マジカル・ビート・タクティクス ~異世界ってこうですか?~

@YAMAYO

プロローグ~ ARAYO side ~

 知る人ぞ知る……もとい、呼ぶ人ぞ呼ぶ≪現世界あらよ≫という世界。

 

 そんな世界のとある小さな島国のとある小さな都市。

 

 乱立するビルディングの連なりに埋もれたようなとある小さな繁華街の一角を、更に小さく小さく肩身狭そうに担うコンビニエンスストアの店内に視点は向く。

 

 時刻は深夜、舞台はレジ。

 

 仕事をこなすでも人生を生きるでも、いかにも要領が悪そうな青白い青年と。

 

 仕事も人生も行き当たりばったりで刹那的、いかにも要領の良さだけでどうにか誤魔化して生きてきたような、こちらも不健康に痩せ細った男が対面している。

 

 「あ、い、いらしゃいま……」

 

 「あと、タバコ二つ」

 

 「え?あの……」

 

 「タバコ二つ。いつも買ってるやつ」

 

 「いえ、あの、す、すいません……。いつものと言われましても……えっと、何番のも……」

 

 「(ちっ)新人かよ、めんどくせぇ。……それ、15番。ボックスのやつだから。覚えといて」

 

 「あ、はい、すいません……」

 

 「だから、二つだってば」

 

 「あ、は、はい。すいません……」

 

 「(ちっ)……あと、弁当のあっためとかいいんで早くして」

 

 「あ、はい。かしこまりました」


 ピ……ピ……ピ……ピ……ピ……


 「では、こちら年齢確認のボタンを……」


 「ピ。(無言で)ああ、ポイント全部使って?」


 「あ、はい。かしこまりました。ではポイントが156円分ご利用……」


 「は?150?」


 「え、あ、はい。ポイントの残高が156ポイントですので、そちらを……」


 「いやいや、ないない。有り得ないし」


 「え、あ、え?」


 「ないないない。俺、こういうポイントとか貯めとくタイプだし、このカード作ったの半年も前だし、ここに週四ぐらいできてるし、いっつも千円ぐらい使ってるし。もっとあるよね、ポイント?」


 「え、あ、いえ」


 「早く」


 「あ、いえ、でもお客様……ポイントがなくて……」


 「は・や・く」


 「あ、いえ、は、はい、え?え?」


 パニックにおちいる青年。

 露骨にイライラしている男。


 どちらにとっても、落としどころも出口も見えない膠着状態が続く。


 青年は救いを求めて無意識に視線を巡らせる。


 しかし、生憎と今は深夜時間帯。


 その混乱した目に映るものといえば、次の週から始まるキャンペーンの告知POPの派手さや、昼間に比べて大分スペースが空いた陳列棚のもの悲しさだけ。


 この均衡へと介入してくれるような救世主候補の姿は一人も見当たらない。


 覆りようもない現実に絶望した青年のパニックに拍車がかかる。

 

 

 仮に誰かがいたとしても、いらぬ厄介ごとに巻き込まれまいと傍観を決めこむ者が大半であるだろうし。


 そもそも店員がクレーマーに対して別の客を当てにすること自体、根本的に間違っているのだと青年は気が付かない。

 

 おそらく、このまま仕事が終わり、帰宅すると同時にパソコンの電源を入れ、インスタント麺をすすりながらこのクレーマーのことをネット掲示板で口汚く罵って憂さを晴らすであろうその辺りの甘えが、自身の人生を息苦しくさせている要因の一つだということにも、彼はまったく気付いていない。

 

 有線放送から流れているのは青年の好きな女性アイドルグループの最新ポップス。

 

 軽快なメロディーラインと、友人の甘酸っぱい恋模様を第三者的な立場から応援するような歌詞は皮肉にも、弱気になっている今の彼を鼓舞するにはうってつけのものではあった。

 

 しかしながら、そんなメッセージを聞き取る耳も、染みこませる心の余裕も、青年は持てないでいる。

 

 「申し訳ございません。どうか致しましたでしょうか、お客様?」

 

 店内BGMの間を縫って澄んだ声が響く。

 

 「あ、どうもこんばんわ。いつも当店をご利用いただきありがとうございます」

 

 毒気も嫌味もまるで含まない、救世主に相応しい爽やかな声。

 

 深々と垂れた頭から、キレイに結い上げられたツインテールがつられて垂れさがる。

 

 「今日も夜遅くまでお仕事お疲れ様です」

 

 「あ、いや、どもっす……」

 

 クレーマーの男も思わずたじろぐ大きな笑顔。

 

 これほどまでに素直な感謝を述べられた経験はあまりなかったし。

 

 これほどまでに真っ直ぐ笑顔を向けられ、日々の労働を労われた経験など親や恋人からでも皆目ありはしなかった。

 

 それも相手は飛び切り可愛い女の子。

 

 いかにも清純そうな雰囲気と、それに似合わぬたわわな胸のギャップ。

 

 難を言えばもう少しだけ背が高い方が好みのタイプだったが、顔が可愛くて性格が良くておっぱいが大きければ、身長など微々たる問題だった。

 

 「それでお客様?何か不手際がございましたでしょうか?」

 

 「いや……ポイント使おうと思ったんだけど、150しかないって言われて……」

 

 「ポイントですか?申し訳ありません、ただ今履歴の方を確認させていただきます。……レジ代わってもらってもいいですか?」

 

 「あ、はい、ど、どうぞ」

 

 「すいません。……(ピ、ピ、ピ)……」

 

 「…………」

 

 「…………」

 

 レジを操作する彼女とそれを見つめる若い男二人。

 

 成人男性として平均的な身長の彼らではあるが、こうやって挟み込むかたちになると、より彼女の小柄さが際立ってしまう。

 

 しかし、この場を支配していたのは紛れもなくこの小さな少女。

 

 気弱だろうが気難しかろうが。

 要領が悪かろうが良かろうが。

 

 彼女の放つ存在感から、誰一人として場の主導権を奪うことはできない。

 

 「……はい、大変お待たせ致しました」

 

 然るべきのち、彼女が口を開く。

 

 「申し訳ございません、お客様。履歴をお調べしたところ、やはりポイントの残高は156ポイントとなっております」

 

 「え、だって、俺、使ってない、けど。……毎日、通ってるのに……」

 

 「そうですね……」

 

 いつの間にか週四から毎日になっていることに気弱な青年がその気弱さゆえに目聡く気が付きはしたが、彼女は別段気にした様子もなく、少しだけ考える仕草を見せる。

 

 「もしかすると、お客様?車のガソリンを入れる際にこちらのカードをお使いになられませんでしたか?」

 

 「……いや、そんなこと……あれ……どう、だった、かな……」

 

 自分のことながら確信はなかった。

 

 しかし、核心を突かれた気分にはなった男がしどろもどろになる。

 

 そういえば、手持ちが心もとなかった時にラッキーと思って使ったような使わなかったような……?

 

 「そしてお客様は毎回おタバコも一緒にお買いになられますよね?当店ではタバコ・切手・はがき、そして公共料金のお支払いではポイントを付与しないという決まりになっておりまして、お客様が思われているよりもポイントが貯まっていなっかったのではないかと」

 

 「ああ……」

 

 と言われても、カードを作る際の注意事項など端から聞き流していた男にはまるでピンとこなかった。

 

 それでもチラリと目に入ったカウンター前のPOPには、確かに彼女が今述べたことがそのまま書いてあった。

 

 「そう……なんだ……」

 

 「御納得いただき、ありがとうございます」

 

 わざわざ確認しなくとも、割と常識といっても過言ではないこのルール。

 

 しかしながら、彼女はそれを追求したりすることはせず、変わらぬにこやかな態度で接客を続ける。

 

 「それではポイントのご利用限度は156円分となりますが……端数分だけでもお使いになられますか?」

 

 「じゃぁ、それで……」

 

 「はい、では98円分差し引きまして、合計で1400円になります」

 

 「えっと……はい……」

 

 「お箸はいつものように二膳でよろしいですか?」

 

 「……はい……」



 ………

 ………

 ………


 

 「す、すいません、夏目(なつめ)さん……」

 

 「いえいえ、勘違いなさるお客様って結構いますから」

 

 無事、ことなきを得たところで、青年は少女に向かって頭を下げる。

 

 それでも彼女は、さきほどのクレーマーと対処した時と同様に笑顔を崩さない。

 

 「で、でも僕……慌てちゃって……」

 

 「モリグチさん、入ったばかりですもん。仕方ありませんよ。私だって入りたての頃はもっと慌ててもっともっと大きなミスをしたことだってありますし」

 

 「で、でも……」

 

 「そんなわけで休憩代わりましょう。ご飯を食べて、気分を換えて、そしてまた一緒に頑張りましょ。ね?モリグチさん?」

 

 ニッコリと笑う彼女。

 バイトでのキャリアが上だとはいえ、何歳も年下の女の子に励まされている自分が情けない。

 

 「え、あ、はい。……それでは休憩、いただきます……」

 

 がっくりと肩を落としながらバックヤードへと下がっていく青年。

 

 元来から卑屈な性格ではあるが、彼女の憂いのない明るさが一層眩しく見えてしまう。 




 「……ふぅ……」


 憂いがない?


 そんなわけはなかった。


 いくらクレーマーへの対処に慣れていても、年上の同僚の繊細な性格を知って傷つかぬよう優しくフォローができても。


 彼女……夏目ミカンは花も恥じらうティーンエイジャー。

 どこにでもいる普通の女子高校生だ。


 溜息の一つ二つ、悩みの三つ四つ、あって然るべきだろう。



 ―― ミス……か……。怖いよね、パニックにだってなるよね…… ――


 懐古するのはもう、遥か昔。


 このアルバイトを始めた二年前の自分など、心も体も成長著しい十代のミカンからすればまるで太古の出来事のように思っても決して大げさではないだろう。


 ―― あの頃は本当に辛くて、毎日めそめそしてた…… ――


 自他共に認める人見知り。


 根っからどんくさくて、些細なことで取り乱す弱い心。


 いまだって自分に接客業が向いているとは到底思えない。

 

 学費や生活費の一切を自身でまかなわなければならないという事情がなければ、年齢を胡麻化してまで深夜のコンビニバイトなどに従事する理由はなかった。


 ―― ……あの時も泣いちゃったんだよね…… ――


 その日もミカンはポカをし、客をひどく怒らせてしまった。

 

 ミス自体は些細なものではあった。

 

 弁当を温める際に、うっかり容器に貼り付けている付属のソースごとレンジに入れてしまい、その袋が破れてしまったのだ。

 

 すぐに交換しようとしたミカンだったのだが、何故だか女性客はそれを許さない。

 

 同じフライ定食が三つ並ぶ中で時間をかけて吟味し、揚げ物の衣の具合、白米のツヤなど選びに選び抜いた末に手に取ったものだったそうだ。

 

 ライン製造のコンビニ弁当に個体差を求める客も大概だとは思う。

 

 しかし、ミスはミス。

 

 ミカンがちゃんと注意していれば何事もなく、この三十代前半かと思われるどこか全身に諦観めいた疲れをまとった女性客は、発泡酒を片手に自分の厳選したエビフライへと満足して齧りつけたハズなのだ。

 

 結局、しばらくワーワーとヒステリックに捲し立てたまま女性客は何も買わず店を後にした。

 

 残されたミカンは、当時一緒にシフトを組んでいた先輩の励ましにも立ち直ることができず、その頃はもはや仕事あがりの行きつけとなりつつあった近隣の公園のベンチの上で膝を抱えた。


 ―― ううう……我ながら情けなかったな…… ――


 未だ成熟とはほど遠いところにある自分。

 その未熟さに更に輪がかかっていた当時を振り返ると、羞恥のために膝どころか頭を抱えたくなる。


 ―― ……でも…… ――


 でも……とミカンは思う。

 

 身も心も擦り切れそうな毎日の中で、そう、接続して語られるべき続きがあった。


 ―― おかげであの人に会えたんだよね…… ――


 それはミカンにとって何よりも大切な思い出。

 

 常に明るくて元気で、何事にも前向きに取り組むことができるようになった今のミカンを作り上げるきっかけをくれた大事な出会い。


 ―― ……イチジさん…… ――


 立神一たちがみいちじ……彼のことを考えてほんのりと温かくなった胸にミカンは手を当てる。

 

 別に大仰なロマンスがあったわけではない。

 

 むしろ出会い方としてはトキメキよりもドドメキと言っていいぐらいに騒がしくて滑稽なものだった。

 

 だから自分は変わっているのだと思う。

 

 泣いている女の子の傷心に、あんな無神経にズカズカと踏み込んできた男に淡い憧れを抱ける女は他にいないと思う。


  ……そう、自分は他の人とは明確に違う。

 

 ―― ……イチジさん…… ――


 彼を想って胸を疼かせたのは何も甘いものばかりではない。


 困惑……それがミカンの端正な顔立ちを少しばかり歪ませる。



 ―― あなたは確かにココにいたハズですよね? ――



                 @@@@@



 ハッキリとした日時で言い表すことはできない。


 それでも『立神一』というコンビニの隣にある交番に勤めていた警察官が忽然と姿を消した。


 ……正確には姿だけではない。


 面識があるはずのコンビニのオーナー。

 一緒に働いていたはずの他の警察官たち。


 他にもミカンが知る限り、立神一と少なからず関わり合いを持っていたであろう人たちの誰一人、彼のことを覚えていなかった。


 ど忘れ?記憶違い?

 いいや、そんなレベルではない。


 覚えているとかいないとか。

 忘れたとか忘れていないとかいう次元の話ではない。


 これは抹消。


 『立神一』が関わったであろう記憶や言葉、携わってであろう事件・案件の類は、他の人物のものとしてすり替わっていたり、ヒドイものでは初めからなかったことになっていた。


 そう、『立神一』なる感情表現の乏しい男の存在は、完璧に、完全に人々の中から消されていた。


 ―― 人が一人……しかもお巡りさんが行方不明になったっていうのに、誰も騒いでいないなんておかしいよね…… ――


 かく言うミカンにしても『立神一』の消失に気が付つくのは大分遅かった。


 あれほど大切にしていた彼との思い出。

 これほどまでに胸を締め付ける彼の言動や仕草の一つ一つ。


 そのすべてが薄っすらと膜がかかったようにボンヤリと曖昧なものになっていたことが最初の引っ掛かりだった。


 なんだか気持ちが悪かった。

 妙に居心地が悪かった。


 自分の留守中に何者かが部屋へと侵入し、家具や置物の位置をほんの数ミリだけズラしていったような、そんな違和感みたいなものを抱いた。


 ミカンは違和感の正体を探り続けた。


 朝目覚めてから登校の準備をする間。

 学校に辿り着くまでの電車の中。


 授業中、休み時間、放課後。

 掛け持ちするバイトの狭間。


 帰宅、食事、入浴、明日の準備、僅かな自由時間、就寝前……。


 控えめに言っても多忙な毎日。


 それでも彼女は時間を見つけては自分の内側にあるモヤモヤと差し向かいで向き合った。


 そのモヤモヤの奥にくぐもって見える誰かがどうしても気になって仕方がない。


 何か大事なことを忘れているのではないか?

 何よりも大切なものを不当に奪われたのではないか?


 特別、魔法のような力が備わっておらずとも、多感な年頃の乙女の直感が、違和感を違和感のまま放置させなかった。

 


 そんなミカンの執念が実を結ぶのは、それからしばらく経ってからのこと。


 

 学校も二つのアルバイトもなく、久しぶりの完全休養。


 ミカンは一人暮らしのアパートの部屋を掃除していた。


 日頃からこまめに片づけてはいたので殆ど汚れてはいなかったが、ちょうど春から夏になる衣替えの季節。


 クローゼットの中から夏物を引っ張り出す作業をしている時、明らかに紳士物であろうTシャツが一枚、チェストの引き出しから出てきた。


 ミカンは首をかしげる。


 自分の部屋に着替えを置いていくような恋人などいなかったし、父親とも兄弟ともわけあって疎遠状態。


 男物の衣類が紛れ込むような余地はまったく考えられなかった。


 おもむろにTシャツを広げる。


 いくら豊満な胸を持っていたとしても、やはり彼女が着るには大きすぎる。


 生地は綿。色は白。


 肌触りにしても縫製にしても若干あらく、そこらの量販店のセールワゴンから適当にひっ掴んできたような安物。


 個性的なのか没個性的なのかよくわからない、そもそも何を描いているのかわからない絵柄のプリントの上に、崩し気味の文字で書かれた英文。



『STAND A LITTLE TALLER』 

 


 ―― 『ちょっとだけ高く立ち上がれる』か…… ――


 自然と頭の中に響いてくる、低くて心地の良い声。

 

 「っ!!」

 

 ミカンは体に電流が走っていくのを感じた。


 ―― 俺なんかよりも、君にこそ相応しい言葉だ ――

 

 「イチジさん!!」


 電流は閃いた紫電のごとく、一瞬にしてミカンのモヤモヤを霧散させた。

 

 どうしてこんな大事なことを忘れていのだろう?

 どうしてこんな大切な記憶を失っていたのだろう?

 

 忘れてはいけなかった。

 失ってはいけなかった。

 

 どれだけ年老いても決して忘れたくなかった。

 どれだけ月日が流れても絶対に失いたくはなかった。

 

 あの薄暗い夜のことを。

 あの冷たい雨のことを。

 あの無骨な手の平を。

 あの温かな気持ちを。

 

 私は一生涯、この胸に抱いていくのだと誓ったはずなのに……。

 

 「ごめんなさい、イチジさん……ごめんなさい……私……私……」

 

 ミカンはポロポロと涙を落した。

 

 あなたのことを忘れていてごめんなさいと。

 あなたへの想いを忘れていてごめんなさいと。

 

 ……もう二度と。

 

 ちょっとやそっとのことでは泣かないと約束したのに、泣いてしまってごめんなさいと。

 

 ミカンはイチジから借り受けたままチェストに大事にしまっておいたTシャツを掻き抱きながら謝り続けた。

 

 今だけは泣くのを許してくださいと大粒の涙を流しながら懇願した。

 

 

 だってイチジさんのことを忘れていただなんて、ちょっとやそっとのことじゃないんですもん。

 今だけは気のすむまで泣かせてください。

 泣いて、泣いて、泣きつくさせてください。

 それからです。

 それから頑張ります。

 ちゃんと、泣く前よりちょっとだけ高く立ち上がりますから。

 だからごめんなさい……今だけは……。



 夏目ミカンは泣いた。


 涙の量が多ければ多い程、高く、強く前を向けるのだと信じて。

 


              @@@@@ 

 

 

 ―― うん、間違いない。イチジさんは確かにここにいた…… ――


 業務をこなしつつ、別の回路でも使っているみたいにミカンは並行して立神一のことを考える。

  

 ―― 誰も覚えてないし、何の形跡もない。キレイさっぱりイチジさんがいたっていう証拠が消えてる……不自然なくらい、徹底的に…… ――


 ―― なのにどうして私だけは覚えてるの?曖昧なものであっても、なんで私はイチジさんの記憶が残っていたんだろ? ――


 ―― どうして……どうして……どうして…… ――


 ―― ……ううん、そんなことはいい。そんなこと気にしちゃダメ ――


 ―― どうしてこんなことになったのかとか、なんでとかは今はいらない ――


 ―― 私がタチガミ・イチジっていう人がいたことを信じていること ――


 ―― それが大事なんだ ――


 ―― 最後にイチジさんに会ったのはいつ? ――


 ―― 日付は覚えてない。……でも確か春先だった ――


 ―― そう、確かダストボックスからヒラヒラした服を着た女の子が飛び出してきて……それで、イチジさんを呼んで……そのまま交番に引き渡して…… ――


 ―― うん、うん。そうだ、その時だ。その時から先、私はイチジさんに会ってない ――


 ―― あの女の子のことが気になって、シフトが明けたら交番に顔を出そうとして…… ――


 ―― それで……それで……うん、そこから…… ――


 ティンドンティンドン……


 「いらっしゃいませぇ~」


 ―― ……なんとなく、あの子がカギを握っていそうな気がする ――


 ―― とはいえ顔が朧気で、やっぱりモヤモヤしたまま…… ――


 ―― 外人さん……だったかな?キレイな色の髪をしていたような……でも、服装が服装だし、どこかのコスプレイヤーさんかもしれないし…… ――


 「うーん……」


 そこまでが、普通の一女学生であるミカンの頭で考えられる限界だった。

 

 いや、人騒がせなゴスロリ少女こそ立神一消失の大きな要因であるというところまで自力でたどり着けた思考力は実に素晴らしい。

 

 やはり、立神一……本人に自覚はないだろうが、彼の周りに集まってくる人間は極めて面白い人材ばかりのようだ。



 ……ふむ……興味深い。


 

 ―― 会いたいな……イチジさん…… ――


 ―― 一体あなたは今、どこにいるんですか? ――


 「すいません」

 

 「あ、いらっしゃいませぇ~」

 

 「一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 

 「はい、なんなりと」

 

 ミカンは己の内なる苦悩などまったく滲ませない素敵な笑顔を浮かべてそう答えた。

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