥の鳴き声が、ラ・ウール王宮に朝の訪れを告げた。
「……一日どころか一晩か……さすがだな……」
俺は気怠い体を起こして窓際により、ゆっくりとカーテンを引いた。
途端に部屋中を侵食していく新しい朝の新しい朝日。
開け放った窓から吹き込むのは潮の香を含んだ柔らかな風。
いくらかボンヤリとした頭の中に今日という日がゆっくりと染み込んでいった。
「うーん……むにゃむにゃ……」
そんな声のする方へ自然と視線が誘われた。
真っ白なシーツの上に広がる真っ黒な長い髪。
乱れた寝巻からのぞく透き通る素肌。
射し込んだ陽射しを避けるように寝返りを打つ小さな小さな体。
眩しそうに歪めてはいても、その端正さが失われることのない整った顔立ち。
緩慢な呼吸をするたびに微かに震える瑞々しい唇。
起きている時には見た目相応な幼さばかりを、たぶん、あえて前面に出しているのだろうけれど。
こうやって昏々と眠り続けている、まるで御伽噺の中のお姫様のようなその寝顔からは、妙齢の女性しか放つことのできない、艶のある色香が匂いたっていた。
「……ま、遅くまで付き合わせちゃったからな……」
俺はズレてしまった毛布をそっと彼女に掛けなおした。
「うーん……イっくん……むにゃむにゃ……」
「…………」
……イっくん。そう彼女に呼ばれるたび、胸をかすめるのは懐かしさ。
過去に俺をそう呼んでいた人の声。
生まれたばかりの俺にそう呼びかけ……俺が俺であるのだと染み込ませるみたいに何度も何度も何度も呼びかけ続けてくれた金色の笑顔。
もう失われてしまったそんなものたちを寂しいと思う反面。
確かな穏やかさを持って懐かしいと感じられようになっただけ。
俺も少しは、前を向くことができるようになったのかもしれない。
「……前を向く、か」
ふと、頭の中によぎったのは、一人の少女の姿。
もう何も持たず、もはやなんの後腐れも置いてこなかった≪
そういえば、あの子は……冷たい雨に打たれながら、膝を抱えていたあの子は。
それでも一人立ち上がり、しかもうつむいていた前よりもちょっとだけ高い位置で顔を上げた、強くて優しくて気高い、聖女のようなあの女の子は。
こうしている今も成長を続け。
そして、またどこかの弱くて情けなくて燻ぶっている男を、その包容力で温かく包んであげているのだろうか。
「……む。……なんだ?なんか面白くないのか……俺は?」
「……面白くないのはこっちじゃよ、バカ者……」
ボンヤリとしていた隙をつくように体をグイと引っ張られ、そのまま彼女の平らな胸元へと顔を埋めるような形に倒れこんでしまう。
金の彼女の爽やかな柑橘系の香りとも。
銀の彼女の清らかな甘い清潔な香りとも違う。
黒の彼女の、男を誘い惑わす花と、とろけた蜜を合わせたような艶美な香りが鼻孔いっぱいに広がった。
「ごめん。起こしちゃったかな?」
「そりゃ、起きるじゃろ。こうしてあられもない姿でベッドに横たわる我のことを無視して他のオナゴのことばかり考えているようなタラチンの独り言が聞こえてきたのじゃから」
「タラチン……決して響きの可愛さに惑わされてはいけないような言葉だ」
「お主みたいな女泣かせに相応しい呼び名じゃよ……」
そうして彼女は俺の体に回した幼い両腕の力を一層強めてギュっとした。
「……まだ、眠そうだね」
「そうじゃなぁ……何せロクに休ませてもらえんかったからのぉ」
「君だってノリノリだったじゃないか」
「でも、お主のそのタフさには完敗じゃよ。はぁ……我も年をくったもんじゃ」
「後半はほとんど意識が飛んでたもんね」
「その間も、お主は好き勝手に弄り回しとったんじゃろ?名残があちこちにあるわい」
「無理させた?」
「少しばかり」
「ごめんね」
「許さん」
「ごめんってば」
「絶対に許さん」
「厳しいなぁ……」
「……なので罰として、もうしばらくこうさせるのじゃ」
「俺には単なるご褒美だけれど」
「なんじゃ、またやる気になられても付き合えんぞ?」
「いや、さすがに俺も疲れたかな」
「なら、黙って我のしたいようにさせるのじゃ」
「……罰なら仕方ないか」
「そう、これは罰。……どこまでも罪深いお主と我に課せられた……甘い甘い懲罰なんじゃよ……」
そう彼女が言った瞬間、ドロリと俺の脳ミソが溶けいくような感覚を覚えた。
「これはたった一夜の夢物語。この先、こんな風に我らが過ごせる時間はもうないじゃろう」
重くなる目蓋、停止する思考。
心地の良い体温、しっとりと汗ばんだ肌。
「だから、イっくん。もう少し……もう少しだけ……この罪と業にまみれたアタシみたいな女の為に……ほんの少しだけこの幸せを抱きしめさせて欲しいの……」
そして俺の意識は落ちていく。
何も見えない、何も聞こえない。
何も言えない、何も考えられない。
それでも自分が落ちていくことだけは辛うじて感じられた。
まるで一面に咲きほこる黒と紅に染まるバラの絨毯の上で寄り添うような。
俺と彼女以外、誰一人として存在しない閉じた世界の中で傷を舐め合うような。
そんな、甘くて愛おしくて、どこまでももの悲しい、束の間の眠りへと。
俺は抗いもせずに……落ちていく。
@@@@@
「……ということで、色々と役立ちそうな魔道具を用意したよ」
「いやいやいやいやいや!!『ということ』には繋がらない脈絡っすけど!!」
「……はぁ……」
「???」
遅くまで一緒の部屋でアルルの残した魔道具の調整を手伝ってくれていたリリーが寝落ちしてからも作業を続けていた俺。
ほぼ二徹という強行に、さすがの俺も疲れていたんだろう。
リリーを起こすつもりが、逆にかどわかされて思わず二度寝をしてしまった。
時間にして、二時間くらいだろうか。
今度は彼女に俺が起こされるという形でベッドから這い出し、身支度を整えてから騎士団の詰め所へと向かい、今に至る。
……そして、なんだかよくわからないけれど。
昨夜から今朝にかけての出来事を簡単に説明した途端、ヒイラギはすごい勢いで俺に詰め寄ってくるし。
アンナはアンナで額に手を当てて頭を横に振っているというのが今現在、リアルタイムで進行している状況だ。
「どこをどう解釈してもあの回想から道具の開発なんて連想できないんっすけども!?むしろ別の何かが開発されてしまった感じっすけれども!?甘酸っぱくて、だけど少しほろ苦い素敵な何かが確実に育まれてしまった感じがプンプンなんっすけどもども!?」
「何をそんなに興奮してるんだよ」
「事後!?事後っすか!?事後っすね!?あーもーこれ絶対事後っすわ!!どこをどう解釈してもあの回想は情事の後の嬉しはずかし甘々ピロートークっすわこれっ!!」
「えっと……」
「うっさいのぉ。寝起きの耳元でピーピー騒ぐでないわい(モグモグ)」
「パンケーキ?」
「はい、朝食にと思いまして。イチジさんもどうぞ」
「アンナさん!!なにあなたまでシレっと受け入れてるんっすか!?むしろ、こういう時、いの一番にツッコミを入れるのはあなたの役目でしょ!!??」
「……そんな役目を拝命した覚えは一つもないのですが……あ、お茶もどうぞ」
「いや、割とお主の係みたいなところあるじゃろ(モグモグ)」
「……っく、否定できない。……ですが、まぁ、ついこの間も似たようなことがありましたしね。どうせ何もなかったのでしょう」
「え!?前にもリリーたんとの同禽を匂わせるなにかが!?」
「じゃから、さすがにマンネリ展開なんじゃ。定番・王道・お約束はわりかし好物じゃが、今は状況が状況。もっとわきまえんか、このたわけ」
「なんで僕が怒られるのという定番パターン!!」
「あ、これ旨い」
「良かった、お口にあったようですね」
「もしかしてアンナの手作り?」
「……はい、一応。異世界の方の味覚についてよくわからなかったので、とりあえず前にイチジさんが美味しそうに食べていたのを思い出しまして……」
「そうか。忙しいだろうに、わざわざありがとう」
「いえ、お粗末さまです。それに姫様が作られたものと比べるとどうしても見劣りしてしまいますし」
「まぁ、アヤツは軽食の鉄人じゃからな」
「いやいや、これも十分以上に美味しい。お世辞じゃなく。紅茶にも良く合うし」
「マスターよ。ここで『アンナはいいお嫁さんになるなぁ』というセリフからの頬染めという定番パターン、やっておくか?」
「アンナはいいお嫁さんになるなぁ」
「……前振りがなかったら嬉しかったのでしょうけれど」
「それでも自分の作った料理を美味しそうにモグモグするその姿にトキメキを覚えるアンナベルであった……」
「……私を煽るその流れもやめましょうね?」
「はぁぁ……もういいっす。なんか一人だけがなり立てているのも虚しくなってきたっす。……アンナさん、僕もつまんでいいっすか?」
「はい、もちろんです。たくさんご用意しましたから」
「はっ!?冷静に考えてみれば、これは女の子の……」
「あれ?」
「しかもクール系ウブお姉さんの手作り料理ということにな……」
「……あー申し訳ありません、ヒイラギさん。もう無くなってしまったようで……」
「すまんの、モブ男。ちょいと腹が減りすぎていたもんじゃから(モグモグモグ)」
「僕の不遇というオチがつく定番パターン!!なんで!?そーゆー流れにはならないはずじゃないんっすか!!??」
諦めるんだ、ヒイラギ。
君のそれは、定番やお約束ではなく、もはや世界の定めた宿命なのだから。
「……結論から言えば、あったぜ、敵さんのアジト」
朝食を食べ終えたタイミングで、仮眠をとっていたらしいゼノ君たちが詰め所へとやってきた。
既にアンナやギャレッツへの報告自体は済ませているようなのだけれど、改めて自分の目で見てきたものについて語ってくれる。
「例の城があったっていう星形の堀の真ん中。ご丁寧にもそことおんなじ場所に建物が建っていた」
「やっぱり要塞みたいな感じ?」
「いや、そんな仰々しいもんじゃねーかな。規模としては三階か四階建てくれーの……ありゃ、塔だな」
「塔……」
「そうだ。円柱状の太くて高さのある塔。見渡した限りそれ以外に建物なんてなかったから、十中八九その中に姫さんがいるんだろうぜ」
「ありがとうございました、ゼノさん」
「うむ、大手柄であるな、ゼノ青年」
「……そうでもねーさ。言ってみればそれくらい。結局、大した探りはできなかった。こんなに早く戻ってくる予定じゃなかったしな」
「………戻らざるを得なかったってことかな?」
「……ま、そんなとこだ……」
そこまで言ってゼノ君は露骨に顔をしかめる。
仕事人として、探査が中途半端で終わった憤りみたいなものがあるのかもしれない。
けれど、彼の次の言葉から、それだけでしかめ面をしたというわけじゃないことがわかった。
「死の大地ってのは別に大袈裟じゃなかったな。確かにあの一帯は草木一本生えていない石や瓦礫に埋もれていた。空から見ればまるでくり貫かれたみてーに、あるラインからそんな殺風景な光景がただ広がってるって感じだ。……感じなんだが……」
「ゼノ君?」
「情報通り空気がえらく淀んでいて、薄ボンヤリと霧みてーなもんがかかってた。それは地面に近いほど濃くなってて、とりあえず高度を落としてギリギリまで近づいてみたんだが、頭は痛くなるし胸はムカムカするし、生身のまんまじゃとてもじゃねーが降りられなかった。……ココも限界だったしな」
「……ううう……きもちわるいんだゾ……」
「……ごめんなさい、ココさん。無理をさせてしまいましたね」
「とまぁ、こんな感じだ。あそこの空気がマジでヤバいのはこれで証明されただろ」
いつもの奔放さが影を潜め、耳も尻尾もシュンとしてアンナの脚にしがみつくココ。
ただでさえ五感やそれ以上の第六感みたいなものが優れている獣人族のさらに純血たる彼女だからこそ、その土地に漂うおかしな空気に敏感に反応してしまったらしい。
「うむ。持ち帰ってくれた空気を今、始祖様に分析してもらっているわけだが……どうだ、青年?貴殿の率直な感想として、吾輩たち人間はかの地に踏み入ることは可能であるか?」
「無理だな」
ゼノ君はキッパリと言い放つ。
「そこらの普通の人間じゃ無理だ」
「ならば、たとえば体表面を覆うように魔術なりを展開してはどうか?」
「それで誤魔化そうとしてもソイツを常に、しかも長時間維持しなくちゃならねー。それだけでも相当な魔力をくうんだろうし、ましてそんな状態で戦うだけの余力なんて残るか?」
「でも、それならば相手方にもまた同じことが言えるのではないですか?」
「であるな。デレク・カッサンドラ程の者であるならばともかく、組織の一般兵ではそれこそ戦うことなどできないのではないか?」
「ああ、もちろんだ。だからたぶん、あそこにいるのはあのボス野郎と、他にはせいぜいあの時見た幹部らしき連中の何人かってとこじゃねーか?……そういうわけで、残りの敵勢3千だったか?それをあっちに回している可能性は考えなくていいと思う」
「……確かに。……ですが、そんな場所に囚われている姫様の安否が心配……」
「大丈夫じゃろ」
「リリー」
それまで黙々とゼノ君が持ち帰った旧ガストレア領周辺の空気を分析していたリリーがアンナの言葉を遮るように声を出す。
「あの小娘を殺す目的ならそれこそとっくにあの場でやっておったろう。それをわざわざ生かし、連れて行った場所なのじゃから、むざむざ死なせたりするような真似はせん。……おそらく、そのアジト周辺には何かしらコレへの対策を施していると見える」
そうしてコレと言ってリリーが振ったのは例の小瓶。
「どうでしたか?」
「うむり。まぁ、ほとんど猫耳が今言った通りじゃ。常人ではまず耐えきれんだけの魔素濃度であることはもちろん、そもそも普通に人体に有害な毒素がこれでもかと含まれておる。元からそんなものをまき散らかしたのかどうかまではわからんが、三十年といったか?それだけの年月を経て、空気中の成分が徐々に変質していったのかもしれん。霧がかっているように見えたのはこの毒素のせいじゃな。……いやはや、これこそまさに紛うことなき死の大地じゃ」
「そんな場所じゃどうやったって無理じゃないっすか……」
「本拠地たる塔の内部の方が一番安全そうというのも皮肉なものだな」
「空からはどうだろう?一気に塔の上から降下していく感じで」
「俺もそう考えてちょっと試してみたんだが……ダメだった」
「ダメ?」
「ああ、分厚い障壁みたいなのが貼ってあって弾かれちまったんだよ。たぶん、そこのメスガキが言った対策ってのはそれだな。建物周辺……あの六角の星の堀に沿うみたいな感じで、空まで結界がのびてやがった」
「うむむむ……なんとも周到であるな」
「ま、それくらいは当然の備えか。のぉ、猫耳?何か塔と堀との間に橋のようなものは掛っておらんかったか?」
「橋か……いや、それらしいもんは特に。霧のせいで視界が悪かったし、そこまでしっかりと確認できたわけじゃねーけど、堀の中と外じゃ完全に独立してたと思う」
「なれば、あの地味子みたいなオナゴが使っとった空間転移の魔術でしか行き来できない作りか、どこぞに転送装置でも置いてあるのか……もしくは幻術の類で入り口を隠しておるかじゃな」
「どっちにしろ、やっぱり自分の足でいかなくちゃならないわけだ」
「……いえ、そうなってきますと、今度はその塔内部に兵を潜ませている可能性まで再浮上してきますよ。たとえ辿り着いたにしても、3千人との交戦という問題が……」
「…………」
「…………」
そこで、束の間、誰もが口を閉ざす。
アルルの捕らえられている場所が判明した。
やるべきことも明確に定まっている。
実行に移すのは至極簡単なことだと俺はとらえていた。
しかし、成功率という面では他の二か所よりもだいぶ低くなることがゼノ君の斥候によって露呈してしまった。
魔素と毒の漂う不毛の大地を抜けるのは常人ではまず無理。
仮に踏破したとしても、『革命の七人』の兵3千が待ち構えているかもしれない。
そして、当然。
あの俺たちでは有効な打撃を一つも与えられなかったデレク・カッサンドラという強敵が待ち構えているんだろう。
なんて不確定要素ばかり。
確定している要素にしても高難易度のものばかり。
八方塞がりな状況に重たい空気が詰め所内に漂ってしまう。
……ただ、よかった。
「……行くよ、俺は」
「イチジさん?」
「タチガミ殿?」
そんな空気の中にあっても、変わらないでいてくれるものがあってくれることに。
この胸に掲げたたった一つの想いには、何の揺らぎもないのだと証明できたことに。
「何も変わらない。俺のやることは何にも変わらない」
「タチガミさん?」
「あんた……」
俺は今、心底ホッとしている。
「…………」
そうして、俺はホワイトボードの前にまで歩いていき、ペンをとる。
キュッキュ……
【王女奪還組】
◎タチガミ・イチジ
一度はアンナに消されてしまった名前を。
この場で唯一、この困難な作戦を攻略できる条件を満たしているであろう者の名前を改めて書き記す。
「俺の予想だけれど……たぶん、塔の中にはほとんど人はいないんじゃないかと思う」
「……ほう、その根拠はなんじゃ、マスター?」
俺の行動に呆気にとられる面々の中で、リリーだけが冷静に応えてくれる。
「根拠らしい根拠はないかな」
「勘、などというつもりかの?」
「それに近いんだろうね。……なんとなく、あのデレク・カッサンドラという男の人となりを考えれば……歪んで曲がって狂ってはいるけれど、己の『正義』という矜持だけは絶対に曲げたりしないアイツの性格を考えれば、きっと一人で待ってるんじゃないかと俺は思う」
「イチジさん……」
不満そうなアンナの声。
「やっぱり勘とかなんとなくとかいう説明だけじゃ、納得はできないかな?」
「当たり前です。作戦立案の責任者として、そんな曖昧なものだけを頼りにあなたを……いえ、あなたでなくとも誰かを向かわせるわけにはいきません」
「でも、誰かが行かなくちゃ」
「……それをこれから議論をもっと詰めて……」
「それで策が見つかると、君は思ってる?」
「それは……」
「もう時間がない。それぞれの戦場でもっと整えなければいけない準備だってある。帝都組だって現地で合流する味方との打ち合わせだってある。そろそろ出発しなくちゃ間に合わないだろ?」
「わかっています……」
「ガストレア領にだってもうこれ以上時間も人もさけない。仮に普通の兵士をぞろぞ連れて行ったところでアジトに踏み込むことさえできない」
「わかっています……わかっているんです……ですが……ですが!!」
「俺しかいないんだよ、アンナ」
「なん……」
「魔素と毒の霧に常人は耐えられないなら、常人じゃない奴が行けばいい」
「……おい、まさかあんた……」
ゼノ君が眉をひそめる。
「獣化するつもりか?」
「そう、獣化……俺の場合、アルルの言うトコロの龍化か。あの力を使えばどうだろう、ゼノ君?いける?」
「ちょ、ちょっと待って……」
「……いける……だろうな。獣化の第一の特性は身体能力の強化。つまり毒だのなんだのに負けないくらいに内蔵機能や皮膚組織も強化される。……全力全開だったわけじゃねーが、その理屈で俺もあの空気に耐えられたんだろう」
「獣人族本家からの目線と実際に体感した偵察者からの目線でお墨付きをもらった。あとはその理屈に沿えるだけの耐久度の面だけれど……どう思う、リリ―?」
「そちらも問題ない。猫耳が持ち帰った空気、それなりに濃度の値が高い場所であれくらいならば、たとえ最深部に潜ったとしてもマスターの龍化であるならば耐えられるじゃろう。そしてその龍化を長時間維持できるだけの魔力も、アホみたいに無尽蔵なマスターの魔力貯蔵量であるならばお釣りがくるくらいじゃろうな」
「なら、決まりだ」
「だから待ってくださいって!!」
トントンと話を進めていく俺をアンナは声を荒げて遮る。
「仮に、仮にです。イチジさんの力ならば死の大地を苦にもしないとしましょう。敵の本拠地にたどり着き、伏兵もいなかったとしましょう。しかし……しかし、あのデレク・カッサンドラがいるんですよ?まるで本気を出していなかったというに、手も足もでなかった敵の首領がいるんですよ?それを単身で……何の対策をしないままでだなんて……無謀です。無謀でしかないです……私はそんな結果が目に見えているような作戦……あなたをみすみす死なせるような作戦を絶対に承諾するわけにはいきません!!」
「アンナ……」
「それに……それに……また、あの力を使う気ですか、あなたは?」
彼女らしからぬ大きな声で反対するアンナ。
その声が、徐々に徐々にか細くなる。
「……私は見ていました。あなたの傍で、あなたの体があなたの物でなくなっていくのを。……治癒魔術でも追い付かないほどに内側から皮膚が裂けていき、瞳も、そして最後には右腕ですらヒトの物ではない何かになってしまって。……前回はどうにか元に戻ることはできました。ええ、本当にどうにか、たまたま。ですが今度こそ……今度こそ、あなたはその内側に巣食うドラゴンに身も心も食われてしまうかもしれないのですよ?あなたがあなたで無くなってしまうかもしれないんですよ?……そんなこと……そんなことを許してしまったら……私は姫様に……あの方にどう顔向けしてよいのかわかりません……」
「……その、アルルをさ。……救うにはもうこれしかないないんだよ」
「そして、イチジさん?……そんな風になってしまったら……私は……私は嫌です……嫌なんですよ、イチジさん……。あなたがあなたで無くなってしまうだなんて……私、嫌です……嫌ですよ……イチジさん……」
声にも瞳にも、涙を滲ませて訴えかけるアンナに、とても胸が痛くなる。
ああ、悲しませている。
ああ、また誰かを俺は傷つけている。
作戦だ責任者だという建前も立場も関係なく。
アンナベル=ベルベットは一人の人間として涙ぐむ。
「おい、軍師。何を腑抜けたことを言っておる」
そして、創世の魔女はそんな実に人らしいアンナの感情を。
人が人を想って流す、温かな涙を許さない。
「お主が今述べているのは単なる私情じゃ。作戦だ戦略だのという以前に、お主はただマスターを単身で敵地に向かわせるのが嫌だからというワガママを言っているにしか過ぎん」
「っつ!!だったら!!作戦だ戦略だとして言わせてもらいますが、こんなお粗末なものが作戦ですか!?人をただ無暗に死なせに向かわせるのが戦略だとでもいうのですか!?」
「ああ、そうじゃ。ここに毒への適正も敵と渡り合えるだけの戦力もどちらも兼ね備えたピッタリの適任者がおる。そして他にはいない。だから一人で向かってもらうしかない。一人でもやってもらうしかない。これがこの王女奪還組の作戦にして現状、唯一組むことのできた戦略じゃ」
「だ、だったらせめて私が行きます。私なら死の大地への対策もどうにかできないこともないですし、戦うことだってできます」
「ならば、ここの守りはどうする?」
「私の他にも優秀な兵がいます。そちらに指揮を執ってもらえば……」
「このラ・ウールだけで幾つも戦場がある中でそれぞれに指示を送り?さらには帝都組の動向も同時に探って?さらにさらに刻々と移り行くこの戦争全体の戦況を常に俯瞰して眺めて采配を振るう?……そんなマルチタスクをお主以外に誰かこなせるものがおるのか?おらんじゃろ?一も二もなくお主がこのラ・ウール防衛組に自分を組み込んだ理由は、まさしくそういう代えの利かない人材だと自分で理解しているからのことなんじゃろ?」
「っつ!!だ、だったら貴女はどうなのですか!?確かに貴女は大きな戦力です。それこそ貴女が帝都組に立候補した理屈もわかります。しかし、決して代えが利かないというわけでは……」
「じゃが、そうなると、こちらの成功率はグンと下がってしまう。大事な国王陛下や皇帝閣下の命は保証できん。おそらくは今回の戦争、本音と建前はどうであれ、多くの者にとってこの国王奪還こそが主題であり目的じゃろうし、戦いの苛烈さは一番になるじゃろ。もしも一国の王女のために皇帝以下複数の国王の命を捨てたとあれば、この戦いの後にどんな面倒な遺恨が残るかわからん」
「そんな後のことなんて……」
「とは言わせんぞ、軍師。先の先の先々まで読んで戦わなければいけないのが戦争というもの。ただ焼き尽くし、ただ殺し尽くすだけでは事後の……そして次の平穏まで勝ち取ることはできん。そんなことがわからないお主ではなかろうに?」
「……でも……」
「落ち着け、地味子よ。お主だってもう頭では理解しているはずじゃ。……現状、これしかとれる策はないんじゃよ」
「っつ!!!」
「ベルベット!!」
「アンナさん!!」
駆け出して詰め所から出ていくアンナ。
「おねぇさん……」
「…………」
「……やれやれ……」
「……アンナ……」
呼びかけるだけで精いっぱい。
その去り行く背中を引き留める言葉もつかみ取る腕も、誰も持ち合わせてはいなかった。
「……ごめんな、リリー。また君に悪役を押し付けてしまった」
「なに、地味子ではないが、こういうのは我の役回りじゃよ。前にも言わんかったか?」
「ごめん」
「我に謝っとる暇があるなら早く追いかけんか。今頃どこかで自戒と自責でうつむいておるはずじゃよ、あの眼鏡は。得意のジゴロ戦法でさっさと口説いてくるがいい」
「……であるな」
ポンと俺の方に乗る大きな手のひら。
「吾輩からも頼む、タチガミ殿。このところ、貴殿と接するようになってからはだいぶ丸くなってはきたが、アレは根っからの堅物。おそらくアル坊のことも国王陛下のことも国のことも、そして貴殿のことも全部を全部ひっくるめて、ベルベットは救わなければと考えておるのであろう」
「全部を全部……」
「吾輩はバカであるからな。たとえタチガミ殿が単身で乗り込むと聞いても、なんとなくうまくいってしまうような気がすると楽観している。何の心配もしておらん。貴殿ならば必ずやデレク・カッサンドラを打倒し、アル坊を連れ帰ってきてくれるとな」
「ギャレッツ……」
「しかし、なまじ頭の良いアレはそう簡単にもいかん。きっと吾輩がどれだけ説得しても、始祖様が滔々と説いたとしてもきっと何かしらの欠点を見つけ、そこを言い訳に延々と反対し続けるだろう。……だから貴殿だけだ、タチガミ殿。アレの中で心の多くを占めている存在であるところの貴殿の言葉であれば、おそらく理性も理屈も越えて感情という面を揺り動かせることができるだろう。どうかお願いする。……ベルベットを安心させてあげてくれまいか?」
「……わかったよ、ギャレッツ」
「うむ、貴殿お得意の口八丁手八丁、手練手管の見せどころである!!」
「だから、人聞き。人聞きね?前も言ったけれども」
「タラチンめ」
「タラチンっす」
「タラチン♪」
「…………」
それ、流行らせないでね。
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