08/Recapture & departure《4》

「「「――実に興味深い観劇だった」」」


 暗黒色の海の上、穏やかだが凍てつく波に揺れる小型ボートの上に〝脳男ブレイン〟は立っていた。

脳男ブレイン〟の傍らには、狂乱の末に気絶したキティ・ザ・スウェッティを担ぐ満身創痍のアイアンスキナー。そして〝脳男ブレイン〟に拘束され、こめかみに拳銃を突き付けられたクロエの姿があった。

 公龍は直立したまま気を失っているアルビスに無色ノンカラードアンプルを打ち込み、その変異しきった身体を地面に横たえた。そして姿を消した〝脳男ブレイン〟たちを追って埠頭へと駆けつけたのだ。


「てめえ、クロエを離せ」


 左胸に滲む血を気にも留めずに、公龍は〝脳男ブレイン〟を睨む。〝赤帽子カーディナル〟も満身創痍な今ならば〝脳男ブレイン〟を確実に追い込むことができる。しかし拳銃を握る〝脳男ブレイン〟の左手が、公龍の動きを阻んでいた。


「「「まさか君たちの力がこれほどのものとはね。私も自らの目測を改めねばなるまいよ」」」

「――――、――――」


 クロエが必死の表情で助けを求めている。しかし助けたいからこそ、公龍は動くことができない。


「クロエに傷一つでもつけてみろ……ミトコンドリアまで徹底的にてめえを駆逐すしてやるからな」

「「「面白い。やってみるか?」」」


脳男ブレイン〟が華奢な指で撃鉄を起こし、冷たい銃口をクロエに押し付けた。


「てめえっ!」


 公龍は今にも海に飛び込まんという勢いで吼える。しかし絶対的な物理的距離が〝脳男ブレイン〟の態度に余裕を醸し出させていた。


「「「この《東都》は目覚ましい復興と発展を遂げてきた」」」

「あん? 早くクロエを離しやがれっ!」


 吼え猛る公龍に、〝脳男ブレイン〟は微動だにせず人差し指を立てる。それはまるで述懐だった。


「「「その速度は異常と言っていい速度だ。何故、そのように発展することができたか。答えは一つだ。感染症の蔓延という恐怖を脳裏に刻まれた人々が、不衛生を、不浄を、汚濁を、何より恐れたからだ。そしてそれは正しい道だった」」」


 にもかかわらず、と付け加え、〝脳男ブレイン〟は溜息を吐いた。


「「「廃区のような不浄がこの都市には依然として存在している。それは不浄であるのみならず、人間の悪徳の温床だ。どうして善良に生きる市民が、悪徳の毒牙に晒されねばならない? 嫌悪し、怯え、痛みを抱えねばならない? 《東都》は矛盾を孕んでいる。そしてこの矛盾は正さねばならない。そうは思わないかね?」」」


 痺れを切らし、ボートへ飛び移ろうと身を屈めた公龍に、〝脳男ブレイン〟が銃を向ける。放たれた銃弾は公龍の数メートル手前のアスファルトを穿ち、跳弾した。公龍の動きを制し、〝脳男ブレイン〟は尚も喋り続ける。


「「「では、いかなる方法で正すのか。官僚や政府主導の政策によって? 否だ。では、《リンドウ・アークス》が旗印となって立ち上がる? これも否だ。この問いについてもまた答えは自明だ。この《東都》が発展してきた通りの道を歩めばいい。それは何だと思う?」」」


 公龍に答える気はなかった。どうやって奴からクロエを引き剥がすかだけを、助け出す方法だけを考えた。


「「「世論だよ、九重公龍。都市とは生き物だ。それを形作るのはアスファルトでもなければ鉄筋でもない。《東都》という生物は、人という細胞によってのみ動態を獲得していく。市民の声が、願いが、血流となってこの街を変えていく。奇しくも、民主主義を謳う政府が限りなく排除されることで、市民の声は都市の心臓としての機能を取り戻したわけだ」」」


 言っていることの意味が、公龍にはまるで分からなかった。悍ましい殺し屋を囲い、多くの人間を殺めてきた元凶が、市民の声の重要性を語るなど言語道断だった。


「「「私はその導火線。たったの一撃で、この都市を変革するためのね。――さて、幕引きだ」」」


脳男ブレイン〟がクロエを突き飛ばす。クロエの小さな影が漆黒の海に投げ出され、公龍はそれに反応して海へと飛び込む。ボートはその隙に発進し、闇のなかに白い波を立てて離れていったが、公龍にとってはクロエを救出することのほうが優先だった。

 気泡で乱れた公龍の視界に、闇のなかでもがくクロエが見える。水を蹴って深く潜り、クロエへと手を伸ばす。公龍に気づいたクロエも必死に手を伸ばし、やがて二人の指が触れ、絡み合い、手を強く握り合う。

 公龍は海中でクロエを抱き寄せる。クロエの脚には、公龍が助けたとしてもすぐには浮上してこられないように鉄の重しが括り付けられている。幾重にも巻きつけられた鎖を解き、僅かに月光が指す頭上へと水を蹴る。

 凍えるほどに冷たい水のなかで、公龍はクロエの確かな体温を抱き締める。


「――――ぷはっ」


 浮上。肺が新鮮な空気で満たされていく。クロエもぜぃぜぃと喘いでいたが無事だった。

 照り付ける光に目を眇める。海中で月光だと勘違いしたそれが、ライトの光だったことに気づく。


「九重さん! 大丈夫ですかっ?」


 眩い光源の向こう側に、冷たい美貌を湛える澪の顔が見える。死闘に次ぐ死闘から生還した褒美としては申し分ない。公龍の胸に安堵が訪れる。

 途端、全身に痛みが走った。どうやら自然に分泌されていたアドレナリンが切れたらしい。朦朧とする意識を、肩と背中に回る小さな腕の感触でなんとか繋ぎ止め、間もなく救命ボートに引き上げられた。


   †


 アルビスは既に病院へ搬送されていた。倉庫のなかは超大型の台風か昔の映画に出てくる怪獣に蹂躙された後のように滅茶苦茶だった。

 公龍は濡れた服を上だけ脱ぎ、大判のタオルに包まりながら激闘の爪痕が残る倉庫内を歩いた。一応は止血した右胸の傷は動き回ることで少し開いたらしく、タオルには薄っすらと血の赤が滲んでいる。

 あらゆるコンテナ、重機は拉げ、折れ、破壊され、段ボール箱の山は例外なく崩れていた。中身は《平和製薬》が保有していた薬がほとんどだったが、まるでカモフラージュのように《平和製薬》のデータベース未登録の、見覚えのある赤茶色の粉薬が大量に紛れていた。


「ラスティキックか……」

「ラスティキックにはやはり〝脳男ブレイン〟が関与しているとみて間違いなさそうですね」


 公龍は振り返る。鑑識ドローンや部下に指示を出していた澪が立っていた。


「澪ちゃんも知ってるのか、〝脳男ブレイン〟」

「……ミスター・アーベントから聞いていませんか?」


 アルビスは予め〝脳男ブレイン〟を知っている風だった。そしてずっと何かを思考していた。あのときはクロエの救出のことしか頭が回らなかったので気にも留めていなかったが、あれはそう、事務所の資金難をどうやりくりして一か月を乗り切るかを考えているときと同じ表情だった。つまり、たった一人で何か重要なことを考えていた。

 よく思い返せば、公龍は何も知らないままここまで辿り着いていた。

 凄腕の殺し屋がクロエの命を狙っている。その事実だけで戦う理由は十分だと思い、まともに考えてさえいなかった。どうして空木朱音は殺され、娘であるクロエまで狙われる羽目になったのか。

 この《東都》で一体何が起きており、自分たちは何に巻き込まれたのか。

 何がどうなっているのか分からなかった。しかし公龍の知らないところで何か大きなうねりが生じているのは確かだった。精神を擦り減らす焦燥を押し殺し、冷静な思考に努める。分からないなら分からないなりに論理を形作っていくことが、今すべきことだった。

 思考が断片的な事実を手繰った。

赤帽子カーディナル〟による被害者――廃区の価値を認める論文を書いたジョナサン・バーウィック。〝種〟の売人だった空木朱音。そしてその遺伝上の娘であるクロエは奴らに狙われた。

脳男ブレイン〟の言葉――廃区という《東都》が抱える矛盾。世論によるその是正。その先に目指す完璧な清浄。真に理想である都市のかたち。


「廃区の、排除……」


 公龍の脳裏に浮かんだのは桜華の横顔。彼女はあの日、バーカウンターでこれから変わっていく都市の未来を語った。

 第二次都市計画ミルキーウェイズ・プロジェクト。大規模な高架道路建設による流通の効率化。その背後にある廃区撲滅の思想。

 だがそれは桜華が語ったように変革の第一歩に過ぎない。新たな都市計画は遅々とした、あまりに漸進的な変革だ。

 つまり〝脳男ブレイン〟に言わせれば、第二次都市計画ミルキーウェイズ・プロジェクトではあまりに不十分なのだ。たったの一撃で社会を変えるような力は、第二次都市計画ミルキーウェイズ・プロジェクトにはない。

 ジョナサン・バーウィックが論文に記した通り、廃区の存在は賛否両論だ。しかしどんなかたちであれ、廃区の存在を問題視して実際の撲滅のために行動している人間は思いの外少ないのが現状だ。

 大多数の市民にとって、廃区はもはやどうでもいい場所でしかない。関わろうと思わなければ、いくらでも自分たちの生活から除外することができる。臭い物に蓋をするのは容易なのだ。汚いものは廃区に全て押し付けて、蓋をしてしまえばいい。それは悪徳や不浄といった忌むべきものと、真っ向から対峙して解消していくよりもずっと楽だ。

 目につかないものはないのと同じだ。そして同時に廃区のような空隙が存在するからこそ都市での生活が清潔で善良なものになると彼らは分かっている。劇的に変化し発展する都市に包摂され得ずにこぼれ落ちたものを救い上げておく掃き溜めが、社会には必要なのだ。

 だから廃区はなくならない。必要悪としてそこに存在し続ける。

 ならばその世論を、どうやって廃区根絶へと傾けるのか?

 答えは簡単だ。

 蓋の隙間から、臭い物を溢れさせればいい。清潔で善良な都市生活を脅かすものだと市民に認識させればいい。確かにそこに危機があることを分からせればいい。

脳男ブレイン〟が望むのは都市の破壊でも、混沌でもない。市民の認識の破壊による、新たな秩序、正しい秩序の再構築、あるいはその足掛かりを築くことだ。〝脳男ブレイン〟はそのための導火線なのだ。

 その標的――。

脳男ブレイン〟がこのタイミングで動いたのには、明確な理由があるはずだった。

 何故なら、たとえ失ったとしても都市にとって最小限の痛みであり、しかし象徴的であるがゆえに大衆感情を煽ることのできるものがそこにある。

 それこそが、第二次都市計画ミルキーウェイズ・プロジェクト

 未来の創造を破壊すること。漸進的な改革の第一歩を挫き、それでは足りないのだと、自分たちの都市生活は常に危険と隣り合わせなのだと、無知な市民に知らしめること。

 きっとそれが〝脳男ブレイン〟の目的――。

 怒りが込み上げた。身勝手な思想を振りかざす〝脳男ブレイン〟に。あるいはこれまでろくに考えることをしていなかった自らの無知に。

 その愚かさが殺すかもしれないのは、自分自身ではない。


「なあ、澪ちゃん。クロエのこと、ちゃんとアルビスに頼んでおいてくれ」


 公龍は澪の返答を待たずに駆け出した。まだ生乾きの服を引っ手繰って羽織る。もはや居ても立っても居られなかった。


「ちょっと、九重さんっ? どこ行くんですか!」

「桜華が危ない」


 澪に聞こえるか聞こえないかの小さな呟きを残して、公龍は夜の闇に紛れていく。


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