第260話 クラウド

 高揚感と同時に冷静な自分が耳元で囁く。

 そろそろ撤退準備を始めるべきでは。

 持ちこたえてはいるもののいつか崩れる停滞に、僕の胃はジリジリと焙られた。

 混乱したトロールとそうでないトロールに囲まれ、足掻いている僕たちが一番正気から遠い気がする。

 周囲をトロールに囲まれつつ特に順応が進んだ個体と打ち合っているノラたちは、劣勢気味のまま傷を増やしており、他に数匹いる強力な個体が敵に加勢すれば一気に均衡を破られてしまうだろう。

 

『食い破れ地虫ども!』


 ゼタが叫ぶと、魔力が発動して何かを呼んだ。

 召喚魔法!

 彼女の声に応えてトロールの死体が揺れたかと思うと、腹を食い破って大量の虫が躍り出た。真っ黒でムカデの足を半分から落としたような奇妙な虫で、鋭い顎をでキチキチと金属音の様な甲高い音を立てている。

 苗床にされた死体を食い尽くす前に周囲のトロールに広まり齧り出す。

 トロールたちはこれを振り払ったりしているのだけれど、次から次に群がる虫たちに対処できず、数体が生きたまま食われた。

 最初、召喚された虫の数は数十からせいぜい百だと思ったのだけど、どう少なく見積もっても十倍以上に増えている。

 説明を聞こうとゼタを振り返ると、彼女は極度に集中している様で何事かブツブツと呟きながら遠い目で両手を動かしていた。

 

「あの虫、分裂していますよ」

 

 ステアがおののきながら召喚された虫を指さす。確かによく観察すると、時々体が二つに裂けてそのまま二匹になっていた。

 恐れを知らない奇虫は個体の戦闘力こそトロールに及ばないものの、一斉に飛び掛かって数匹が殺されている間に他の個体がとどめを刺すのだ。しかも、一定量の肉を食うごとに分裂するので、最終的には獲物の分だけ個体が増えることになる。

 あっという間に十匹のトロールが骨に変じた。

 まごうことなき秘術である。

 なるほど、ゼタが大勢のトロールと戦闘をすることに迷いがなかったのはこの術のおかげかと僕は得心がいった。

 いったい、何を召喚したのかはわからないものの、その特性からは敵が多い方が効力を発揮するのだろう。


「いい加減にしなさい!」


 声が響き、トロールたちの動きが止まった。

 広場の奥、祭壇らしき工作の上に乗った一際巨体で、もっとも順応が進んでいるトロールは、明瞭な発言で僕たちと同じ言葉を発したのだった。

 

『溶かす雨よ』


 神官だと思われるトロールが片手をあげると、空中になにやら雲のような物体が沸き、奇虫のうごめくあたりに広がった。

 鼻をツンと突くような臭気に思わず鼻を抑えると、ステアと、神官トロールの呼びかけにより正気に戻って来たらしいゼタの横に移動し状況の変化に備える。

 ポツリ、と最初の雨粒が落ちてからすぐに局地的な土砂降りが発生した。

 雨粒が皮膚に着くと、激痛が沸き起こり皮膚が解ける。酸だ。

 スライムに近い激痛に驚き、僕は二人の手を取ると後ろに下がった。

 壁際まで下がると、雲の範囲外の様で雨は届かない。ノラたちが戦闘を繰り広げているあたりも雨は降っていないので、奇虫のみを狙った攻撃なのだろう。

 酸の雨に打たれた奇虫たちはギチギチ、ガチガチと不気味な音を立てて溶けていった。

 同時に多くのトロールも酸を浴びたものの、特有の治癒力で倒れる者はいない。

 短い驟雨が終わると、奇虫はすべて死に絶えており、ばらばらになって散らかっていた。

 再度、召喚を行おうとするゼタを止めて、僕は神官を見据えた。

 おそらく無駄である。余力があるのなら逃走用に残しておいた方がずっといい。

 

「そちらも止めなさい!」


 神官トロールはノラたちに向けて怒鳴った。

 既にノラと切り結ぶトロール以外は動きをとめて神官の方に向き直っていた。

 しかし、ただの言葉が命がけで白刃振り回す戦闘中に聞こえるはずもなく、ノラたちも強力なトロールも、その瞬間にだけすべてを捧げている。

 瞬間、腕を掻い潜ったカルコーマの一撃がトロールの胸に突き刺さった。鈍い音が響き渡る。

 しかし、トロールは一呼吸で回復すると厚身の白刀でノラの一撃を受け止めた。

 二発、三発、四発……。

 カルコーマの連打が積み重なっていく。一撃ごとに僕なんかバラバラになってしまいそうな威力が込められていて、さすがにトロールの顔も歪んだ。

 白刀はノラと競っているものの、もう片方の腕は空いている。それでもトロールはカルコーマの攻撃に対応をしない。

 おそらく、首を狙って潜む小雨を警戒しているのだろう。先ほどまでは肩を並べていた部下も戦闘を放棄してしまっているために戦闘の天秤が大きく傾きだしていた。

 体力抜群の、それも高度に順応したトロールはカルコーマの脅威がもっとも薄いと判断している。それは事実かもしれないけど、連打はどんどん重ねられ、十五を超えたあたりでついに限界に達したらしく血を吐いて倒れた。

 ノラはすかさず首を撥ね、復活の無いことを確認すると深い息を吐く。

 

「さて、気は済みましたか?」


 ノラたちが一匹のトロールに釘づけられている間に、すでに他の強個体は周囲を取り囲んでおり、勝負は決していた。

 一匹一匹がいまの個体と同等で、それがあと四匹である。

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