その日も昼まで雨が降っていた。

 朝倉みさきと彼はその日、派手なけんかをした。きっかけは取るに足らないことだったのに、どちらも折れず、みさきは彼の家を飛び出してきてしまった。

 駅のホームまで来てしまったけれど、もしかしたら心配してメールを送ってきてくれるかもしれない、そう思ってホームのベンチに座っていた。

 電車がホームに入ってきたのと同時に、ホームの階段を人が駆け上がってくる音が聞こえてきた。

 みさきは一瞬彼が迎えにきてくれたのかと思った。

 でも、そうじゃなかった。

 見知らぬ若い男がホームに駆け込んできたけれど間に合わず、扉が閉まり、電車は動き出した。

 若い男は肩を落として、みさきの座っているベンチに一人分の間隔をあけて腰を下ろした。そして、持っていた傘をそばに立てかけた。

 不安定に立てかけられた傘がずるずるとすべって、みさきの足元にぱたんと倒れた。

 みさきは無意識のうちに傘を拾い、持ち主に渡そうとして、ぴたりと手がとまった。

 これだ。

 その傘は、持ち手の部分が通常の傘よりも長くなっていて、ごつごつとした木でできていた。その部分だけ見ると、まるで杖のようだ。一瞬にして記憶が蘇った。

 間違いない、あの魔法の杖だ。

 よっぽど長い間その傘を凝視していたんだろう、「あのぉ……」と、傘の持ち主がおずおずと声をかけてきた。みさきはその若い男の顔を見て、あのとき扉のそばにいた人だと確信した。

「ちょっと変わってますよね、その傘」

 その若い男はそういってみさきに微笑んだ。

「あ。ごめんなさい」

 みさきは握りしめていた傘をあわてて若い男に返すと、思い切って尋ねてみた。

「あの、すいません。すごく変なことを訊くようですけど」

「はい」

「あなたは、わたしに扉を開けてくれた人ですか?」

 若い男は微笑みながらうなずいた。

 この微笑みながらうなずいた若い男、魔法の杖の持ち主である若い男というのは、実は、僕のことである。


 朝倉みさきが彼氏とけんかをしたその日、僕は次回の原稿の打ち合わせをするために、沿線情報誌の編集部を訪ねることになっていた。ライターというと聞こえはいいけれど、アルバイトに毛が生えたようなもので、それだけではとうてい食べていけず、他のアルバイトをかけもちして収入をまかなっている。

 編集部に行く前に、みさきの彼氏と偶然同じ最寄り駅だった友人を訪ね、思いのほか長居をしてしまったため、僕は電車に乗り遅れてしまった。でも、そのおかげでみさきと初めて言葉を交わすことができた。

 一年ぶりに見たみさきはびっくりするほどきれいになっていた。長かった髪を短くして、以前よりも明るく、活発な感じに見えた。

「あの、あれってやっぱり、わたしのために扉を開けてくれたんですか?」

 ためらいがちに、みさきが僕に尋ねた。

 僕はうなずいた。

「どうして?」

「それは……降りたいけど決心がつかない、そんなふうに見えたから、つい。もしかして迷惑でした?」

「いえ。迷惑なんかじゃありません。むしろわたし、そのことでお礼をいいたかったんです。本当にありがとうございました」

「よかった。僕もずっと気になってたんです」

「わたし、もしかして挙動不審でした?」

「まあ、少し」

 みさきは、はあーっと溜息をついた。

「昔っからそうなんです。肝心なときに決心がつかなくて」

「僕もそうですよ。肝心なときに、なかなか勇気が出ない」

 僕たちは名前を名乗りあい、みさきはこれまでのいきさつを僕に話しはじめた。

 やがてまた電車がホームに入ってきた。

「乗らなくてもいいんですか?」と、みさきが尋ねた。

「ええ。もう急いでいませんから。朝倉さんは、彼氏とけんかでもしたんですか?」

「えっ。なんでわかるんですか」

 女の子が駅のホームにスマートフォンを握り締めて、ひとりしょんぼりと座っていたらだいたい想像がつくものだけど「まあ、なんとなく」といっておいた。

 彼とけんかをしてしまったところまでの、ことの次第を話し終わると、みさきは手に持ったスマートフォンの画面に目を落とした。

 ふたたび電車が到着するというアナウンスが入り、僕は「じゃあ、これに乗ります」といって立ち上がった。

「わたしは、もう少しここにいます」

 そういって彼女も立ち上がった。

 僕の背後で電車が停車位置に停まった。

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