誰かが作ったクリスマスケーキと、僕の最後のバースデー

鮎川 拓馬

誰かが作ったクリスマスケーキと、僕の最後のバースデー

朝7時。僕はまだ眠い目をこすりながら、新聞を取りに行った。

折りたたまれた新聞のしわを広げつつ、テーブルに座る。最近、隅から隅まで新聞を読むのが僕の日課となった。そうなれば気づくこともある。今日も、婚活の単語が2個増えている。

テレビをつける。今や良く見知ったニュースキャスターが、開口一番「婚活の解禁まで後3ヵ月…」と原稿を読む。耳が痛いと思いながら、チャンネルを変えるが、皆婚活についての話題ばかりだった。


―結婚活動、略して婚活

現代の日本にはこんな制度があった。高校を卒業すると、すぐに結婚適性人材育成機関―略して婚適―に入れられる。婚適とは、結婚にふさわしい人材を育成する機関である。コミュニケーション能力等の人間力や、家事育児等夫婦生活に必要とされる能力や知識を磨く機関である。昔は高校の次には、専門学校や短大、大学などと言った学問機関が存在したようだが、今では廃止されていた。


今の日本では、結婚して初めて一人前と見なされ、国家から仕事を斡旋される。成婚率は、近年は毎年大体98パーセントで推移している。

昔は25歳で独身であれば、行き遅れだと言われた時代もあったそうだ。しかし、今では婚適卒業と同時―23歳にならないうちに結婚できなければ、余り者で生涯結婚できないと言われる。そしてまともな就職口を得られることもなく、人生終わりとまで言われている。23歳になってから後に結婚ができたとしても、世間の目は厳しく、社会的な扱いに差が出る。

だが、一時期成婚率が極端に低い時代が続いたため、日本婚活統括連合会―略して婚活連―が結婚適齢期を25歳未満に引き上げた。しかし、実際には婚活連の言葉には法的拘束力はないため、世間の扱いは相も変わらず23歳未満で結婚できなければ「行き遅れ」というものであった。


僕は受験をして、国立の4年制の婚適に入学した。婚適にもランクがあり、良い所には試験を受けてしか入れない。2年制や3年制等、無試験もしくは簡単な試験で入れるところもあるが、レベルの高い婚適を卒業し結婚した者には、国家から斡旋される仕事の質と給与レベルも上がる。それに、婚適で教わる知識の内容もレベルが高くなり、良い縁組を得る確率が高くなる。だから、親たちは躍起になってレベルの高い婚適にいれようと、優秀な塾に通わせる。婚適入学のために、そして婚適の学費にお金をかけた分、将来帰ってくるというシステムなのだ。

大学というものが存在していた時代には、よりレベルの高い機関に入るために浪人という選択をする者もいたそうだが、婚期に年齢制限があるため、機関へのこだわりのために浪人という選択をする者は皆無だった。


そして僕の通っていた婚適は、名のある婚適だった。

小・中・高校時代の僕は優秀ということで、近所で有名だった。親たちがレベルの低い婚適出身だったため、せめて次の代は恵まれたものになるようにとの願いから、親たちがお金をつぎ込み、躍起になって僕を塾に通わせてくれた結果だった。

また、両親は、僕の容姿が自分たちの遺伝を受け継いでいることを気にもしていた。だから、婚活時のネックにならないように、優秀な職を得られる国立の4年制の婚適に入れることを目標に、頑張って育ててくれていたのである。

だから、親の希望通り、名のある国立の婚適に入った僕の将来は約束されていた。…はずだった。



―婚活の解禁

婚適の3回生の10月になると、婚活が解禁される。

しかし、それまでに、学内では解禁までの準備として、セミナーがたびたび開かれる。

セミナーでは、婚活の流れ、自己分析、異性研究、婚活サイトの登録と使い方、経歴書の書き方等々を教えられる。

僕が新聞を読むのを習慣づけているのも、婚活のためであった。セミナーで、世間の知識や常識に詳しいものが、異性から好まれ勝利を手に入れると言われたからである。


そして、10月から解禁とはいえ、実際にはそれまでに勝負は開始されている。

「…こんにちは、○○婚適の××と申します」

「…こんにちは、◆◆婚適の●●と申します」

僕はスーツに身を包み、自身の婚適からそう遠くないカフェにいた。目の前に座る女性は、華やかなワンピースに身を包み、穏やかに笑っていた。

僕は、婚活サイトで見た物件の一人に「会ってお話ししたい」と個人的なメールを送っていた。すると、良い返事を得ることができたので、こうしてお話をすることになった。

「××さんは、どうして私が良いと思ったのですか?」

「それは、●●さんの経歴のなかで、特に▲▲というところを魅力に思ったからです。」

僕はセミナーで習ったとおり、さわやかな笑顔を顔に張り付けながら、問答を繰り返す。


自身にも、そう言った個人的な連絡が来るたびに、気に入った相手には実際に足を運んで会いに行く。



そして、あっというまに10月になった。婚活サイトのエントリーが解禁される。さらに、国や地方公共団体が開催してくれるパーティーや街コン、そして企業が自社製品の広告を兼ねて開催する婚活イベントが、一斉にそこかしこで開催され始める。この時期、女性達がきらびやかなドレス、男性達がスーツに身を包み、会場へいそいそと向かうのが、毎年恒例の街の様子だった。


僕はエントリーして、良いお返事をいただいた女性に会いに行く。また、自身もエントリーされて、気に入らない女性にはお断りのメールを、気に入った女性に会いに行く。

さらに、僕はイベント開催の情報を集めては、満席にならない内にと待ち構えて席を予約する。そうして毎日のようにイベント会場を走りまわる。多い日には1日に4会場を回った。そしてイベントでいい雰囲気になった女性とは、後日二人きりで改めて会う約束をする。相手に気に入ってもらうためにも、会う場所はできるだけ良い場所が良い。だから、高級レストランやいい雰囲気のカフェを下調べし、そこを会う場所とする。

食事代はもちろん、服代もかさむ。交通費は馬鹿にならない。しかし、いい物件を得るために必要な支出だと、バイト代と親からの仕送りをつぎ込む。



そうして数か月経った頃には、成婚内定へ行きつく者がちらちらと目に付き始める。


―彼は言った

僕は、私立の4年制婚適の4人の女性にエントリーしたと。そして、4人共から成婚内定を貰い、そのうちで一番美人で優しい女性に決めるのだと。但し、相手から内定辞退される可能性も考えて、4人とも2月までキープしておくのだと。

―彼女は言った

国立の4年制2人と私立の8人から成婚内定をもらったのだが、もっとレベルの高い婚適の夫が欲しいから、国立の2人と私立の2人だけをキープして、婚活を続けるのだと。


婚活は、成婚内定を得ただけで安心してはいけない。婚適卒業の一か月前まで、いつでも相手は成婚内定を辞退できる。だから、普通は内定を4つぐらい持って、2月の末に誰か1人に決断することになる。

また、相手から辞退されることを防ぐために、相手の心をつなぎ止めておくための方法もセミナーで習った。相手への定期的な連絡とプレゼント、そしてデートなど絆を深めるための行動術などを。僕にはまだ1つも内定がないが、内定を得た時のためにそれらの対策本も読みこんでいた。



そして、翌年のゴールデンウィーク。僕はそれまでの必死の努力空しく、成婚内定は得ていなかった。

「ええ?お前まだなの?」

「オレなんかとっくに10人から成婚内定もらってんだぜ」

少し前まで、僕と同じく不安な顔をしていたはずのやつら。それが今や、僕にニヤニヤと馬鹿にするかのような笑みを向けている。

僕は「はは、そうなんだよ。頑張っているんだけどなあ」とへらへらとした笑いを顔に張り付けて、彼ら―持てる者達―の視線から逃げるようにへこへこと頭を下げながら校内を歩く。

内心は、余裕をかます彼らに対する憤りと妬み、そしてこのまま結婚できないのではないかという焦りと不安で、叫びながら駆け出したい気分だった。



―愛しています。

婚活サイトで、目に付いた良さそうな女性達に、ラブレターエントリーを送る。20人30人に一度に送る。婚活を始めたばかりの頃は、一人ひとり顔や経歴、そして女性が男性に求める条件、そして女性のこれだけは譲れない条件などを、じっくりと見てからエントリーしていた。しかし、今や適当と言っても差し障りの無い行為となっていた。4年制の婚適の女性たちを検索でかけ、顔写真や経歴をさっと見て、良いなと思えばエントリーボタンを押す。機械的な愛の言葉をつづった文章を書き、それを女性たちに送る。

―僕には君だけ

―僕は君を愛している

―君の性格が魅力的

―君と出会えたのは運命だ

何度も何度も似た言葉を、無表情でパソコンのキーを叩いて入力する。


「僕は君がとても魅力的だと思います。なぜなら…」

何度も繰り返した僕のその言葉に、女性たちは皆それぞれ、様々な対応を見せてくれた。

髪の長い彼女は、あからさまに失笑した。

色白美人な彼女は、眉をひそめつつ愛想笑いをする。

スポーティな彼女は、僕に圧力をかけるかのように、僕の否定をし続けた。

涙ぼくろが魅力的な彼女は、僕の経歴について、重箱の隅をつつくかのように問い続けてくれた。

ボーイッシュな彼女は、ずっとニコニコとほほ笑んでいて、もしかしてと期待させてくれた。しかし、お断りの返事すら返してくれなかった。

知的な彼女は、「君となら楽しく人生を歩める。よろしく」と握手してくれた。そして、3日後に来たのは、「やっぱりやめた」のメール。

八重歯な彼女は、会ったその夜に電話をくれた。「迷っているの」と。しかし数日後来たのは「貴殿の今後のご活躍を…」と定型文が書かれた手紙。



両親が電話口で言う。成婚内定はまだか、まだかと。

―ご近所さんに顔向けができないじゃないか。

―わざわざ塾に行かせてまで国立の婚適にいれたのに。

―未だに成婚内定がないなんて。お隣さんの子は2年制だってのに、国立の4年制2人から内定を貰っているのよ。



親に急かされ始めた頃の僕は、焦って焦って、毎日泣きたい心地で走り回っていた。

しかし、それから数か月もたてば、僕にはもはや泣く気力すらなくなっていた。それよりも、辛いことが当たり前の毎日に、辛いということ自体感じなくなっていた。「辛い」、「苦しい」で固定されてしまった感情に、いつしか自身に感情があるのかないのかわからない気分になる。

そして、相手から届くお断りの返事が積み重なるたび、自身の居場所がこの世に無くなったかのような、むしろ誰にも相手にされない空気になっていくかのような気がした。

しかし、最後の「自分は優秀なはずだ」というプライドが、相手に求める条件を下げることを許さなかった。親も国立の4年制の女性を望んでいた。その期待を裏切るわけにはいかない。



しかし、4回生の10月になる頃には、行われるイベントも最初の頃の半分以下になる。

僕は自身のプライドを無理やり納得させ、相手に求める条件を下げた。4年制の相手だけではなく、2年制や3年制の相手にもエントリーを送り始める。しかし、その頃には女性たちは余った者ばかりになり、決して綺麗とは言えない者達ばかりだった。残っている綺麗な女性たちと言えば、指定する条件が厳しい女性か、さらに高いレベルの男性を目指して婚活を続けている女性ばかりだった。僕は、活動当初から2.3年制の者も視野に入れて活動するべきだったと後悔するが、今更遅い。半ば、投げやりな気持ちで婚活を続けた。



そんな時に、僕は彼女に出会った。にきびの跡が目立ち、体型も寸胴でお世辞でもきれいとは言えない相手。そして、2年制の婚適を去年卒業した既卒生だった。2年制を卒業しているのだから23歳までには余裕はあるのだが、既卒生は嫌われていた。新卒時代に何か問題があったのではないかと、疑われるからだ。

だけど、僕はもう半ばどうでもよい気持ちになって、妥協に妥協をした心地で彼女にエントリーをした。なんとしても成婚内定を得なければ、僕の将来は終わってしまうからであった。結婚さえできればよい。僕は相手に望む条件をすべて捨てエントリーした。


「よろしくお願いします」

彼女は会うなり、ろくに会話すらしていないのに僕に成婚内定をくれた。醜い顔を笑みで更にゆがめながら。

既卒生の相手からすれば、僕は願ってもない相手だったらしい。とんとん拍子に話が進むが、僕はうれしくはなかった。いくら成婚内定を急ぎ過ぎたとはいえ、もう少し欲張っていれば良かったのではないか。僕は彼女にエントリーしたことを後悔し始めていた。

だから、僕は婚活を続けようとした。しかし、彼女はそれを見透かしたかのように、僕につきまとい執着した。彼女は度々僕を呼び出しては、婚活を継続させないためか、丸一日長々と拘束した。そして、毎日のように僕の婚適の周りを、僕を探してうろついていた。しかし、彼女は変なところで引っ込み思案だったのか、僕と同じ婚適の者に僕の名を出して居場所を探そうとしなかったのは幸いだった。僕は友達に彼女が内定相手だと知られたくなくて、いつも隠れるようにして婚適に出入りをしていた。

だから、僕はしかたなく婚活継続をあきらめた。



3月の始め。僕が彼女を両親に紹介した時、両親はそろってため息をついた。高い金を息子につぎ込んで得た嫁が、そんな物件だったから。母親にいたっては、彼女を前にして泣いていた。しかし、彼女は気障るどころかどこか誇らしげな顔をして、胸を張って自己紹介をしていた。

そして、彼女は2人姉妹の長女だった。婚活サイトで彼女が指定していた条件は、彼女の家へ婿入りするという事。僕は一人っ子だった。だから、両親は僕と顔を合わせる度に苦々しい顔をしていた。


逆に僕が彼女の家に挨拶に行ったとき、彼女の家族は諸手を挙げて歓迎していた。僕がいたのは有名な婚適だったからである。僕は彼女と結婚すると同時に、良い就職先を国から紹介される。彼女たち家族は親族と共に、玉の輿だとお祭り騒ぎであった。それを見て、僕はさらに冷めた心地になった。もうこのまま、時間が進まず止まってくれないだろうか。しかし、時は無情にもすぐに過ぎ、婚適を卒業する季節となった。



「なあなあ、みんな自分の内定した嫁さん連れて、卒業旅行へ行こうぜ」

僕と同じゼミの男が、その頃の僕が最も恐れていた言葉を言った。同じゼミの者は皆、賛同の声をあげる。僕は残念そうな笑顔を顔に張り付けながら、断わった。内定妻が遠い所に住んでいることを理由にして。僕は自身の内定妻を、せめてもの見栄を張り、私立の4年制の10人並みの女性と偽っていた。参加などすれば嘘がばれてしまう。

婚適の最後のお楽しみイベントの内の1つ、卒業旅行。婚活を開始した頃、僕は最高の内定妻を連れて自慢することを楽しみにしていた。しかし、今やみじめな境遇に泣けてくる。

僕はせめてもの思い出づくりに、もう一つのイベント―謝恩会に出る。しかし、自分以外の者達は皆、これからの幸せについて熱に浮かされたように語っていて、自身の居場所はどこにもなかった。僕も、将来のことを幸せそうな笑みを張り付けて語った。事情も知らない彼らは、その嘘を聞いて穏やかに僕を祝福してくれた。僕の中では、最悪の思い出となった。



僕は卒業と同時に彼女と結婚し、逃げるかのように彼女の実家へ引っ越していった。せめてもの救いは、彼女の実家が僕の地元からはるか遠く離れていることであった。近所の者に彼女の容姿や経歴が知れることは無い。それに、僕の両親は、僕は遠くに住む国立の4年制の女性と結婚したとご近所さんに嘘をついていた。その時の僕は、地元に帰ることはもう二度とないだろうと思っていた。


「これからお世話になります」

僕はそう言って彼女の家に入った。夢はなくとも、せめて穏やかに毎日を過ごせることを祈って。

しかし、現実はそうはいかなかった。

僕の妻は国から仕事を斡旋された時、仕事に就かず専業主婦となる選択をした。僕の収入が良いから、自分は家事に専念したいというのが理由だった。しかし、結婚してからは、全く家事をしなかった。いつも家でゴロゴロと寝てはお菓子を食べて、テレビばかり見ていた。彼女の母もまた僕が婿入りしたのを期に専業主婦となっていたが、娘の世話ばかり焼き、僕のことはほったらかしであった。僕は仕事に行く前にたまりにたまった洗濯と食器を洗い、仕事から帰ると風呂を掃除して沸かして晩御飯を作る。そして、深夜まで家の掃除をした。僕は日に日に疲弊していった。

それどころか、彼女の母親は最低な人間だった。外面はよく、ご近所さんの評判も上々。しかし、うちでは態度を豹変させた。結婚前、僕が挨拶をしに行ったときには、猫の皮をかぶっていたらしい。

彼女の母親もまた2年制の婚適を卒業してから結婚した既卒だったらしく、4年制婚適で新卒の僕が気に入らなかったらしい。毎日、僕がした家事に難癖をつけては、人格を否定する罵声を浴びせる。僕の給料はすべて彼女の母親に管理され、ほとんど自分達の懐に入れていた。僕の所には小遣いとしてわずかな額しか回ってこなかった。

そして、外に助けを求められることを警戒したのだろう。トイレに行く時には携帯を持っていないかチェックされ、入っている時間まで管理された。風呂でシャワーを浴びながら、声を押し殺して泣いているのを見つけられた時には、それはそれは満足げに笑っていた。


また、僕の妻には高校生の妹がいた。その小姑は、最初の内は庇っていてくれていた。それがせめてもの救いだった。しかし、やがて何を思ったのか、母親と一緒になって僕をいじめ始めた。

僕は耐えきれなくなって家出をした。しかし行く宛はなくて、街を夜中じゅう徘徊した後、空が白みかけた頃には地獄である妻の家に戻るしかなかった。玄関をこわごわと開けると、妻と姑、そして小姑が待ち構えていた。小姑は、3人の真ん中でにやにやと腕を組んで、胸を張っていた。その後ろでは姑もまた、よく似た笑みを浮かべている。

「よくも姉ちゃんに心配をかけたな。謝れ。土下座しろ」

小姑は、玄関の土間床に頭をこすりつけ、皆に手をついて謝れと僕に言う。大人しい舅が、なけなしの勇気を振り絞り仲裁に入らなかったら、僕は一体どうしていただろうか。きっと3人を殴り殺していたのだろう。

その1週間後、僕は離婚をすることにした。



直接妻に言うのは怖かった。だから、舅におずおずと申し出る。舅は、原因は自身の妻と娘たちのことかと聞いた。そうだと頷く。舅が彼女たちのことは何とかするからこらえてくれと言ったが、家族の中で空気のこの男に期待など出来ない。僕は、首を横に振った。すると、舅は平身低頭だった姿勢を翻し、「最近の若者は堪え性がないからな」とねちねちと僕を責め始めた。

舅から僕の離婚の申し出を聞いた妻は、僕に執着した。僕が仕事に行くと、仕事場の外をうろつくようになった。仕事中にもひっきりなしに電話がかかってくるので、携帯の電源を切った。すると、会社の電話にまで掛けて来るようになった。彼女は僕と別れることよりも、自身の生活の質が落ちることを必死で止めようとしていた。さらに彼女は、僕と別れた後に、自身に次が無いことをよく理解していたからである。

姑や小姑もまたしかりで、態度を軟化させるどころか、妻と同じく僕の行動を徹底的に管理しようとした。散歩に行くと言って家を出ようとすれば、どちらかが必ず付いてきた。僕が逃亡するいざという時のために、スタンガンや警棒を隠し持って。


僕はもう耐えきれなかった。

僕はある夜、家族が寝静まった頃に家を出た。隣で眠る妻を起こさないように息を殺して集めた荷物と、わずかな小遣いを持って。僕の貯金通帳や印鑑は姑が管理していてどこにあるかもわからなかったし、探していれば物音で目覚めるだろうから持ち出すことはできなかった。


僕は離婚届と離婚申立書を書く。そして、それを内容証明郵便で妻の家に送った。

結婚が当たり前になった今の時代には、結婚制度の法律も整っており、その中には離婚の14日前までに離婚の意思表示をすれば離婚できるというものがあった。但し、申し出る方には、緊急を要する正当な理由がなければならない。妻たちが法的な手段をとった時に対抗できるように、僕はありとあらゆる妻とその家族の悪行を申立書にしたため送った。

それから2日間、家のない僕は、適当な理由で上司の許可を得て、会社に寝泊りをしていた。きっと会社の周囲を妻たちがうろつくだろうと思っていた。しかし、誰も来ず意外に思ったものだ。

3日目、会社に妻の家から手紙が届く。人目を気にし、トイレの個室で封を開ける。中には予想とは違い、妻の名前が書かれ印の押された離婚届が入っていた。拍子抜けするが、僕はうれしい気持ちを禁じえず、会社のトイレで一人万歳をしていた。

結婚から1年が経っていた。その日、僕は自由になった。


しかしその日、僕は仕事を失った。この国で仕事ができるのは、結婚している一人前の者だけだからである。



その時の僕の手元には、一人暮らしできる資金すらなかった。

僕はしかたなく、実家に帰った。インターフォン越しに母親は呆れかえりつつも、そのまま玄関に締め出していれば近所の目があるので、仕方なく家に入れてくれた。

僕はかつての自分の部屋に入り、やっと本当に自由になれた気がした。

しかし、それから一週間もしないうちに、両親は僕の尻を叩き始める。

再婚しろ再婚しろと。



僕は再婚活動をし始めた。

この国では、結婚して数か月してからの離婚率も意外と高い。そんな問題の対応のために、婚活連は早期離婚者を第二婚活者として、ほぼ新卒婚活者と変わらない待遇で24歳まで婚活をさせてあげることを推奨していた。しかし、先にも述べていたが、婚活連の決定には法的拘束力はない。婚活支援会社やサイト各社はその決定に従いつつも、世間の扱いの実態は変わらなかった。早期離婚者に対する世間の目は、相も変わらず冷ややかだった。


それでも、僕は一縷の望みをかけて、再婚活動を続けた。サイトで検索し、良いと思った相手には積極的にラブレターエントリーを送る。今度は、妥協はしない。僕は新卒の時の反省を兼ね、求める女性像をしっかりと描き、また自身も磨き、女性に会い続ける。新卒時代と違ったのは、女性達は皆、僕が早期に離婚した理由を聞いた。ネガティブな離婚原因は嫌われる。だから、僕は離婚をした原因をポジティブな嘘で説明する。しかし、皆一様に首をかしげる。しかし、僕はめげずに笑顔で説明を続ける。時には、真実を暴いてやろうと、何度も趣向を変えて同じ質問を掛けつづける女性もいた。そして、女性との会話内容が、早期離婚の理由問答で終わる日もしばしばであった。


僕は毎日出勤する風を装い、遠く離れた街でスーツに着替えて再婚活動をしていた。両親は僕がこちらの県に転勤になったから、妻を置いて単身赴任で実家に帰ってきているのだとご近所さんに言っていた。



―いつかはきっと、幸せになれる日が来るはず

僕はそう思いながら婚活を続けた。こんなに辛い日々が続いているのだから、次にはきっと幸せな日々が待っているはずだと。

積み重なっていくお断りの手紙。それを庭で燃やしながら、僕はくじけそうになる自分を、その言葉で鼓舞していた。


庭でそうする日が、一月ひとつき二月ふたつきと経るごとに増えていく。その度に両親の視線が、呆れ、失望、あきらめと変わり、やがてゴミを見るかのようになる。その視線を見てみぬふりしながら、自身の心の中に諦めの心地が沸くのを見てみぬふりしながら、僕は自身を励まし女性に会い続ける。こんな生活に沸いてくる嫌気を隠し、女性に仮面の笑顔を向け続ける。


―だって、この世に産まれたからには、僕には何か役割があるはず

だから、僕はこんなところで終わるわけがない。

だから、いつかはきっと、運命の女性と巡り合い、幸せになれるはずなんだ。



しかし、神様は意地悪だった。



その日。新卒の婚活生で占められた、肩身が狭く息苦しいバスの窓から、僕は救いを求めるかのように外を眺めていた。そんな時に、ふと目にはいった黒い看板に、白い字で何か文が書かれていた。


―苦のあとには必ず楽が来るとは限らないのだ。またもう一つの苦が来ることもあるし、前よりもっとひどい苦がくることすらあるのである―


―ぷつん

何かが頭の中で切れた音がした。

それから後、運転手に肩を叩かれるまでのことは覚えていない。気がつけば終点。僕は誰もいなくなったバスの中で一人座っていた。

呆然とした心地で、運転手に促されるがままに外へ出ると木枯らしが吹いていた。


図らずもドタキャンしてしまった会場からは、苦言の連絡すら来なかった。


僕が一人や二人、いないところで誰も困りはしないのだ。

僕が一人や二人、いないところで世界は何も変わらないのだ。



それから、一月が経った。

クリスマスイブ。笑みを湛えた夫婦たちが、大通の真ん中に設置されたツリーの下を盛んにいきかう。

ジングルベルの音を聞くのは今日が最後になるだろう。明日からはお正月の曲が流れるはず。

―後は、ガムテープか。睡眠薬は病院でもらったのがあるし。

空調設備の整った今の時代、やっと手に入れた練炭を持ち直す。ちょっと休もうと、ツリーの下のベンチに腰を下ろした。隣にいたカップルが、あからさまに嫌そうな顔をして移動したが、もう何も気にはならない。

雪がちらつきはじめた。明日にはホワイトクリスマスとなっているだろうが、僕にはもう関係がない。

―今日。この国にいる僕以外の人間は、全員幸せなんだろうな。


そう思った時、ふと僕は思い出す。

過去の日本にはこんな時代があったらしい。

就職活動という、自身で職を探さないとならない時代が。

そして、さんざん苦労して就職活動を終えた後でも、婚活、妊活、はては保活と、幸せを手につかむため、自身の力で延々と活動し続けなければならない時代だったと。


だから、今の時代は幸せだと皆は口をそろえて言う。長い人生で一度きりの婚活さえ乗り切れれば、後は何もかも国が援助してくれる。

就職活動が行われていた時代の大問題だったという、未婚化も少子化も今や見る影もない。

結婚さえすれば仕事が手に入る。妊娠出産も皆、国が面倒を見てくれる。老後の世話までも。たった一度っきりの活動で、生涯の幸せがすべて手に入る。

そして、就職活動が行われていた時代のもう一つの問題、経済の低迷は今や見る影もないらしい。現代、毎年恒例の婚活のおかげで、日本経済は潤っていた。婚活者の移動は、交通各社に潤いをもたらす。そして、スーツやドレスの購入は、服飾業界に潤いをもたらした。お見合い場所や会場の提供は、飲食業界やホテルに。通信機器やネット需要は、通信業界に。時事知識の必要性は、新聞やメディア各社に。婚活用写真の需要は、写真印刷業界に。対策本の必要性は出版各社に潤いをもたらす、というように。


婚活のおかげで、企業の収益は上がり、日本経済は右肩上がり。

そして、労働者の給料も右肩上がり。


――人生80年。婚活のおかげで皆が幸せに生きられる国、ニッポン。



「……」

顔を上げると、ケーキ屋が目にはいった。中では母親に手を引かれた無垢な幼子が、ショーケースのケーキを指さしおねだりしている。まだうら若い母親がにこりと頷くと、幼子はきゃっきゃと飛び跳ねていた。

―君も僕になるのかな

ふと思う。君もいつか誕生日が、絶望の時になる日が来るのだろうかと。


「……」

僕は明日、25歳になる。僕が生きた記念あかしに、一日だけその絶望を味わっておこうと思う。僕以外の誰もが味わえない絶望を味わえることを、僕が今まで生きてきた意味―最後の誇りプライドとするために。


―だけど、

僕は腰を上げた。


―せめてケーキは、今日のものを買っておこうか。




誰かが作ったクリスマスケーキと、僕の最期さいごのバースデー

終わり



**********

黒地に白字の看板のあれって、キリスト看板で名前合っているんでしたっけ…?

ちなみに、どこでか忘れましたが、この内容のキリスト?看板を見たのは実話です。

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誰かが作ったクリスマスケーキと、僕の最後のバースデー 鮎川 拓馬 @sieboldii

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