メリーバッドエンド。
亜保呂都留
時間差のある心中。(男女)
今日、僕は初めて人を殺した。時計の針は一時を過ぎていて、夜風が開いた窓から滑り込みカーテンを揺らした。思ったよりもずっと呆気なかった。僕は、この世で一番大切で、大好きな彼女の首を、両手で包んで、締め上げた。その首は細くて、今にも折れてしまいそうなほどに儚い命がそこにあった。最初、必死に僕の腕を掴み抵抗にならない抵抗を繰り返していた彼女も、次第に大人しくなり、とめどなく溢れる涙やぱくぱくと金魚のように開閉を繰り返す口から垂れる唾液で汚れた顔で、諦めたように一瞬微笑んだ。僕にはそう見えた。気味の悪い紫に変色していく顔に愛おしさを感じた。そんな僕を世間一般ではキチ○イとか精神異常者とか呼ぶんだろうなと、他人事のようにぼんやり思った。僕は一人の女性を殺した。殺してしまった。二度と戻らない命。僕が奪った。僕がこの手で、この両手で。無意識に口元は歪な孤を描き、興奮からか口角はヒクヒクと痙攣を繰り返していた。
僕は彼女の遺体を風呂場に隠すことに決めた。幸い、一人暮らしをしていたので、家族に見られる心配はなかった。浴槽に横たわらせ、見開かれたままの目をそっと手のひらでなぞり、瞼を下ろす。こうして見ると、ただ眠っているだけのように見える。髪を梳いてやると、指に絡まった毛が何本もブチブチと抜けた。
「ごめんね、禿げちゃうね。」
囁くように呟いた言葉はもう彼女には届かなかった。僕の言葉が彼女に届くことは永遠に無い。そう自覚した瞬間、どれだけ取り返しのつかないことをしたのか、ようやく自分の軽率な行動が巻き起こしたことを理解した。頬を温かな液体が伝った。パラパラと落ちる雫が彼女の頬を濡らし、一緒に泣いてくれているように見えた。何時までも眺めていたかったが、あと数時間でまた学校に行かなくてはいけない時間になるということを思い出し、仕方無くよたよたと覚束無い足取りで自室へ戻る。ベッドに潜り込んで目を閉じる。胎児のように丸まって寝る姿をよく彼女にからかわれた。「赤ちゃんみたいで可愛い。」と。頭を撫でて、「ママでちゅよ〜。」なんて、おままごとのようなことをよくしていた。そんなことを考えてるうちに、また涙が目に浮かんできた。泣き虫で、本当に赤ちゃんみたいだ。自嘲気味に薄く笑う。疲れて眠りに落ちるまで泣いた。
7時半、いつも通りの時間に目を覚ます。ジリリリリとけたたましく鳴く目覚まし時計を手探りで止めて起き上がる。開いたままの窓からは朝日が差し込み、爽やかな風と鳥の鳴き声が新しい1日の始まりを告げた。寝癖でボサボサの髪を掻き揚げながら大きな欠伸して、ふらふらと洗面所に向かう。蛇口を大きく捻り勢いよく出る水を掬って顔を洗う。近くにあった水色のフェイスタオルで顔を拭いながら、ふと、このタオルを以前彼女が気に入って使っていたっけ、そんなことが頭に浮かんだ。彼女は今どうなっているのだろう。風呂場の引き戸に手をかけて、少しだけ躊躇する。もし自分の知らない彼女に変わっていたら、そう考えると怖かった。それでも思い切ってドアを開く。幸い彼女はまだ腐っていなかった。風呂場に入り、浴槽の中を覗く。夜と同じ、血の気の失せた透き通るように白い肌が見えた。人の体は死後どのくらいで腐るのだろうか、朽ち果てるのだろうか、今まで考えたこともなかった。調べておいた方がいいのだろうか。彼女の様子も確認出来たし、朝食を取らなくてはと考えるも、彼女の遺体を前に、食欲は湧かなかった。結局今日の学校は自主休講した。
彼女の遺体を眺めていると、様々な思いが浮かんでは消えていった。付き合い始める前や付き合い始めの頃、彼女が生きていた時間を懐かしく思う。なんで殺してしまったんだっけ。彼女を深く愛していた。いや、今も愛している。これからも、ずっと。永遠に。そうだ、僕は永遠に彼女を愛し続けると、決めたんだ。彼女の名前を何度も呼ぶ。答えが返ってこないことはわかっていた。伝わらなくとも、口にしたい思いがあった。
「愛してるよ。」
「私も愛してる。」
不意に、彼女の声が聞こえた。驚いて彼女の顔をじっと見詰めると、確かに口が動いていた。僕が夜殺したはずなのに。動かなくなり冷たくなった体も確認した。それなのに、彼女は動いていた。生前と同じように口を動かし声を発した。何が起きているのか解らなくて、何も言えなかった。身動きすら取れなかった。そのまま、ただ彼女を見詰めていると、次は白い腕が動いた。どんどん上に持ち上げられ、僕の首のところまで上がった。それから、僕が夜したように、その手で、僕の首を、包み込んで、締め上げた。苦しくてたまらなかった。冷たくて固い手はびくともしなかった。酸素を求めてパクパクと動く口から唾液が零れたが気にする余裕などなかった。頭が痛くて、苦しくて、目の前がチカチカした。視界が滲んで、霞んだ。遠のいていく意識の中、彼女がもう一度愛してると言った。僕も愛してる、と返したかったが、痛んだ喉がこひゅーと小さく鳴っただけだった。
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