第4話

 庭を抜けた先、屋敷の扉をゆっくりと開くアリシア。玄関に当たる広間には、数々の調度品が飾られている。壺も皿も絵画も、どれも異国の物ばかり。決して簡単に手に入るものではなく、相当な価値があることを、アリシアは見抜いていた。

 ふと、彼女は視線を感じる。どこから来るものなのか……咄嗟に上を見上げるが、そこには天井しか見えない。

「だ……誰だ、貴様は! どうやって屋敷に入ってきた!」

 大きな声が聞こえ、正面の階段から、一人の男が降りてきた。身長はアリシアよりも低く、腹の出た中年のおじさん――だが、身につけるのは一級品の絹を用いた服であり、それが身分の高さを証明していた。

 ――これが領主様ですか……わかりやすくて助かりました。

 アリシアは、相手の正体に気づき、優雅にお辞儀をする。

「初めてお目にかかります。私の名はアリシア――〈辺境法務官〉でございます。ここまでは実力行使でお邪魔しました。話を聞いてもらえなかったもので」

「お前のような小娘の名前など知るか! 何が辺境ほう、む……かん、だ? 辺境法務官?? す、すすす〈ストレイ・ドッグ〉?」

 アリシアは、領主の言葉を聞き、眉間にシワを寄せた。彼女は、自分たちのあだ名――〈ストレイ・ドッグ〉という呼び名が心底嫌いだからだ。

 辺境法務官――それは帝国法を普遍のものとするため、新皇帝が作った役職だ。法律がきちんと機能しない、帝都から離れた地域に派遣され、法と秩序を守る者。

 だが、各地を転々とし、帝国法を押し付ける辺境法務官は地方の権力者に嫌われている。

 フラフラと帝国領内を歩く様を指して、皇帝の狗ならぬ、〈皇帝の野良狗〉と呼ぶ者は少なくない。

 アリシアの不機嫌に気づき、領主はすぐに自分の言葉を訂正した。

「これは……大変申し訳ないことを! いや、今のはそういう噂を耳することが多いせいで――いやいや、私は決してそのようには思っておりませんよ!」

 ひどい言い訳である。もう少し言い繕う方法もあるはずだが、彼は今、心中穏やかではないのだ。自分を〈裁定〉できる存在が目の前に現れた……それだけで、領主が動転するには十分な理由だ。

「気にしておりませんわ。ようやくお目にかかれたのですから。今日は挨拶のために伺いました。しばらくこの街に滞在しますので、よろしくお願いいたします」

「た、滞在? いやぁ、それなら部屋をご用意しますよ。我が屋敷には来賓用の客間がございますから……ああ、そうだ! 今朝方、質の良い海産物が揚がったと報告がありましたので。いかがでしょう、晩餐など……」

「ご好意はありがたいのですが……〈査定〉対象から、歓待を受けるわけには参りません。既に宿は手配してありますから、お構いなく」

 釣れない返事をするアリシア。〈査定〉の一言に、領主ベルトールは表情が凍る。

「え、ええと……。法務官殿は、どれくらいのご滞在を予定されて……?」

「それは――わかりませんね。この町の調査が終わるまでは、立ち去るつもりはありませんので。早く追い出したいのであれば、できる限りのご協力をお願いいたします」

 アリシアは自分が嫌われ者であることを理解している。彼女の持つ権限は、皇帝勅令に匹敵する。〈帝国法を遵守するため〉という制限はあるが、その力は絶大であり、地方領主程度が逆らえるものではないからだ。

 領主ベルトールは、彼女の言葉に息を呑む。

「わかりました。こちらで手配できるものは、何でもご用意いたしましょう。ですが、その前に確かめたいことがございます」

 パチンッ!

 ベルトールが指を鳴らすと、屋敷の左右端にある扉から、鎧をまとった兵士たちがアリシアを囲む。数にして三十といったところだ。

「あなたが本当に、法務官なのかどうか……証を見せていただきたい。もし嘘だというのなら、その体が穴だらけになりますぞ」

 当然の話である。アリシアは、自分を辺境法務官と名乗ったが、その証明をしていない。当然求められることだが、ここまで物々しくなるのはめずらしい。よほど警戒しているということだろう。

「もちろん、お見せしますわ。少し――失礼いたします」

 彼女は手に持っていたカバンを置く。纏っていた薄茶色のジャケットを脱ぐと、白いシャツと濃紺のハーフパンツが現れる。体格に似合わない豊満な胸は、異性の目をハッキリと引き付けるものだ――普通ならば。

 だがその場にいた者たちが目を奪われたのは、全く別のもの――彼女が腰に下げていた奇妙な物体だ。

 少女が持つにはあまりに大きく、あまりに無骨。ところどころ褐色に錆び付いているが、間違いなく鋼鉄でできた――塊。

 さらに兵士たち――そして ベルトールを驚かせたのは、アリシアがその塊を片手で持ち上げたことだ。

「これが私の〈法典〉です。ご確認いただいてかまいませんよ」

 アリシアは手に持った書物を、自分の足元にそっと置く。少女の腰に巻きつけられたベルトへと、鉄の鎖で繋がれた鋼鉄の書物。あまりにも異様な物体に、兵士たちは一歩ずつ下がってしまった。反対に、ベルトールは急いで階段を駆け下り、間近で法典を確認する。

「表面に〈真実を見抜く目〉と〈公平を問う天秤〉――そして〈正義を成す剣〉の文様がある……帝国法典に間違いないですな。失礼を……いたしました」

 ベルトールが手を振ると、兵士たちは出てきた扉へと戻っていく。アリシアは法典を持ち上げ、再び腰のベルトにかけた。ジャケットに腕を通すと、もう一度領主に挨拶をする。

「お分かりいただけたようで。では今日は引き上げましょう。まだ、この町に着いたばかりですから。また明日、お伺いいたします」

「……分かりました。良きご滞在になることを祈っておりますよ」

 表面的には取り繕っているが、ベルトールは明らかに動揺している。アリシアはそれを感じ取りながら、知らないふりをする。

 ――調べ甲斐がありそうですね。

 アリシアは踵を返し、屋敷の扉のほうに向く。だが「あっ」と声を上げ、一度立ち止まった。その間の抜けた声に、領主も驚いてしまう。

「どうかなさいましたかな?」

「言い忘れたことが一つ。屋敷の前にいた衛兵――年上のほうの。あれはガラが悪すぎますよ? 領主様ほどの方が、ああいう品のない人間を身近に置くのはいかがなものかと」

「それは……法務官としてのご意見ですかな?」

「いいえ、私個人の感想です」

 ベルトールは忌々しげな表情を浮かべ、そそくさと階段を登っていく。アリシアは、それを見送る前に、屋敷の外へと出て行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る