8-2 たとえ、ひと時でもいい。

(同情なんか、するものか)アイラは這いつくばったルシュディを見下ろした。


(ようやく、分かった。ルシュディ王子が何を行ったのか。ルシュディ王子は、母を殺せと邪悪に願ったんだ。そのために、ヴィーリビアの秘宝を使ったのは……多分、憎らしかったから。大切な母を変えた元凶だから)


 腹立たしい話ではある。あまりにも哀しい顛末だ。


 それでも、アイラにはあの美しい秘宝の声が聞こえる気がした。もしかしたら、この石を持ちだした人間も、闇に染まっていたのかも知れない。


 闇に染まりし王子の心の痛みを秘宝〝コイヌール〟は受け止めたいと思ったに違いない。不思議とそう考えたほうがしっくりくる。


(女神さまの手にある石だもの。だからあたしの、憎む気持ちは間違っている。同情じゃない。秘宝を奪われ、汚された。民も奪われた。この男に同情はしないししてはいけない。でも……今闇の精霊王はルシュディに抑え込まれていたと言った……。ルシュディは、ラティークを大切にしていた。ラティークだって、ルシュディが元に戻ると、優しい兄に戻ると信じていた。見間違ってはだめ。この話は憎しみだけでは解決しない!)


 足元が水の色に満たされ始めた。


(……地下から、何か。伝わってくる)


《見ろ、おまえたちのせいで、せっかくの傀儡が壊れた。精神が使い物にならん》

 闇の王の言葉などに構っている暇はない。〝ただの石っころ〟で呼び出された闇の声より、もっと見失ってはならないものがある。


(分かったよ、お兄。戦うよ、水の精霊を愛し愛された王女として!)


 でも、一人は心細い。地下から感じる水の気配に髪を戦がせ、アイラからラティークに手を伸ばし、初めてぎゅっと手を繋いだ。


「手を離さないで。分かったの、今、あたしのするべきこと。のんびり寝たくってる、水の精霊はあたしが叩き起こす! 怒鳴り散らしてやるのよ! でも、貴方にいて欲しいの。魔法で、助けて。二人で、願おうよ。――この国に水と愛を呼び戻そう」


 ラティークは驚きつつも、笑って強く手を握って囁いてくれた。


「きみって人は。では僕も、できる限りの協力をしよう。アイラが心から、水の精霊に愛されるように。愛しているよ。終わったら僕の妃になれ」


 ぐいと顔を向けられ、(なんだ)と思う暇もなく、強烈な口づけを受けた。

(こんなときだけれど、こんなときだから)アイラは強く頷いて涙一杯に叫んだ。

〝僕の妃になれ〟――もう無敵。何だか分からないけど、絶対無敵。


「呼ぶよ。んんー……」アイラは大きく息を吸った。


「起きて! 起きろって言ってんのよ! 地下で祈ってる巫女の声、聞こえてんでしょ! あたしたちは、弱腰のあんたのために祈るの? ウンディーネ樣!」


 水の波動が押し寄せた。

《危険だな。あの女が来る前に殺すか》闇の精霊がアイラに手を翳した。


「させるかよ!」とシハーヴが飛び出し、闇の王に激突した。子供から少年の姿に戻って、息も絶え絶えに立ち上がろうとする。しかし、シハーヴは崩れ落ちた。


「肝心なところで、魔法使え、おまえ、命令しない……勝手に……動くと違反……」


 ラティークの腕の中で虎に戻ったシハーヴは動かなくなった。ラティークが俯いた。


(……泣いては駄目。みんな、絶望に染まってしまう。呼び続けるんだ! 巫女のプライドと、ラティークへの愛に誓って!)


「たとえ闇に世界が包まれても、あたしだけは、希望を捨てやしないわ! あたしがあたし自身で契約する! それなら文句ないでしょ! 美味しいモノ食べて、元気いっぱいのこの王女のどこにもいちゃもんは言わせない!」


 声は何も聞こえない。やっぱり、駄目……と心が折れかけた。その時。


(うふふ、人間にそのまま降臨? 聞いたことないわよ、そんなの。面白そうね。やってみましょうか。貴女となら、できそう、水の子供)


 アイラの中に緩やかな、優しい笑い声が響いた。


 ――やっと、来た。目を瞑った。(さあ、どんとこい!)と全身を預けるつもりで、両腕を開いた。視界は弾ける水の飛沫に覆われた。水に潜った時のように、泡が次々アイラを素通りしては飛び出していく。


 やがて、飛び出した泡は一つに集まって、まず倒れたシハーヴに優しく覆い被さり、ルシュディをも包んだ。最後にラティークを包んだ。あとで、でんと仁王立ちした。


 アイラは包まなくていいらしい。


 背が大きく、胸がささやかな女性の姿で水の精霊王はアイラの前に現れた。アイラはきょとんとして、とても見覚えのあるコロコロ笑う女性に、今度は雄叫びを上げた。


「げ! お母さま! な、なんで、お母さまが……っ!」


 ヴィーリビアの王妃生活を満喫するアイラの母親は、とても良くアイラに似ている。恐妻と読み替えるほどの立派な王妃として君臨しているはずだった。


(なんでこんな場面でお母さま? か、格好がつかないじゃないよ……っ)


 おろおろとアイラは王子二人を窺った。二人は呆然と水の精霊王を見詰めるばかり。アイラの思惑など関係ないとばかりに、水の精霊はパン! と拳を打った。水飛沫をまき散らせて優雅にコロコロ笑った。


「ほほほほ。参りますわよ。闇の……んー、どちらさまでしたかしらね? あら、失礼。ほーほほほほほほほ」


(父との痴話喧嘩の後の母さまの態度にそっくりなんですけど……)


「母さんだ……」ラティークは聞こえるか聞こえないかで呟き、はっとルシュディに振り返った。


「分かった。兄貴、呼び寄せたヴィーリビアの巫女たちに水の精霊王を呼ばせていたんだ。水を呼び戻すより先に、救ってくれる存在に気付いていたんだな」


 ばしゃんと水飛沫。激しく穿った水音に、倒れていたルシュディが薄目を開けた。


 ラティークはまっすぐに闇と水を見詰めた。


「闇に水は勝てない。不幸が愛に勝ることはない。何が正しいかなんて、分からない。だけど、これだけは言えるよ、アイラ。信じてきたものに、間違いはない。僕は兄貴を信じた。きみは、秘宝と民と、精霊たちを信じて来た。結果だよ」


「うん……なんだか、強そうなの、起こしちゃった……なんで、最強のお母さま……」


「え? 僕にはアマルフィ母さんに見えるけど……あの物腰、そっくりだ。逢えた」



(それって……水の精霊王がそれぞれの母の姿に見せてるって話だよね? ラティーク、なんて嬉しそうな顔をするのだろう……ラティークが泣いてる)



 例え一時でも。逢えなかった母親を見るラティークの眼はどこまでも穏やかだった。



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