「監督、アザマさんという女性からお電話です」妻で女優の宮前宣子が夫婦とは思えない事務的な口調で言った。

 勇美は部屋着にしている作衣姿でソファにかけ、朝の一服をつけているところだった。タバコを挟んでいた長い指が神経質に一瞬震えた。公表していない自宅の電話番号に面識のない人間から電話がかかることはなかったので、勇美は怪訝な顔で宮前から受話器を受け取った。

 「監督、今度の作品ですが私にプロデュースさせていただけないかしら?」受話器の向こうから妙齢の女の落ち着いた声が響いた。勇美は声の響きから相手の素性や居場所に想像を巡らせせた。彼の女性経験のすべてが絶世の美女だと告げていた。

 「あなたに? 失礼ながらあなたが誰かも知りませんし、そもそも映画についてどれほどの実績がおありだというのですか」

 「映画については素人ですが産廃については詳しいつもりです」

 「なるほど誰から聞いたのか知りませんが次作は産廃だというのですね。それでは単刀直入にお聞きしますが制作資金はいくら用意されていますか」

 「三十億でいかがですか」

 勇美は息を呑んだ。考えていた予算の倍だった。「ハリウッド映画でも作るつもりですか。ひょっとすると外資がスポンサーですか。私は興行成績ありきの外資は好みませんよ」

 「いいえご安心を。私どもは資金を提供するだけで制作への口出しは一切しないと約束します。ただ一つだけお願いがあります」

 「なんでしょうか」

 「たいしたことではありません。私をどこかで登場させてください。エキストラでかまいません。たとえばそうヒッチコック監督みたいに」

 「それだけのために三十億用意するというのですか。あなたほどの方なら女優デビューもできるでしょうし、プロモーション映画も製作できるでしょう」

 「私をご存知なのかしら」

 「声の張りから容姿は想像できます。年齢は二十七歳、頬が滑らかで清楚な顔立ちをされている。豊満だが胴は華奢で身長は高いほうですね」

 「お褒めをいただきありがとう。でも女優には関心ありません。監督のファンだから監督の映画に出たいのです」

 「ありがたいお言葉ですね」

 「もう一つご提案があります」

 「無条件といいながらいろいろあるんですね」

 「ぜひとも私に身辺警護を手配させてください。今回の映画の取材で脅迫状が届いたことは存じております」

 勇美は再び息を呑んだ。「なぜそれを」

 「正直に申しましょう。私のボスは日本の闇社会に挑戦する監督の映画を高く評価しているんです。ボスは監督に長く仕事を続けてもらいたいと思っています。しかし今回の映画は危険です。監督のキャリアが終わってしまうかもしれない。ボスはそれをとても心配されています」

 「あなたのボスとは誰ですか? 闇社会が邪魔なのはもう一つの闇社会ということじゃないのですか」

 「さすがね。そうなのかもしれない。実は私もボスが本当は誰なのか知らないの。私は交渉人にすぎないわ」

 「交渉人が映画に顔を出していいのですか」

 「私が映画に出たということが私が資金を出した何より動かぬ証拠になるでしょう。何億人もの観客が証人になってくれるのですから。だから一秒でいいのです」

 「私があなたを使うとすれば一秒ではすまないでしょうな。映画を一コマずつに分解しエキストラの顔も一つずつ調べる分析家がいるんです。あなたを一秒しか使わなかったらかえって注目される。愛人を出したのかと批判される」

 「一秒であろうと五秒であろうとそれはお任せします」

 「あなたにプロデューサーをお願いするかどうかはあなたのことをもう少し知ってからにさせていただく。どこかでお会いできますか」

 「ええ、かまわないわ。でもくれぐれも身辺にはお気をつけになって」

 三日後、勇美は東北新幹線のグリーンで宇都宮に向かった。餃子のモニュメントで有名な狭苦しい駅広で待っていると黒塗りのベンツが止まった。

 「お迎えにあがりました」S63AMGリムジンのナビ席から降りた三十歳前後の女が慇懃に挨拶した。やや太りししだが女優を見慣れた勇美でも目を見張る美貌だった。

 「どこに行くのですか」勇美はすぐには車に乗らずに尋ねた。

 「会長のお屋敷です」

 「どこにあるのですか」

 「日光です」

 「ここから日光は遠いですね」勇美はいくらか猜疑しながら言った。

 「どうぞ」女は勇美の問には答えずにAMGのドアを開けた。広々とした後部座席が現れた。勇美は観念して乗り込んだ。

 「あなたのお名前を伺ってよろしいかな。名前も知らない人の案内は不安ですから」

 「お電話でも申し上げたつもりでしたが安座間と申します」女はにこやかに応じた。

 どこへ向かっているのかはぐらかすためかAMGはわざと国道を走らず田舎道を走り継いだ。勇美はもちまえの記憶力で交差点を通るたび地名を心にとめた。三流ギャング映画にあるように目隠しまではされなかった。車内に乗り合わせたのは運転手と案内役の安座間だけで、二人とも後部座席の勇美には関心がない様子だったが、それでも用心にメモはとらなかった。ペンを動かせば怪しまれる。大事な手帳を没収されでもしたら大損害だ。

 一時間ほどで車は古民家風の邸宅に到着した。黒服を着た門番が二重になった門扉を背後で閉じた。そこは外の世界から隔絶された別天地だった。磨き抜かれた廊下の床を摺り足で進む女のすらりとしたふくらはぎを見ながら、勇美は和風の回遊庭園を渡り屋敷の一番奥の離れに案内された。桂離宮を模したことが一目瞭然の贅沢な書院造りの部屋だった。内装と調度、窓外の庭園の眺めには数億円ではすまない価値があるだろう。かなうものならロケに使いたいものだと思った。案内された二十畳ほどの和室は小さな屏風で仕切られており、その向こうに面会を希望した人物が鎮座している様子だった。

 「ここにお座りください。けっして会長の姿をご覧にならないようにお願いします」安座間は畳の上に置いた椅子を勧めると部屋を辞した。

 「単刀直入に言おう」初老の男には似ない詩を吟じるような流麗な声が離れになり響いた。「あんたの映画を買いたい」

 「スポンサーのお話でしたらプロデューサーが決まってからにしていただければよろしいかと」

 「そうではない。プロデューサーはそのままでいい。誰だってかまわない」

 「プロデューサーごと買収ということですか」

 「そうだ」

 「検討させていただきたいとも言いかねます」

 「あんたのこれまでの取材先は全部知っている。つまらん取材先ばかりだが、あんたが何を撮ろうとしているかはだいたいわかっている」

 「まだ私自身すら知らないのにですか」

 「あんたは知らなくてもわしにはわかる。わしが知っていることをあんたも知ろうとしている。そしていずれ知るだろうということもな」

 「光栄なお言葉です」

 「いくらで売る?」

 「お売りしようにもまだ売る商品がございません」

 「わかった。話は終わりだ」

 「取材をさせてはいただけないのですか。そういうお約束でお伺いしたつもりですが」

 「そうだったな。約束は守ろう。一つだけ質問を許そう」

 「それでしたら一つ疑問に思うことがあるのです。最終処分場を開設すれば不法投棄の十倍以上の利益がるあると聞きました。それなのになぜ儲からない不法投棄をするのですか」

 「そんな愚問なら彼女に聞けばいい」

 「どうぞこちらへ」気配もなく近付いた女に背後から突然声をかけられ勇美はぎくりとして振り返った。

 「どうぞ」有無を言わせぬ口調の口元には微笑みに飾られていた。どこかで見た微笑、そうだモナリザだと思った。勇美は立ち上がりしなに屏風の裏を覗き込んだが、そこには椅子すらなかった。一体誰と話していたというのか。

 「さっきの質問の答は」

 「お車の中でお答えします」

安座間がナビを努めるAMGは往路とは違う道を走って宇都宮駅に向かった。

 「さきほどの会長へのお尋ねですが、最終処分場が自分で不法投棄現場を開設すれば最終処分の料金を徴収しておいて不法投棄ができませんか」

 「あ、なるほど」

 「実際は中間処理業者が不法投棄をやることの方が多いですね。この場合も中間処理の料金を徴収できます。現場の料金は安いですがどうせ土地代だけですからね」

 「ほう」

 「リサイクル業者も造成工事を偽装して不法投棄をやります。汚泥とか堆肥とか形のない物はすべて不法投棄されていますね」

 「つまり最終処分場、中間処理業者、リサイクル業者が不法投棄をやれば正規の料金を徴収して不法投棄ができる。逆に言うと不法投棄をするために許可業者があるとも」

 「それが昔の産廃業界ですわね。今はちょっと変わってきましたが」

 「どう変わってきましたか」

 「それはご質問がなかったですわね」

 車は宇都宮駅の新幹線口に到着した。

 「お見送りいたします」安座間は勇美が新幹線に乗るかどうか確かめるつもりの様子だった。

 勇美は振り向きもしないで改札を抜けると死角になる待合室の隣の売店で観光マップを買った。すぐに記憶した地名をマークして案内された邸宅の位置を確かめた。往復違う道を走ったことでかえって位置が特定しやすかった。二路の交点を求めればいいからだ。案の定日光とは反対方向の小さな田舎町だった。地図上には果樹園のマークが点在していたが葡萄畑のようだった。そういえば邸宅内にも熟した巨峰の香りがただよっていたかもしれない。勇美は新幹線には乗らずに再び改札を出た。

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