3
その日も昼まで雨が降っていた。
朝倉みさきと彼はその日、派手なけんかをした。きっかけは取るに足らないことだったのに、どちらも折れず、みさきは彼の家を飛び出してきてしまった。
駅のホームまで来てしまったけれど、もしかしたら心配してメールを送ってきてくれるかもしれない、そう思ってホームのベンチに座っていた。
電車がホームに入ってきたのと同時に、ホームの階段を人が駆け上がってくる音が聞こえてきた。
みさきは一瞬彼が迎えにきてくれたのかと思った。
でも、そうじゃなかった。
見知らぬ若い男がホームに駆け込んできたけれど間に合わず、扉が閉まり、電車は動き出した。
若い男は肩を落として、みさきの座っているベンチに一人分の間隔をあけて腰を下ろした。そして、持っていた傘をそばに立てかけた。
不安定に立てかけられた傘がずるずるとすべって、みさきの足元にぱたんと倒れた。
みさきは無意識のうちに傘を拾い、持ち主に渡そうとして、ぴたりと手がとまった。
これだ。
その傘は、持ち手の部分が通常の傘よりも長くなっていて、ごつごつとした木でできていた。その部分だけ見ると、まるで杖のようだ。一瞬にして記憶が蘇った。
間違いない、あの魔法の杖だ。
よっぽど長い間その傘を凝視していたんだろう、「あのぉ……」と、傘の持ち主がおずおずと声をかけてきた。みさきはその若い男の顔を見て、あのとき扉のそばにいた人だと確信した。
「ちょっと変わってますよね、その傘」
その若い男はそういってみさきに微笑んだ。
「あ。ごめんなさい」
みさきは握りしめていた傘をあわてて若い男に返すと、思い切って尋ねてみた。
「あの、すいません。すごく変なことを訊くようですけど」
「はい」
「あなたは、わたしに扉を開けてくれた人ですか?」
若い男は微笑みながらうなずいた。
この微笑みながらうなずいた若い男、魔法の杖の持ち主である若い男というのは、実は、僕のことである。
朝倉みさきが彼氏とけんかをしたその日、僕は次回の原稿の打ち合わせをするために、沿線情報誌の編集部を訪ねることになっていた。ライターというと聞こえはいいけれど、アルバイトに毛が生えたようなもので、それだけではとうてい食べていけず、他のアルバイトをかけもちして収入をまかなっている。
編集部に行く前に、みさきの彼氏と偶然同じ最寄り駅だった友人を訪ね、思いのほか長居をしてしまったため、僕は電車に乗り遅れてしまった。でも、そのおかげでみさきと初めて言葉を交わすことができた。
一年ぶりに見たみさきはびっくりするほどきれいになっていた。長かった髪を短くして、以前よりも明るく、活発な感じに見えた。
「あの、あれってやっぱり、わたしのために扉を開けてくれたんですか?」
ためらいがちに、みさきが僕に尋ねた。
僕はうなずいた。
「どうして?」
「それは……降りたいけど決心がつかない、そんなふうに見えたから、つい。もしかして迷惑でした?」
「いえ。迷惑なんかじゃありません。むしろわたし、そのことでお礼をいいたかったんです。本当にありがとうございました」
「よかった。僕もずっと気になってたんです」
「わたし、もしかして挙動不審でした?」
「まあ、少し」
みさきは、はあーっと溜息をついた。
「昔っからそうなんです。肝心なときに決心がつかなくて」
「僕もそうですよ。肝心なときに、なかなか勇気が出ない」
僕たちは名前を名乗りあい、みさきはこれまでのいきさつを僕に話しはじめた。
やがてまた電車がホームに入ってきた。
「乗らなくてもいいんですか?」と、みさきが尋ねた。
「ええ。もう急いでいませんから。朝倉さんは、彼氏とけんかでもしたんですか?」
「えっ。なんでわかるんですか」
女の子が駅のホームにスマートフォンを握り締めて、ひとりしょんぼりと座っていたらだいたい想像がつくものだけど「まあ、なんとなく」といっておいた。
彼とけんかをしてしまったところまでの、ことの次第を話し終わると、みさきは手に持ったスマートフォンの画面に目を落とした。
ふたたび電車が到着するというアナウンスが入り、僕は「じゃあ、これに乗ります」といって立ち上がった。
「わたしは、もう少しここにいます」
そういって彼女も立ち上がった。
僕の背後で電車が停車位置に停まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。