丹後夜話〜蛇妖玄怪譚〜

帆場蔵人

第1話 峠の大蛇

 さて昔の話をしてやろう、と私の祖父の友人で土地の話に詳しい阿波四五六の爺様が今時珍しい煙管を手に何時もの如く語り始めた。それは私の地元の雨引≪あまびき≫神社、通称蛇神じゃがみさんの御神体に纏わる秘聞であった。


◇◆◇◆◇◆


 時は天正八年(一五八〇年)葉月の末のことである。天正六年、丹後地方を治めていた一色義道を織田信長に命じられた長岡藤孝が討ち滅ぼし丹後宮津を居城とした。この長岡藤孝は元は細川と名乗っていたが信長に仕えた折に山城国長岡一体の知行を許され性を長岡と名乗っていた。しかし丹後宮津からは京までの道程が遠かったため、天正7年に京に近く交通の要所であった加佐郡八田(現在の京都府舞鶴市)に地名を田辺と改め、田辺城を築き領地経営の中心とした。


 一人の侍がその田辺城下に向かう途中のことである。この侍の名を疋田景兼とする民話もあるが、これは間違いであろう。疋田景兼と言えば陰流の押しも押されぬ剣豪であるが、天正七年には五十歳になろうかという壮年であり、またこの時期はすでに田辺藩に剣術指南役として召し抱えられていたので、これは後に誰かが付け足した創作であろう。しかし、いずれ剣術に秀でた侍であったと思われる。或いは疋田景兼の弟子であったのかも知れない。とはいえ、語るに名無しでは困るのでここは疋田の弟子の一人、香取新左衛門かとりしんざえもんの名を借りることとしよう。


この香取新左衛門、諸国を武者修行していたが細川家に士官するために旅をしていた。年の頃は20代前半、長旅で衣服は薄汚れていたが背は高く恰幅は良いので落ち着きと貫禄を感じさせた。顔立ちは整っているが、野性味のある骨の太さがある。新左衛門には旅の連れがいた。少し前に宿で一緒になった商人で名を松吉と言った。なんでも宮津の生まれで、そちらに帰るところらしい。愛嬌のある男で人懐こい丸顔で鼻の頭に大きな黒子がある。新左衛門よりは年上で三十路くらいだろう。背中に行李を背負い薬を商っているという。


「しかし、助かりましたわ。この辺りも長岡様が治めておられますが、山道は侍崩れの野盗がでると言いますからな」


 そう言いながら恐る恐るという風に見回しながら峠へと登っていく。そろそろ申の刻だろう。太陽が西の山の端に沈もうとしている。新左衛門はと言えば、そんな松吉を見て苦笑しながら口を開いた。


「松吉よ。野盗が怖いと言うが、それよりも恐れる者がおるのではないか?」

「そいつはもしかして、先ほど下で会うた百姓の婆様が言っていた奴ですかいね」

「そうだ峠の大蛇よ」


 新左衛門は心なしか楽しげに言った。その様子に松吉は編笠を被った頭をさすり、


「香取様の腕前を疑うわけやないんですがね。人なら兎も角、妖の類いが斬れるもんですか?」

「生憎、未だに妖の類いに逢ったことはない。だが俺の師匠は諸国を修業して廻った際には鬼を撫で斬りにしたそうだから斬れんことはなかろう」

「ひぇ〜、鬼を。凄い方やな〜」


 峠の麓の村で農作業をしていた老婆が最近この山の峠に大蛇が出るので気をつけろ、と二人を呼び止めて言ったのだった。なんでも旅人が襲われ逃げてきたとか、野盗が大蛇に喰われて着物だけ残されていたとか。そのため夕刻が近づくと近隣の者は峠を越えることはないらしい。


 やがて峠に着くとそこから山の麓の集落が夕暮れの中に沈んで見えた。夕餉の支度のためか微かに立ち昇る煙が見える。松吉が大きな岩に腰掛けて一休みし始めたので新左衛門も隣りに座り竹筒から水を飲んだ。


「随分と落ち着いているが大蛇に呑まれるかも知れんぞ」

「そいつは勘弁願いたい。まぁ、いざとなったらこの行李の中の秘伝の薬でも喰らわしてやりますよ」


 背中の行李を叩いて威勢よく言った途端、激しい風が峠を吹き抜けた。ヒャァ、と松吉の尻が飛び上がった。生い茂った木々の葉や草がガサガサと揺れる。腰に履いた刀に手を掛けた新左衛門の後ろに隠れた松吉が、ゴクリと唾を飲んだ。次の瞬間、ヒョコリと何か小さなものが草を分けて現れた。それを見て松吉がほっ、と息を吐いた。


「狸やないか。驚いたわ」


 そう狸の顔が覗いていた。山道であるから狸が出てもおかしくはないのだが……ふいに狸がけたたましい鳴き声を上げた。新左衛門の顔は強張ったままであった。鍛えぬいた武芸者の五感か或いは生来の感覚か、新左衛門は只ならぬ気配を狸の後ろに感じ取っていた。


 狸の頭がスーッと真上に上がっていく。明らかに不自然な動きでそのまま人の目の高さほどになると、その理由がわかった。人の胴ほどの太さの黒い蛇が狸の胴体を丸呑みにしながら鎌首をもたげていたのだ。すぐに狸は頭まで呑み込まれ、黒蛇の胴がわずかに膨らんだ。後ろで松吉が押し潰された蛙のような妙な声を出した。


 すでに鯉口を切っていた新左衛門は抜刀すると青眼に構え黒蛇と対峙した。しかし、その心中に迷いがあった。果たして妖に自分が修めた剣術が通じるのか。迷いを振り払うように打ちかかるが、黒蛇は頭を動かし躱す。新左衛門の刀が蛇の胴を掠めたがぬめりのある体表を滑ってかすり傷を負わせただけだった。黒蛇が顎を大きく開き新左衛門を一呑みにしようと襲いかかる。新左衛門は辛くも黒蛇の牙を躱した。刀で斬れぬのかという迷いがまたよぎる。

 

 そのとき黒蛇の顔に握り拳ほどのものがぶつかり砕けた。途端に黒蛇がもんどりうって体をくねらせたかと思うと、凄まじい勢いで山の中へと逃げさったのだった。後には絵も言われぬ奇妙な臭いが漂っていた。新左衛門は刀を納めると、その何かを投げた松吉を見た。


「新左衛門様、大丈夫でございますか。さしでがましいかと思いましたが手を出してしまいました」

「いや助かった。しかし、これはなんだ?酷い臭いだ」

「いやぁ、あれは護身用に持っている臭い玉でして。野盗やら獣がでたら投げつけてやるんですよ。まさか妖にも効くとは」

「なるほどあれも蛇には違いないから効いたわけか」


 そう言って新左衛門は安堵の溜息をついたが、すぐに顔を引き締めた。どれほど剣術を納めても敵わぬのではないか。そう考えた己を心中で叱咤するのであった。


「さぁさ、新左衛門様。麓の村まで急ぎ降りちまいましょう。せっかくの色男がかなり臭っとります」


 新左衛門は自分の臭いを嗅いで顔を顰めた。


「これはお前が投げた臭い玉のせいではないか」

「へへへ、失礼しやした。しかし、あのような黒い大蛇が出るとはねぇ。肝が冷えたわ。出来れば湯にでも入りたいもんです」


 調子良く言って歩き出した松吉の後を、黒蛇が消えた方を一睨みしてから新左衛門も歩きだした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る