番外・絢爛舞踏会~ 閉幕、そして…… ~

 ラスト・ダンス。


 もしも俺の知っている知識をなぞらえるのならば、最後のパートナーは本命同士でなければならないという不文律があったはずだけれど、どうやらその習わしはこちらの世界でも同じよう。


 どの曲よりも緩やかに刻まれる4拍子。

  どの曲よりもしっとりと踏まれゆくスロー、クイック、クイック。


 一つ一つの動きはあくまでも伸びやかに、しなやかに。


 男性は自身の持つ力強さと優しさをアピールし。

  女性は自分の柔らかさと愛らしさを訴えかけ。


 腰に回した腕は官能的に。

  潤んだ瞳は蠱惑的に。


 彼らは互いに余すことなく引き出したそんな魅力をぶつけ合うのではなく、まるで重なり合わせるように大事に包み込みながら、フロアの中に二人だけの世界を創り上げている。




 ――少し外の空気を吸いませんか?


 アルルの提案に従い、俺たちは連れだってテラスへと出た。


 舞踏会がはじまると同時に解放され、難しい顔をしながら何事かを話し合っていた中年男性たちや、蕩けた顔で溜息を吐くご令嬢のグループなどが行き来していたのをチラホラと見かけていたけれど、今は誰もいない。


 もう今宵の宴もたけなわ。


 みな室内に引っ込んで、終わり行く一夜の夢の名残を惜しんでいたりするのかもしれない。


 ……おかげで、とても静かだ。


 遥か大洋を望む小高い丘に建立されたラ・ウールの王宮。


 その中でも、崖の上に長く張り出したこのテラスがおそらく一番、海に近い場所だろう。


 吹き抜ける少し湿った風。

  さざめく穏やかな波の音。


 遠いスローテンポな旋律。

  くぐもって一つの塊となった人々の喧騒。


 聞こえる音らしい音といえば本当にそれくらい。


 昼間に初夏の陽気を蓄えた気温はちょうど良く。

  雨の予感を孕んだような不吉な雲もまるでない。


 まるで俺たちを邪魔立てする無粋なモノ一切が事前に取り払われでもしたかのようで、気を利かせた誰かがあつらえたのではないかと思わず勘繰ってしまう。


 それくらい穏やかで……。


 とてもとても素敵な夜だった。


 「んんんん~~~……」


 テラスの一番端にまで来たところで、アルルが待ってましたとばかりに思い切り伸びをする。


 「お疲れ、アルル」


 「素直に疲れた……と言ってももう許されますわよね?」


 「大丈夫。君が肩ひじ張ってなくちゃいけない人間はここにはいないよ」


 「こほん、では遠慮なく。……だぁぁ~つ・か・れ・たぁぁ~~!!」


 静けさを切り裂いて響くアルルの咆哮。


 「もぉ~嫌ですのぉ~面倒くさいですのぉ~このままベッドに倒れ込んで明日の昼過ぎまで泥のように眠りたいですのぉぉぉぉ~~~!!!!」


 壮行会からずっと押し殺してきたであろう彼女の本音。


 それらはすべて眼下に広がる海へと溶けていき、名もなき虚空へと還っていく。


 「もう働きたくないでござるぅぅぅぅ~~~!!」


 「どこのニート息子だ」


 「夏のバッキャロ~~~~~!!」


 「どこの青春ドラマだ」


 「よっ!!なりたやぁぁぁぁぁ~~~~!!」


 「……なんで歌舞伎の合いの手?」


 たまや、と言いたかったんだろうか。


 とゆーか、全部≪現世界あらよ≫のやつ。


 しかもとうとう日本の伝統芸能にまで手を伸ばしてきたよ、この姫さん。


 「はぁぁぁ、スッキリしましたわ……」


 「……そう、よかった」


 「イチジ様もやってみます?」


 「やらない。別に鬱憤は溜まってないし、叫び声のストックも持ってない」


 「あら、簡単ですのよ?ただ一言『アルル~大好きだぁぁ~』と」


 「グイグイくるなぁ……」


 「テラスの先端で愛を叫ぶ、ですわ」


 「≪現世界あらよ≫のやつ」


 「アルルを甲子園に連れてってぇぇぇ~~~!!」


 「≪現世界あらよ≫のやつ……というか君が叫んじゃったよ」


 「うふふ、申し訳ございません。解放感からか気持ちがかなりハイなんですの」


 「……とりあえず、これでも飲んで落ち着こうか」


 そうして俺は、あらかじめ貰っておいた例の黄金の飲み物をアルルに差し出す。


 「あ、未成年にアルコールはまずいか」


 「いえ、大丈夫。こちらの世界に飲酒年齢などという概念はありませんわ。もちろん幼児や乳児に薦めるのはご法度ですが、その辺りは法律ではなく、周りの大人たちの良識によってしっかりと保護されているのです」


 「大らかだよなぁ」


 「ええ、なにせ≪マホウの世界≫ですから」


 「それ自体、なんでも有りにしてしまえるマホウの言葉だ」


 そう、メイドの嗜みとおなじくらい。




 チィン……

 

 乾杯、と俺たちはグラスを合わせた。

 

 シャンパンゴールドに光る果実酒が、アルルの形の良い唇の隙間を縫って喉へと下る。


 濃い目に引いた口紅がグラスのふちに少しだけ移り、それがまるで装飾品のようにグラスの中の黄金をより煌びやかなものに映えさせる。


 「……ふぅ……美味しい……」


 壮行会の時から着ているドレスの純白。


 ノースリーブの肩から指先にかけて伸びる腕と開いた胸元の肉感的な白。


 職人の手による仕立ての精緻性と、アルル自身が持つ健康的な艶の対比がとても眩しい。


 「…………」


 アルル自身……ということならばこちらの方がもっと顕著だろうか。


 伏し目がちに手元で弄ぶグラスを眺める瞳、やわらかな潮風に揺れる長い髪。


 彼女が宿す、いつでも清くて正しくて、人にも自分にも厳しくて……。


 そして何よりも美しい魂をそのまま表したような白銀色が、宵闇の中に冴えわたる。


 「……改めてお疲れさま、アルル」


 「ありがとうございます、イチジ様」


 「随分、忙しそうに動き回ってたね?」


 「そうですわね……。お集まり頂いた各貴族の当主様、遠方よりわざわざお越しくださった近隣諸国の領主の方々、資金提供をして下さる商家の代表などなど、ただご挨拶させて頂くだけでも相当な数となりますから」


 「国王様はやっぱり来れなかったか」


 「ええ、お父様……国王陛下はこうしている今も帝都の狭い空の下、ですわ」


 「なにをやっているのか……変わらず教えてはくれない?」


 「申し訳ございません。なにぶん秘匿性が高いものですから、いくらイチジ様の御頼みとあっても、こればかりは……」


 「いいよ、そこまで気になるわけじゃない。ただ、こうやって王宮に世話になってからもう二か月くらい。一度も拝謁の機会がないのもなんだかなぁと」


 「……実のところわたくしもこちらに帰還して以来、顔を合わせておりません」

 

 「一度も?」


 「ええ、一度も。……文でのやり取りで互いの安否は確認できてはおりますが、ちょうどわたくしたちがドナに滞在していた前後から、国王陛下はずっと帝都ラクロナに駐留しているのです」


 「王様って自分の領地から殆ど出ないイメージがあったけれど」


 「間違ってはおりません。よほどのことがない限り玉座の間にて政一切の取りしきり、国政においてあらゆる責任を一身に担うというのが国王の一番の務めです。それが二か月に及ぶ長期の不在……現状が例外中の例外だということを、それだけでご理解いただけるかと思いますわ」


 「わかった。これ以上は聞かないことにする」


 「本当に申し訳ございません。……ひとえにわたくしの至らなさが招い……あ……」


 「……それも聞かなかったことにしておくよ」


 「……もう、イチジ様ったら……」


 ふふ、と小さく微笑むアルル。


 王様が国の運営を王女に放り投げてまでラクロナ帝国に赴いている理由。


 その例外中の例外にアルルが何らかの関わりがあるらしいことを匂わせる雰囲気。


 こんなに疲弊してなお公の矢面に出続けているのは、相も変らぬ彼女の高潔な責任感からくるところなんだろう。


 ―― わたくしの至らなさ ――


 無意識に零れてしまったような弱音。


 何とかしてあげたいと思う。

  余すことなくその不安をそそいであげたいと思う。


 けれど、彼女はそれを望んでいない。


 少なくとも、今はその弱気ごと彼女は前に進んでいこうとしている。


 ……変わらないな、君は。


 「……ともかくです。そんなお父様に比べれば、愛想よく笑ってそれらしいことを語っていればいいだけのわたくしの仕事など児戯みたいなものですわ」


 「……そういえば、あの王子様は?」


 「お兄様ですか?」


 「むしろ、そのお兄様が今君のポジションにいなくちゃならないんじゃないか?長男として?」


 「お兄様もまた、お父様の名代として忙しく公務に励んでおられます。ちょうど今は、周辺諸国およびラ・ウール領地内を転々と回って頂いているところです」


 「外遊ってやつかな?」


 「ええ、まだ正式に指名されているわけではありませんが、十中八九、お兄様が次期ラ・ウール国王となるでしょう。その本格的な布石というか、準備というか、顔見せのような目的もかねて。……アレでかなり優秀、アレで国を背負って立つに十分な資質を持った傑物なのです。外向きの公務に関してもわたくしなどよりよほど……まぁ……ホント、アレですけど」


 「アレ……だよなぁ」


 「散々迷惑をかけられてきたイチジ様に納得しろというのは難しいでしょうね」


 「……正直この国で一番イカレたヤツだという印象しかない」


 「……廃聖堂での件といい、廊下での蛮行といい、その他もろもろあれやこれやといい、妹として改めて謝罪致しますわ」


 「君が謝ることじゃないさ」


 「どうにもイチジ様を前にすると正気のタガが外れてしまうようなのです。もう、あれは反射的な反応というかパブロフさん家の犬と言いますか……」


 「どこかの異世界転生者と同類か……」


 いや、王子様もヒイラギも訓練されていない天然物だから、条件反射とういうよりただの本能じゃないだろうか。


 「イチジ様個人ではなく妹のわたくしに近づく殿方だからという大義名分があるらしいのですが……最近ではイチジ様のこと普通に嫌ってますわよね。……鬼のように」


 「シスコンお兄ちゃん通り越して、あれはもう単なるサイコパスだと思う」


 「大丈夫。アンナやリリラ=リリス、そしてわたくしがお兄様の魔の手から必ずやイチジ様を守って差し上げますわ」


 「守ってくれるのが全部、年下の女。しかもその内一人は幼女か……」


 「随分とおモテになられるようで」


 「気分は、ナイトに守られるお姫様だよ」


 「よろしければ、このドレス、お貸しいたしますか?」


 「勘弁してくれ……」


 「あら、きっとお似合いですわよ、ふふふ……」



 ボォォォォォン……

  ボォォォォォン……


 俺が苦笑い、アルルが上品な微笑みをそれぞれ浮かべていると、間延びした汽笛が響いた。


 音の方に目を向けると、貨物船だろうか?


 大きな船が一艘、港に向かって真っすぐに海面を滑っている。


 ラ・ウールは商業都市。


 夜に入港して荷下ろしをする船や漁船がいても別段おかしくないはないか。


 「あら?」


 しかし、首を傾げて怪訝な顔をするアルルにとっては引っかかるところがあるらしい。


 「アルル?」


 「ああ、申し訳ございません。見覚えのない船舶だったのものですから」


 「船の側面に描かれているあれは船籍を示すマークかな?」


 「お待ちください……うーん……」


 目を細めるアルル。


 ≪現世界あらよ≫のように街明かりが煌々と灯っているわけでもないので、海は原初の頃からなにも変わらず、深い深い闇に包まれている。


 月は低く、大きく、満月に近いだけ満ちて夜空にかかってはいる。


 しかし、それを背負うように船は進んでくるので、かえってその全体像がぼやけてしまう。


 「あれは……国旗ですわね……どこの?……白地に三本の剣……氷の結晶……でしょうか……。おそらくラクロナ大陸の北方、ケルアックの国旗ですわ」


 「ケルアックって確か≪閃光≫さんの?」


 「ええ、≪空殺し≫でおなじみの」


 「英雄さんの話はもういいから」


 「うーん、ケルアックだとしても海路経由とは珍しい。常冬の気候であるかの国との貿易は立地的に陸路での流通が主なのですが……」


 「それでも、船舶の一つくらい保有してるだろう」


 「……ですわよね。ですが……うーん……」


 「気になる?」


 「……ええ、気にし過ぎなのかもしれませんが」


 「君らしいけどね……」


 まったくもって、アルルらしい。


 その心配はどこまでも彼女らしい、国益を害するおそれのある不穏分子を警戒するセンサーのようなものが敏感に働いた結果なんだろう。


 「……わたくしらしい……ですか……」


 海を眼下に眺めたまま、アルルは自然に黙り込む。


 その整った横顔。

  その冴え冴えとした瞳。

   その月光を反射した髪。


 その生き方、在り方、生き様、在り様……。


 なにをとってもただ美しい。

  どれをとってもただただ美しい。


 ……まったく、本当に君は君のまま変わらない。


 あの日、交番から俺をこちらの世界へと引っ張り込んだ時。

 

 あの日、そのドレスのように真っ白なサクラの花弁が舞い散る丘で名乗りあった時。


 圧倒的に不利な状況にあっても一人、魔獣へと果敢に挑んでいた時。


 燃え盛る街の中で無謀に狂った死にたがりの男を助けに行った時。


 消え行く俺の命を繋ぎとめてくれた時。


 すべてが終わり、傍に寄り添うと言ってくれた時……。


 君はいつでも変わらず強く、真っすぐだった。


 自分の弱さや間違いからも目をそらさず、そんなものすらも糧にして突き進む。


 ついぞ俺にはできなかったことを、常に隣でまざまざと見せつけてくる。


 強すぎて

  正しすぎて

   眩しすぎて

 

 キレイで

  キレイすぎて

   ……遠すぎる

 

 それなのに君は、俺の横にいる。


 交わり合うことのない遠い存在のはずなのに、君はここにいる。


 俺に近づこうとする。

  俺に寄り添おうとしてくれる。


 情けなくて、生き下手で、ボンコツな俺の『生』を呆れもしないで助けようとしてくれる。


 いつまでも変われない。

  変わろうとしても変われない。


 ……俺なんかのために。


 「……アルル」


 「どうしました?」


 ……ならば変わろう。


 「……ごめん」


 「イチジ様?」


 ……ならば応えよう。


 「ごめん。……情けないヤツで、本当にごめん」


 「イチジ様……」


 「この間のこと、まだちゃんと謝れてなかった」


 「……いいえ。気にしておりませんわ」


 「そう言ってくれる君の強さに甘えてた」


 「…………」


 「君の強さ、正しさ、眩しさがあまりにも遠くて……遠すぎて……どこか諦めていた」


 「…………」


 「どんなに頑張っても、どんなにもがいても俺は俺以上にはなれない。変われない。間違っていることを知っていて、どうにかしようと思っていて、それでも全然、変われなくて」


 「……はい」


 「君が羨ましい。俺がどれだけ望んでも手に入れられない本物の強さが……迷って悩んで後悔して……それでも真っすぐに歩んでいく君の本物の『生』に、俺は心から憧れている」


 「……はい」


 「だからこそ、あんなことは絶対に言っちゃいけなかった。死に場所をくれてありがとうだなんて……俺を楽にしてくれてありがとうだなんて、君の気持ちを全部蔑ろにした言葉、絶対に俺は言っちゃいけなかった。思うことすらしちゃいけなかった。裏切った、傷つけた……だからごめん。……本当に、ごめんなさい」


 「イチジ様……」


 俺は深々と頭を下げる。


 眩しさに目をそむけるためではなく。

  情けない自分を晒して助けを求めるためでもなく。


 心からの申し訳なさのために。

  心の底にいつまでも蔓延る自分の弱さと向き合うために。


 俺は、アルルに向かって頭を下げ続ける。 


 「……気にしていません、許します、どうか頭をお上げください……」



 そんな俺に向かって、アルルはあくまでも優しい声色で語り掛ける。


 「そうわたくしが言ってみたところで、あなたはきっと納得しないのでしょうね、イチジ様?」


 「……ごめん」


 「決してわたくしは強くも遠くもない。どこにでもいる単なる16歳の小娘なんだ、と言っても、あなたはそうやって頭を下げ続けるのでしょう」


 「…………」


 「本当に仕方のない人……不器用な人……生き下手な人……どうしようもない人……」



 ポン……



 下げた頭の上に、何か優しいものが乗った感触があった。

 

 「真面目な人……誰よりも人らしく生きたいと願う美しい人……そして……やっぱり、愛しい人……」


 「……アルル……」


 「……そういえば、あの時もこんな夜でしたわね……」


 少しだけ遠くを見つめるような色を帯びたアルルの声。


 それとともに、頭に乗せられた手のひらが、ゆっくり俺の髪を撫でていく。


 「ホンスさんのご自宅の前、静かで、夜風が気持ちよくて、星空が綺麗で……」


 「…………」


 「あの夜に初めて、あなたは自分の心の内をわたくしに聞かせてくれました。……自分は誰かに生かされたから生きている、死にたくても死にきれない、生きたくても生ききれない……生き汚いだけの男なんだ、と」


 「…………」


 「どれだけ生きる場所を変えてみても、異世界などに来てみても、何も変わらない。あなたがあなたのままならば何も変わらない。そしてあなた自身が変える気もない。あなたは過去を背負いたくて背負っているだけなんだ、と」


 「……そうだ」


 そうだ。


 その時の気持ちは今でも正直、変わらない。


 リリーが言ってくれたように、この記憶や後悔を無かったことにはできない、しちゃいけない。


 背負いたくて背負っていることに、何にも変わりはない。


 ……だけど。


 「ですが、あなたは変わりたいのですね?」


 「……ああ」


 「新しい朝日が焼けたドナの街を優しく照らしたあの時……わたくしに仰ってくれたように、この異世界で、この場所で……あなたは変わりたいと思うのですね?」


 「……ああ、変わりたい」


 「生きたいと願うのですね?」


 「……ああ……生きていたい」


 「そのために、わたくしの力は必要ですか?」


 「……必要だ」


 「わたくしは、あなたにとって必要な存在ですか?」


 「……必要だ。君がいてくれなきゃ、困る」


 「……では、わたくしは何をあなたにして差し上げればよいでしょう?」


 「……頼む、アルル」


 「はい」


 「……どうか……どうか……」


 「はい」


 「どうか……俺を……」




 ―― 助けてほしい ――



 どうやら、室内では最後の曲が終わったらしい。

 

 多彩な楽器の奏でる旋律は止み、代わりに人々の騒めきが少しだけ大きくなる。


 ただ、テラスの静けさは変わらない。

  ここにはあくまで俺とアルルの二人しかいない。


 今、世界には俺とアルル、二人しかいない。


 「……当たり前じゃないですの……」


 ギュ……


 下げ続けた頭を包む、甘くて柔らかい感触。


 あまりに甘すぎて、柔らかすぎて。

 優しすぎて、愛しさに溢れすぎていて……懐かしすぎて……。


 最初、俺は何が起こったのかわからなかった。


 この感触は知っている。

  この温もりは知りすぎている。


 そう、これはいつかの記憶。


 たどった記憶の中で、いつだって俺に注がれ、俺を包んでくれたあの感触……。


 「マリ……姉……」


 「あら?ここで他の女の名前が出ちゃうんですの?なんて不作法なんでしょう」


 言葉の割に、実に可笑しそうなアルルの声。


 弾んだ心もそのままに、俺の頭を抱きしめる力が強くなる。


 「……えっと……ごめん」


 「こればかりは許されませんわね。罰としてしばらく黙ってギュっとされていてくださいな」


 「……ご褒美じゃなく?」


 「ご褒美だと思っていただけますの?」


 「そりゃ、こんな美少女の胸に顔を埋めてるわけだしね」


 「ですが、思い出すのはお姉ちゃんの胸、ですか……」


 「それは……その……」


 「わたくし、不愉快です」


 「ごめんなさい」


 「聞きたいのはそんな言葉ではありませんわ、イチジ様……」


 スッとアルルの温もりが離れる。


 ああ、それを惜しいなと思ってしまうところまで、昔の記憶とそっくりだ。


 「わたくしが今、欲しい言葉。おわかりになります?」


 「……ごちそうさま?」


 「……えっち……」


 俺はそこでようやく顔を上げる。


 未だ顔向けができない情けなさは変わらない。

  まだ変わろうと思っても変われないヘタレぶりも変わらない。


 ……だけど、これだけはちゃんと言わなくてはならない。


  顔を上げ、前を向き。


  目の前に立つ、白銀色に輝く少女の目を見つめて、伝えなくちゃいけない。


 「……ありがとう、アルル」


 「ええ、あなたを救って差し上げますわ、イチジ様」


 スッと伸ばされたアルルの右手。


 「わたくしだって、あの時と何も変わりません……」


 一瞬の迷い。

  拭えない躊躇い。


 「あなたを傍で支える役目、あなたの心を癒すマホウ。……それをかけて差し上げる存在で、わたくしはありたい……」


 それでも俺は手を伸ばす。


 血まみれの右手。

  汚さしか残っていてない右手。


 かつて姉が引いてくれた右手

  すべてを手放した右手。


 それをそっと……彼女の右手へと重ねる。


 「生憎、もう今宵の舞踏会の幕はおりてしまいます。それでもすべてが終わった暁には、是非ともわたくしと踊っていただけませんか?」


 「……こんな、色々下手くそな男でもいいのなら」


 「それでは、約束ですわ、イチジ様。……どうかこの戦いを生き抜いて、決して死なないと約束して……」


 「……ああ、誓うよ」


 「そして、今度こそ……ラスト・ダンスをわたくしと……」


 ああ、誓おう。


 神に仏に、なにもかにもに、心から誓おう。


 またしても俺を死なせてくれない約束ができた。


 生き汚くても、生き下手でも。


 違えてはいけない約束ができた。


 だけど、なんだろう……。


 同じように俺の命を縛る言葉であるはずなのに、少しも苦しいとは思えない。


 むしろ、その誓いがあるからこそ……。

  むしろ、この約束の重さがあるからこそ……。


 この先も生きていこうと、生きていきたいと……。


 強く、強く、思える気がする。




 バァァァァァァァンンンン!!


「え?」「ん?」


 喧騒の合間を縫って、会場内から聞こえてくる大きな音。


 俺もアルルも、思わずそちらに顔を向けると、会場の入り口付近の床の上に転がる男がいた。


 肩どころか全身で絶え絶えの息をしている様子から、体力の限界を越えてここまで走り続け、そのまま転がり込んできたという感じか。


 「な、何事です?」


 「入り口のドアが開いた音みたいだけれど……」


 「あれは、諜報部の腕章……イチジ様!!」


 「うん、いこう」


 何かを察したアルルとともに、室内へと駆けこむ。


 諜報部……探査や情報収集など影仕事を主にしている部署だろう。


 その隊員が、こんなに堂々と……他国や貴族のいる場に駆け込んでくるだなんて、それだけで異常な事態だ。


 ……嫌な予感しかしない……。


 「も、申し上げます!!!!」


 かすれた声を振り絞り、男が声を上げる。


 「どうしましたの!?」


 「て、帝都にて、へ、陛下が!!陛下がぁぁぁ!!」


 「……え?」


 「陛下の身柄が!!逆賊の手によって拘束されましたぁぁぁ!!!!」


 「っな!?」



 ―― ほぉ、なかなか耳も足も早いじゃないか、ラ・ウールの諜報部は ――

 

 

 ズパァァァァァァァァンンンン!!!!



 水気を含んだナニカが弾ける音。

  一つの命が霧散し、辺りを真っ赤に染める音。


 その不気味で不快で不吉な音が。

  だけど俺にはずいぶんと聞き馴染みのある音が。


 結果として華やかな舞踏会の閉幕を知らせる鐘となり。


 ……そして。


「……寿命がくるのも早かったみたいだがな……」



 待ち受ける戦いの凄惨さを予感させる、血なまぐさい開幕の合図となった。

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