第270話 比良坂

 上層に戻るほど、迷宮の危険度が薄まり、入れ替わるように地上の現実が近づいてくる。

 間違いなくルガムは怒る。

 メリアもいい顔をしないだろう。

 ステアと小雨をさらうのだから『荒野の家教会』とも揉める。しかし、これについてはノラを通してガルダも味方に引き入れられるだろうし、僕の後見人を名乗るブラントも担ぎ出せるかもしれない。

 勢力が弱くなったことは周知の事実であるので、ニエレクあたりを矢面に立たせて躍らせてもいい。いずれにせよ、組織力での抗争なら勝ち目もありそうだ。

 それでも、ローム先生はまっすぐに僕を的に掛けそうな気がする。しばらく、身辺には気を張っていなければならない。

 とにかく、素手で人を殺せるルガムをいかに説得するかが大事だ。

 

「まって、まって……!」


 ゼタの悲鳴が上がり、そちらを見るとゼタがいない。

 替わりに形容しがたい不気味な物体が蠢いていた。

 内圧でパンパンに膨れ上がったその物体は、腐乱した水死体を思い起こさせた。

 スライム?

 いや、流動する肉といった方が正確だろう。

 弾けた服が表面に張り付いていて、それは僕が渡したものだった。

 

「ゼタ、どうしたのさ」


 あまりにも間抜けな質問を物体に投げかけてしまい、僕は己の動揺を悟った。

 ゼタの声は物体の向こう側から聞こえてきたものではない。その物体こそがゼタであることはすぐに理解できた。

 瞬間、物体から触手が飛び出しカルコーマを襲った。

 とっさに受けた腕に絡みついた触手は見る間に根を生やしながらカルコーマの腕を駆け上がっていく。


「ちょ……マズい!」


「動くな!」


 ノラは短く怒鳴ると、数歩の距離を一息に跳んだ。

 触手が肩にかかる直前、刀が一閃しカルコーマの腕が裁ち離される。

 それでも腕を起点として再度触手を伸ばそうとする肉塊から間一髪で身をかわし、カルコーマは距離をとった。

 宙に浮いた腕には無数の投石が一息に打ち込まれ、本体に押し戻されていく。

 なにが起こった?

 僕はぼんやりと、ゼタだった肉塊を眺めていた。

 変な声が聞こえると思えばゼタのうめき声だと今さらに気づく。

 治療すべき味方、それとも倒すべき魔物か。

 普段なら考えるまでもなく魔法を叩きこむ貴重な時間を、僕は突っ立ったまま過ごした。

 それでも僕が死ななかったのは前衛の三人がすかさず僕とゼタの間に立ちふさがってくれたからだ。

 僕に向けても触手が延ばされたものの、小雨が短刀で打ち払い助かった。

 

『傷よ癒えよ!』


 ステアの魔法が唱えられ、カルコーマの腕が復元する。

 戦闘……戦闘なのか。

 敵なら人間だろうと構わずに殺して来た。それでも、仲間と戦ったことはない。たとえそれが好きな人間ではなくても。

 気づけば僕以外の仲間たちは戦闘準備を終えていた。

 なにより、カルコーマの腕を取り込んで少し大きくなった肉塊はこちらへ旺盛な戦闘意欲を見せている。

 

「早く魔法を!」


 誰かが叫んだ。

 いかなる性質を持つのか判らない敵と、近接して戦うのはためらわれるのだろう。

 だから僕だ。

 それでも、目の前の推移は現実感を欠いて油に沈められた様にゆるゆる動いていく。

 

 危ない、戦え!


 胸の奥で何かが響く。

 コルネリが不満そうに僕を見ていた。

 彼の巨大な不安とストレスが流れ込んできて吐きそうになり、同時に目が少しだけ覚めた。

 あれはゼタだけど、すでにゼタじゃない。

 猿が体を作り替えたときに何か悪戯を施したのだろう。圧倒的に高度な存在が、矮小な僕たちへ向けた、結果を観測もしない程度の無邪気な悪ふざけである。

 僕たちが慌てふためく様を想像してほくそ笑んでいるのか、あるいは既に忘れているか、その程度のことだ。

 

「たすけ……て」


 肉塊からは切れ切れにゼタの声が聞こえてくる。無意識なのか、意識が残っているのか、それとも何者かに乗っ取られての行動か。

 どれでもいい、彼女を殺してあげよう。

 かつて、うすら寒くも級友として接した彼女へ、僕ができる唯一のことだ。

 僕は周囲に漂う魔力と合わせて体内の魔力を練り上げる。

 敵を焼き尽くす炎か、消滅させる『雷光矢』か。

 どちらも違う。神を殺す方法を考えておけとウル師匠が言ってくれた。

 まだその答えは見つからないけど、弟子としてその戦い方をなぞることは出来る。

 

『開け!』


 地面に広がった亜空間の入り口に肉塊はあっさりと落ち込み、消えていった。

 仲間たちが荒い息を吐いて油断なく周囲を見張る。

 だけど、おそらく大丈夫だ。

 ゼタは空間魔法を使えなかったし、あの魔物も魔法で戦うようには作られていなかった。

 いくら力が強かろうが空間は割れない。

 空気も魔力も存在しない空間内であの肉塊はあっという間に消滅するだろう。

 ただし、彼女の魂はどうだ。

 僕の使える死霊術でもっとも高等な技術は発動の為、空間に魔法陣を書く必要があった。

 指でなぞった空間がぼんやりと光り、複雑な紋様を浮かび上がらせていく。

 それはかつて、アンドリューが研究した秘術中の秘術であった。肉体を喪い消失したゼタは通常の蘇生が出来ない。

 ならば呼び出せばどうだ。

 肉塊を落としたのとは別の亜空間を広げ、全身鎧を取り出すと準備が完了した。

 魔法陣に大魔力を注ぎ込んで反応させると、手応えがある。

 僕は物を掴む要領でそれを掴んで引っ張り出した。

 目では見えないものの、確かに手の中には魂の存在が感じられる。

 その魂を迷宮の呪いから保護しながら鎧に封じ込め、鎧の上に魔力で紋様を書くと一連の作業が終了した。

 仲間たちが僕の奇行に目を丸くしている。

 

「ゼタ、聞こえる?」


 僕の言葉に、鎧は動き出し身を起こした。

 “生ける鎧”と呼ばれる魔法生物の完成である。

 本来は雑霊を捕まえて封じるつもりだったのだけど、緊急時でゼタの魂を入れる器が他になかったので仕方がない。

 反魂術はアンドリューがリッチに転生する際、用いたものの変形だ。

 魂の纏う魔力が十分に強く、なおかつ術者がそれを見分けられて、それでいて死んだ直後でなくては成功しない。

 いや、それが全部そろっていても成功率は低いので、ダメで元々の試みだった。

 それでも成功してよかった。


「ゼタ、最期に言い残すことがあれば地面に書いて。僕が覚えておくから」


 言葉も残さずに死んだのでは報われない。

 遺言くらいは聞いてから再び送ってあげよう。

 しかし、彼女を思いやって秘術まで持ち出した僕の頭をゼタはポカリと殴った。

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