注射器
「監視班全員ちょっと集まれ」お盆明けの月曜日、仙道が厳しい声で言った。「おとといのことだなんだが森井川の沢筋で遊んでいた子供が捨てられた注射器で針刺し事故を起こして救急搬送されたんだそうだ。今のところ大した事故じゃないようだが、生の血液がついてたら肝炎やエイズの感染だってありうるってことで親御さんが騒いでんだ。しかもまずいことにそれが市議会議員の光森先生でな、市の河川管理の瑕疵を議会で追及するといきまいているらしい。その川ってのが一級河川で市の管轄じゃないと説明したら火に油で、市民の安全を守るのに国の管理ですでいいのかって息まいてるってよ」
「それって管理瑕疵事故になるんですか。営造物の瑕疵じゃないように思いますけど」伊刈が冷静に尋ねた。
「なるわけねえだろう。海水浴場でガラスを踏んだからっていちいち市の責任になるかよ」
「それとはちょっと違いませんか。やっぱり注射器ですからただのガラスとは違うでしょう」喜多が言った。
「問題は注射器がどっから来たかってことだな。それで鎗田課長がじきじきに調べろと言ってきたよ」
「つまり不法投棄された注射器だってことですね」遠鐘が言った。
「まだわからん。ヤク中のヤクザが捨てたのかもしれんし、インシュリンを打ってる在宅患者のかもしれんし、畜産農家のかもしれん。だが注射器をポイ捨てするやつはそんなにいないだろうから、上流の不法投棄現場が怪しいんじゃねえかってことだ。メディアに不法投棄のせいだと騒がれると面倒なことになるぞ」
「わかりました。上流にある捨て場を調べればいいんですね。すぐに行ってきます」伊刈は踵を返した。
「おう、なんとか頼むぞ」仙道が珍しく伊刈の背中に自信なげな声をかけた。
パトロールチームは注射器の発見場所を確認するため森井川に直行した。森井川は小さなゴムボートだって浮かばないような小川だったが、戸根川に注いでいるため一級河川として国が管理していた。旧国道にかかる笹本橋の下が事故現場で、そのあたりでは川幅が十メートルくらいあった。もっとも流量は僅かで子供の膝くらいしかなかった。泳いで遊べるほどの水深ではないので事故に遭った子供たちはザリガニ採りでもしていたのだろうと思われた。河岸から見るかぎり廃棄物が大量に漂着しているようには見えなかった。
「上流に行ってみましょう」喜多が言った。
川岸の畦をたどっていくと川幅がみるみる細くなり、一キロほどで崖にぶつかって二股に分かれた。そこから先からは入り組んだ谷津に沿って一跨ぎできる程度の幾筋もの細い沢に枝分かれしていて、どれが本流かも定かではなかった。一級河川区域はそこまでで終わりで、沢は河川法が適用されない市所管の普通河川になった。透き通るようにきれいな湧水の流れだが上流には産廃の捨て場が何百もあることがわかっていた。細い沢を一本一本点検し、やっとゴミが目立つ沢を発見した。
「班長この沢が怪しいです」遠鐘が言った。「上流で捨て場が崩れているかもしれないですね」
「ひどい藪だけど行ってみるしかないな」伊刈が先頭に立って覆いかぶさったササやツタをかきわけながら小さな流れを溯った。ちょっとした探検気分だった。
「ああ、あそこだ」遠鐘が指差す木立の向こうに白っぽいゴミの壁が見えた。
「ここってどのあたりかな」喜多が言った。
「崖を上がってみないとまるでわからないっすね」長嶋が言った。
「何か臭わないか」伊刈が言った。
「硫化水素ですね」チームの中では一番化学に詳しい遠鐘が言った。
「大丈夫かな」喜多が心配そうに遠鐘を見た。
「ガスが溜まるような地形でもないし、これくらいなら大丈夫です。もしも高濃度のガス溜まりに迷い込んだら生命の危険があります」
「脅かさないでくださいよ」喜多が心細そうに鼻をこすった。
「実はこれより高濃度のガスをみんなさんざん吸ってますよ。不法投棄現場ならたいてい硫化水素は吹いてますからね。ここは沢なんで匂いやすいだけですよ」
「ほんとかよ。そんなにガスを吸ってたのか」伊刈もちょっと心配そうだった。
「保全班の大室室長に聞きましたけど致死量の亜硫酸ガスを吸ったら臭いと感じる前にいきなり意識が落ちてしまうそうです。臭わないほうが危険なんですよ」
「それじゃここは臭いから安全だってことか」伊刈が言った。「にわかには信じがたいな」
「なんとなくわかります。事故で頭を打ったとき、痛みを感じる前に意識が飛びました。脳が麻痺してしまえば何も感じませんよ」喜多が深く頷いた。
「水が暖かいっすよ」長嶋が立ち止まって言った。足元の流れに手をかざすと確かに生温かった。温泉でもないのに水が泡立ち湯気さえ立ち上っていた。
「沢の下まで産廃が入ってるのかな」伊刈が言った。
「あ、これ医療系じゃないかな」喜多が泥の中から点滴の袋を発見した。
「針があるかもしれないから踏まないように気をつけて」伊刈が警告した。
「そういえば今日は班長も半長靴(はんちょうか)っすね」長嶋がひやかすつもりもなく言った。
「注射器なんだから安全靴の皮だって貫いてしまうかもしれないよ」伊刈がまじめに応えた。
「崖を掘ったら何か出るかもしれない」遠鐘は崩れた産廃を掘り始めた。するとはたして赤いバイオハザードマークがついた黒いビニール袋がころがり出てきた。中には点滴のチューブやら注射針やらがごっそり入っていた。
「すごい」喜多が感動したように言った。
「危ないから触らないで」伊刈はいつになく慎重だった。
「大丈夫ですよ」遠鐘がビニール袋を開いて証拠探しを始めた。
「とにかく注射器には気をつけて。針刺しをしたら大変だ。ウイルスがついていたらちょっとしたかすり傷でも感染するんだ。ぜったい針刺しだけはしないで」
「病院だって針は分けて捨ててますよ」
「そんな立派な病院だったら不法投棄するような業者に頼まないだろう」
遠鐘が一人で袋の中をさぐり、薬の袋や診察券など排出元の病院を突きとめられそうな証拠を見つけだした。
「これで十分だ。この証拠を持っていったん引き上げよう。今日は大収穫だ」伊刈が撤収を命じた。
「ここってどこの処分場すかね」長嶋が言った。
「上に出ればわかるだろう」伊刈が応じた。
「上れるかな」喜多が不安そうにゴミが崩れた崖を見上げた。
「高さは三十メートルくらいですね。けっこう昇りがいがあるな」遠鐘を先頭に足元を確かめながら崖を上った。プラスチックが絡み合った産廃は意外にしっかり締まっていて簡単に崩れる心配はなさそうだった。崖のところどころから煙が立ち上がり腐敗臭と硫黄臭が混ざった悪臭がただよってきた。
「遠鐘さんどうしてそんなに崖のぼりが上手なんですか」喜多が後ろから感心したように尋ねた。
「化石採取はいつも崖ばっかりだからね。ちょっとしたロッククライミングくらいできないとね」
「なるほどなあ」喜多は尊敬のまなざしで上を行く遠鐘を見上げた。廃棄物が崩れ落ちた崖を登りきると建設廃材、廃畳、雨樋などが無造作に積み上げられた小さな自社処分場に出た。粘土質の残土を入れたのか足元がぬかるんで靴がずぶずぶともぐった。よほど水はけが悪いのか水溜りには水草が浮いていた。
「ここは天昇園土木ですね。前に来たことありますよ」長嶋が言った。
「植木屋の天昇園だね」伊刈が応えた。処分場はトタン塀で三方を囲まれ門扉は外側から施錠されていた。
「道路に出るには塀を乗り越えるしかないですね」遠鐘はひらりと身をかわして門扉の向こう側に消えた。忍者のように身軽だった。他のメンバーも思い思いの流儀で塀をよじ登った。門扉の外には鉄板敷きの搬入路が湿原の遊歩道のようにくねりながら農道に向かって続いていた。両脇から伸び放題の雑木の枝が厚く覆いかぶさっていて、不法投棄現場の調査でなければ森林浴としゃれたいところだった。
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