箱庭世界

北野坂上

第1話 出会い

 その日は、昼過ぎから雨が降り始めていた。生憎傘を持ち合わせておらず、とっさに見つけた喫茶店に駆け込んだ。


「いらっしゃいませ。お席は自由です。」

「…わかりました。」


 肩を濡らし嘆息する、そんな私はしがない作家である。ジャンルを定めていないこともあるが、売れていない。そんな訳で書いている時間の外は本当に暇であるから、街に出てアイデアを探るのが日課だが、本日は準備が散漫であった。すぐ近くに、と思っていたが、予想以上に雨が急に降ってきたものだから参ってしまう。


 今日の散策で行こうと思っていたのは、とあるアパート。一昨日自殺者(男性)が出たらしく、素相がほとんどわからないらしく、それを掴むためか、ぱらぱらと報道陣がいると聞き、いきさつ等を聞いてみようと思い立ったのだ。


 死んだ彼とは面識はない。関係無いくらいがちょうどいいのだ。少しでも面識があるとためらうものだろう。いや関係無くともためらうものだろうと思う。…思うが、それより興味が勝ったといえる。さしずめ食い物に集る蠅である。題材欲しさに集る弱弱しい蠅は雨に負け、落とされてしまった訳だ。


 落胆の色を隠せず、ムスッとした顔で店員を呼ぶ。

「ブレンド。」

「はい、かしこまりました。…ブレンド1。」


 雨に濡れる街を眺めながらコーヒーが来るのを待つ。思えば、何も得られぬままコーヒーを飲みに来た訳ではない。しかしこの雨では、とはいえ止むまで待つのも忍びないかな、と考えを巡らせる。


「はい、ブレンドです。」


澱みかけていた思考から解放されるほど良い苦み。落ち着きを取り戻しつつ、今後の予定を考える。しかし思いつかない訳だが。そんな時、見知らぬ白髪の男がおもむろに近づきて来て、向かいの席に座ってきた。こきたない訳ではないが、清潔とは言い難い外装の彼を訝しそうに見ていると、彼が声をかけてきた。


「あなた、作家さんかい?」

「…一応そうですが、なぜわかったのです?」

「ムスッとしたり、悩んでいたり、そういう人は物書きって相場が決まっているのさ」

「…そんなもんですか」


釈然としないやり取り。折角コーヒーで気分良くなったところにこれか、と機嫌を損ねた頃、おもむろに男がボロボロのノートを差し出した。何だろうか。


「それは?」

「…これは、あの自殺した男が書いていた日記だ。ほら最近ニュースになったでしょ。」


名前欄に記されていた文字は確かに死んだ彼の名前だった。


「でもなぜあなたがそんなものを…警察、何より家族が欲しい代物でしょうに。」

「…俺が託されたんだよ。」

「直接?」

「そうだね。彼とは偶に遊ぶ仲だったからな、最近元気ねえなと尋ねたとき、これを渡されたんだ。」

「彼はその時何と?」

「『これを託します。あなたには私のすべてを知って欲しい』…だったかね。細かいところまでは忘れてしまったよ。なんせ唐突だったからな。」

「もう読んだんで?」

「…読んだ。読んだんだが…。」

「…ん?」


ペラペラと話す印象だった男がどもったことに驚いた。しばし間があく。薬缶のカタカタ鳴る音のみ響く。


男は話を続ける。


「これは俺だけが読むべきじゃないと思ったんだ。もっと色んな奴に読まれて欲しいって。そこでな、内容を本にまとめたいと思ったのさ。なんせ書いたことも無いからさ。脚色入れながらでも書いてくれる奴いねぇかなと思ってたところに、あんたがここに来たってわけさ。どうだい、一つ引き受けてはくれまいか。」

「…私で良ければ。対価は?」


仕事の少ない私に迷いは無かった。しかし仕事になるかもわからない為か自然と言葉は濁ったものになった。対価を求めるとは浅ましい…。


男はしばし考える仕草ののち、口を開く。


「俺に最初に読ませろ。」

「…売り物にならなくてもいいですか?」

「そうだな…なって欲しいけど、最初に読ませるって約束してくれりゃそれでいいわ。」

「わかりました。連絡先は?」

「…神里かんざと。ここらにこの苗字そんなにいないから、電話帳で調べるといい。」

「承知しました。ではこれは確かに預からせていただきます。」

「じゃあ、頼むわ。俺、ここのサ店よく来るからさ。良かったらまた会おうや。」

「…わかりました。お気をつけて。」


 神里の背中が遠のくのをじっと見つめ続けた。彼は何者なのか全く聞けなかった後悔が徐々に襲ってくる。これだから売れないのかもなぁ、と悲哀にくれながらも、託されたノートの中身が気になる。これは予定変更である。家に帰って、読み漁ろう。

 

 雨は未だ強く降っていたが、居ても立ってもいられず、お代をテーブルに置いて家に向かって駆けた。濡れていることさえ忘れるくらい、ノートが気になってしょうがない。一昨日死んだ彼はノートの中で息づいている、と感じられた。彼が私を動かしている。そんなことをふと思った時、私の背筋は瞬間に凍った。これから待ち受けるものがどのようなものなのか、少しだけわかった気がした。








 

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