016 - 視床下部に溶けるハッカ

「本当に行くのね?」


バスに揺られながら、母から言われた言葉を思い出す。あともう少しであの人のところへ着く。早く会いたくて、信号待ちにも、人の乗り降りにも感じていたもどかしさはもう、泡のようにはじけ飛んでいた。

「K大学病院前」が近づいてくるにつれて、体は重くなる。このままつかなければいいのにとさえ思う。

嫌な音を立てて体中を走り回る心臓を何とか落ち着かせようと、汗がにじむ手でケータイを取り出し、あの人から送られてきたメールを開く。

字を見ただけでもくらくらする私と違い、あの人は毎日本を読んでいた。小説だったり、私では到底理解できそうもない外国の本も読んでいた。とにかくむさぼるようにいろいろな本を読んでいた。そんな彼は、本の中で素敵な言葉が出てくるたび、私にメールでその文を送ってくれた。

「私は自分の知らない言葉とか、考えが知れてとっても幸せなんだけど、あなたは面倒ではない?」

そう聞くと、彼は

「小春ちゃんへのメールは僕のメモ帳でもあるんだ。勿論それだけではないけれど、僕は小春ちゃん宛に何かを書くことが好きなんだ。小春ちゃんが迷惑じゃないなら続けてもいいかな?」

そう言って、照れ臭そうに笑っていたことを思い出す。

K大学病院前にバスがゆっくりと停まる。大丈夫、何も怖がるものはない、と自分に言いきかせ、立ち上がる。

その懐かしいメールを心に、私はバスを降りた。



件名:僕はハッカしか入っていない

『人生はドロップ缶だと思えばいいのよ。ドロップの缶に色んな味の飴が詰まってて、好きなのとあまり好きじゃないのがあるでしょ?それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あとあまり好きじゃないのばかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくと後になって楽になるって。人生はドロップの缶なんだって。』


病室のある階でエレベーターを降りると、おばさんがベンチに座って待っていた。おばさんは私に気づくと、深くお辞儀をして、こちらに寄ってきた。

「わざわざ来てくれてありがとうね。病室510号室だから。私はお昼食べてくるわね。こんなの病院で使う言葉じゃないかもしれないけど、ゆっくりしていってね。」

そう言うと、おばさんはちょうど来たエレベーターに足早に乗り込み、一階へと降りて行った。あのやつれた姿を見て、あの日を思い出す。あの日も私は何も言葉をかけてあげられなかった。

あの日からずっと、可能性をすべて考えた。どんなことが起きても、自分を守れるように。


私は手術をしたと、過去形で聞かされた。はじめは、おばさんが何を言っているかわからなかった。聞いたこともない名前が次々とおばさんの口から飛び出す中で、放心状態の私が唯一覚えられていたのは「ロボトミー」という言葉だった。電話を切り、無心に流れる涙の中、ケータイで検索エンジンに「ロボトミー」と入力する。出てきた検索結果は私の想像を超えるものだった。

脳にメスを入れて、神経回路を切断する。簡単に言えば、ヒトをヒトでなくす手術だった。感情がなくなり、意欲も集中力も低下して、その状態が一生続く。こんなの、ロボットじゃないか。じゃあ、もう悠太郎君は


息ができなくなった。たくさんの感情と疑問が頭の中をのたうちまわって、走ることをやめない。

そのあとの記憶はあいまいで、おばさんに怒鳴って電話したことや、おばさんも泣きわめいていたこと。おばさんが言った、「私にはどうすることもできなかったの。あの子を助けることなんで誰もできやしないのよ。」という言葉はくっきりと頭の中に張り付いて、いつまで経っても剥がれなかった。


この連絡の数か月前に私たちはもう別れていた。正確には距離を置いただけかもしれない。でも、それは自然消滅に近い形だった。もうお互いに違う道を歩んでいるはずだった。

当時、統合失調症という病気らしかった悠太郎君の変化に気づけなかった自分を何度恨み、嫌っただろう。自分が変わってあげられることならどんなことでもしたいと思った。

死にたかった彼の隣でどうして私はへらへらして生きていられたんだろう。

彼に、責められたわけではないのに自分を追い込んで、ご飯ものどを通ることはなかったし、眠れる夜なんて来なかった。結局、数週間お見舞いには行けなかった。


501号室。四人部屋らしく、四人の名前のプレートが外に貼ってあった。その中に知っている名前を見つけ、心を構える。全部嘘だったらいいのにとずっと心のどこかで思っていた。

大丈夫、大丈夫だから。根拠もなく自分を再度励まし、部屋に足を踏み入れる。

奥の右側のベッドにいるはずの人を目で捉える。

「悠太郎君、ひさしぶり。」


ロボットの彼に挨拶をする。



件名:(件名なし)

解体してバラバラにして、足で踏みつけて粉々にしてくれ。全然かまわない。そうすれば僕だってさっぱりするし、あとのことは自分で何とかする。手助けが必要なら手伝ったっていい。さっさとやってくれ。


NEXT……017 - 吾輩はパイロットである

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885440692/episodes/1177354054885461223

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