第1夜/現実逃避
どこか、別の世界に行きたい。
誰も私を知らない、誰も私を道具のように扱わない。
あたたかい家族と、平穏な場所。何も命令されることも無く、頑張らないでいいよ、って。少しでいいから、私を慰めてくれる世界に行きたい。
そんな現実逃避をするのは、いけないことなのだろうか?
「死にそう」
げっそりとした様子でそう呟いた私は、また一人だ。この光景もいつものこと、深夜の職場で押し付けられた仕事を必死にこなしていた。
いつもいつも、この職場の電気を一番最後に消すことが私の係りになっている。過去、過労死の人間を出してニュースになって、悪評だらけで新入社員すら一気に寄り付かなくなった某ブラック企業。そこに勤めているのが私、佐野東という、最早女とは呼べないほど衰弱した顔と身体を持つ人間だった。
「はー、死にそう、ほんと、死にそう、」
俗に言う、トンデモブラック会社。悪評が付きまとっていたとしても新しい社員が何故入ってくるのかと問われれば、私のような存在がいるからという証明が出来る。
極度の人見知りでコミュニケーション障害持ち。自分の生活背景のせいもあり、どうしても普通の人達の中に混じれず。人間関係の構築がただひたすらに下手糞で、頑張ろうとしても全て空回りする。
私の人生は、空回りだけでしか経過していない。失敗を恐れ、恥を沢山かき、次の失敗を怖がらぬよう払拭する為に一歩踏み出した先で転落してはまた無様に立ち上がって何とか生きようとした。
その結果が、現在に繋がる。
マトモな企業の面接は全て失敗。学歴も中の中の天涯孤独。私に糸を垂らしている余裕があれば、他に使える人材を採用するのが当たり前。
就職活動がことごとく空振りに終わった人間に残された道は、何だと思う。それこそが、働ける駒を増やしたいだけ、というブラックな職場に行き着くのだ。
悪名高く、就職失敗した輩が行き着くこの職場は、ネット上では「就活負け組みの流刑地」とまで揶揄されていた。
収入は安く、残業超過したとしてもタイムカードにはきっちり八時間とだけ記載される。休憩を取れた試しが無いのに、上が管理する勤怠表では私は毎日一時間休憩が取れたことになっていたりする。
「つらい」
このように。コミュ障の私の独り言が更に多くなったのも、ここへ入社してからだ。
新卒の頃、まともなトレーニングも一切して貰えずに即座に職場で働く駒にされ、時間内に終わらなければ社員を怒鳴り散らす、殴りつけるなどと言う行為が当たり前のようにそこかしこで見られるような場所。五分手が止まれば鼓膜が破けそうな程の距離で自分がどれだけ駄目な人間かを叫ばれ、そんなお前でも雇っていることに感謝しろと圧をかけられる。
はっきり言って、そういったことの繰り返しによる洗脳が横行していたし。その洗脳に見事にはまってしまったのも私である。もう、自分の苗字も名前も、その発音であることが嫌いになりそうなくらいに怒鳴りつけられた。
流刑地と呼ばれる程の、駄目人間を動力にした地獄のような職場。最底辺の者達が上に対して抵抗する気など微塵も無く、そこにあるのは人間の薄汚さを凝縮した蠱毒のようなもの。つまりは、最下位共による同列内での醜い蹴落としあいが始まるのだ。
上司に媚びへつらい、気に入ってもらえるようアピールする者も沢山。誰かの手柄を奪って上司に報告するものも沢山。
そんな最底辺の中の争いで、いつもいつも敗者になるのは私だ。どの部署、どの年代、同期の中でも一番の的で。その様子を見た後輩からさえも、「私は見下していい生き物」と歪んだ学ばれ方をされて、仕事を押し付けられる。もう、何で二年も身体がもったのかは分からないが。そういった社内いじめの標的に私がなってから、長い。
――皆、このような人身御供を肩代わりしてくれる筈も無いのだ。
自分を含めてこの会社の同期は全員が負け組みの烙印を押された人間。ストレスの軽減の為には、自分より下の人間を見つけて悦に浸ることこそが一番。こういった現象は、私が学生の頃も同じ展開に遭遇していた為多少なりとも覚悟はしていたのだが、それにしても大人になってまでこんな子供染みたことをやるのだなあと思う。
まあ、結局私も、怒鳴られるのが怖くて。殴られるのが怖くて。これ以上、下に見られるのが怖くて。せめて、道具の扱いをされている今の状態を維持することに努めようと諦めているのだから相当の不良品で、勇気も何も無いただの臆病者だ。自分の性格が一番悪いのも、よく分かっている。
ただ。覚悟があるないに関わらず、もう自分の身体が限界なのは自分がよく分かっていた。
「……きゅうけい、しよ、う」
ぱちぱち、と。キーボードを打ち込む音を作るこの手を、意識してようやく止める。仕事が定時で終わらないのはずっと同じ。
押し付けられて、その分までこなして、他の人に手柄をまわしてなんとかその日のご飯が食べられるような給料をもらえる。私みたいな駄目人間には、この扱いでも破格だろうといつしか思い込み始めていた。こんな人間を、ここ以外のどこが雇ってくれる。ここで働けないのに、他で働けるわけが無い。泣き続けた環境の中でそれでも逃げられなかったのは、逃げようとする気力すらいつの間にか失っていたから。
ああ、今月も、残業が、にひゃく、ごじゅうじかん。これ全部、金にはなりません。最高が百連勤だった気もするが、今回の連続勤務はまだ八十連勤程だ、まだいける。まだ大丈夫。
明らかな過剰労働で不眠症になってからと言うもの、更に食欲も失せたし言葉も発する余裕も無くなり。ただ、「はい」だの「すみません」だの「やっておきます」だの「終わらせます」しか言えないロボットのような人間になってしまったのが本当に切ない。
おまけに眠りたくても眠れない、極度に少ない睡眠時間で事足りてしまうようになってからは、一日二十四時間のほとんどを仕事が埋めるワーカーホリック状態だ。
「…うん。にがい…」
デスクの横、紙コップに入れておいた珈琲はとっくに冷めていた。今日はせめてもの小さな抵抗に、なんと無謀にも休憩室にあった上司の珈琲の粉を奮発して二袋も入れてしまった。バレないようにしておきたい。
砂糖もミルクも入れない、ただの黒い液体のそれ。ブラック珈琲は、苦いから大嫌いだ。けれど、味覚がまだ「苦い」ということを感じられるのなら、まだ身体は壊れていない。そう強引な判断をする為のバロメーターとしての優秀さには一目置いている。
「はあ、きれいだな……」
珈琲を片手に、よろよろとした調子で窓際に移動して。がら、と、身が乗り出せるくらいに窓を大きく開けた。少し出てきた眠気を覚ますには、これが一番だ。
通り過ぎた職場の壁にはりつけられた姿見には、ごっそりと肉をそぎ落とされたかのように細い自分の姿が映っていた。事務服を着ていると言うより、完全に着られている。何だか私の方が「付属の干物のおもちゃです」とつけられているような気分さえする。
顔面につけた眼鏡も、下でくくった少しだけ長い髪も、軽くなった体重の身に持ち寄るには重く感じてしまう。それでも、気分転換の為だとゆるりと景色を見ながら首を動かした。
ああ、あそこにも、電気がついたフロアがあるオフィスが。ああ、あそこにも。私達が、夜景の演出を手伝っているというのも納得出来るくらいだ。何だか切なくなるけど、ひどい目にあっているのは私だけでは無いという励ましを貰った気分になる。ほろりと涙がこぼれそうだ。
あとどれくらいこの生活をしたら、楽に死ねるのだろうか。転落人生まっしぐら、一寸先どころか一生先が闇。逃げ出す気力も何も無い、そうだとしたら後は過労死するのを待つしかない。けれど、なかなか自分の魂は図太くて生き意地を張っている性質のようで、こんな醜い相貌になってもまだ生きられるらしい。社内に泊り込みだって何べんもした、借りたアパートの一室はただシャワーを浴びに帰るだけの場所になっている、一日一食食べる余裕があるかないか、ずっとこんな調子で、全てを諦めて。緩やかに緩やかに死に向かっている。
(ああ、こんなに苦しいのに、わたしは、まだ、死ねないんだ、)
下を覗けば、街。ここから飛び降りたらきっと、絶対に死ねるだろう距離。身体をもう少し乗り出せば、すぐに死ねるだろうけれど。その勇気が出せないから私は今夜も職場に閉じこもるのだ。
痛いのは、怖いから。
ああ。紫色に染まった月が、私を嘲笑うように見下ろしている。夜に飲まれた黒い雲が、疲労のせいかうごうごと虫のように動いているように、見える、
「―――え?」
ぐいんっ、と。
経験したことも無い引力に、身体が引っ張られたことを理解したのは。窓の外。そこに自分の身体が、何故か。勝手に放り出されて。その反動で紙コップを手放した瞬間だった。
あ、あ、自分から、飛び降りたつもりなんて、無かったのに。ここから飛んだら死ねるよね、って。そう思うだけでよかったのに。身体が勝手に動いてしまったのだろうか。まあ、いつも、死にたい死にたい言っていたから、神様が背中を押す手伝いをしてくれたのかもしれない。
今日が、私の、命日かあ、
身体にかかった風圧に、目を閉じればすぐ気を失った。
夜の闇に混じって現れたもの。もう何も見えなくなった私には、何があるかなんて、気付かなかった。
× × ×
地面に、紙を乱雑に破いたような裂け目が出来ていた。奥は深く、しかし見えない黒に染まっている。
東の身体は、突如出来たそのブラックホールのような裂け目に吸い込まれるようにして、落ちていく。
彼女の姿がすう、とその中に消えると。それ以外に目的は無かったと言わんばかりに、その裂け目は一瞬で消えた。
道路の監視カメラ全てに、東が飛んだ瞬間から裂け目が消えるまでの間の映像は記録されず終いで。ただ、その一瞬だけ大きなノイズが混じっていた。
佐野東の名前は、数日後。ブラック企業で行方不明になった人物としてメディアで報道されはしたが、手回しされた為かすぐに騒動は沈下。
親族もいない彼女は、この現代世界ですぐに忘れ去られて第二の死を迎えた。
この世界に、東の居場所は。もう無い。
そう、”この世界”には。
それを彼女が気付くまで、あと少しだけの時間が、必要だった。
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