壱の日

「思い出せないっ!!!」

目を開けた途端、世界が生まれた。初めてなのに親身に感じる現象、狼狽という感情に懐かしさを覚えた。

私はヒト。性別は女。私は今生きている。

そして私は、たった今産声を上げた。息を吹き返した。

朝日に目がやられてドラキュラさながらに蹲る。ゴツゴツとしてかたばってて、とてもいい気分とは言い難いカプセルに入れられていたせいで寝る気も失せた気がした。さてさて私は誰でしょう。言葉という言葉が奔流のごとく溢れているというのにひとかけらも正体がつかめない。ふと、外界に目を向ける。

「・・・・・・? はぁーびっくらこいた。一体全体どこの惑星ですかここ」

外の世界は緑に溢れていて、どこかおとぎ話めいた風景が広がっていた。鏡には成人するかしないかくらいの華奢な身体が目に入った。これが、わたし・・・・・・自分が何者だったのか、どんな経緯があってここにいたのか、無意識に考えてしまうけれど、空っぽのような心は一寸たりとも窓を開けてはくれない。

追い討ちをかけるように丸裸、きっちりしてない髪の毛、ピリジンも阿鼻叫喚の悪臭を放つ自らの身体に余りにも我慢ならずゴロゴロゴロゴロ―――綺麗なのか汚いのか良いのか悪いのか、誰が私のコンディションを決めたのか出てこようものなら腹パンものだ。何故なら私は自分がわからない。それにもかかわらずこんな不合理で辻褄なんてない状態に置かれているのだからそれはそれは衰弱死上等の奇声発狂ものだ。責任者かもん。今の私ならば三千世界に文句を言うことも容易いだろう。とりあえず綺麗に畳んであった服を着させてもらった。

いろいろと考えながら泡のように消えていく感情を眺めていたら、コンコン、と、とても恣意的でない音がどこからか聞こえてきた。

それはノックだった。私は飛び上がって驚いた。どうしてかわからないけど、自分以外の誰かが存在しているという事実に慄いた。

あたふたして考える暇もなくて、慌てて二階まで駆け上がってカーテンの隙間からこっそり外を覗く。


そこにいたのは、白い人だった。


印象的で場違いな真白の衣に、そよ風が凪いでいる。薄く口角が上がっていても悲しさを堪えた表情が、特徴的だった。

男性はこっちに気付いておらず、ドアの前に花束を添えて足を翻した。私はよくわからない感情に揺られながらも、カーテンを閉めて蛇口を捻った。怖かったのではない。ただ―――面倒だったのだ。

一時間ほど経っただろうか。

暇だった。

外を眺めると、まだ気持ちよさそうに草原の上で眠る彼が見えた。いっそ帰ってくれたらよかったのに。とても心地よさそうな寝顔をしているものだから、もう少し近くで見てみたいと思った。

こっそり、こっそりと草を踏みながらさくさくと近付く。

端正な顔立ち。整ったその美貌に引き寄せられ、私は静かに身体を委ね――

「無粋」

もののみごとに吐き捨てた。

「ダメ人間。四肢脆弱。ぬけぬけひょろひょろ孤独のぼっち。不潔長毛変態妖怪が小動物にも満たない雑兵と組んず解れつした結果が自慢の白衣に傷の体たらく。貴方は研究者のプライドと名誉をキャンパスで落単してしまったのかな」

自分でも不思議なくらい彼への悪口が滑り落ちる。不遜を取り繕うこともせず流れた言葉に喝采をあげる。

内臓感覚、皮膚感覚、あらゆる全てがバーストしている。恐ろしい程に。

 すると彼は一瞬メガネザルのごとき開眼を披露してくれた。太古の眠りより目覚めた恐竜でも見たかのような驚愕の顔から一転、にやりと口の端を釣り上げ――――

「うむ。魑魅魍魎。泥の洪水。畜生の権化。生きる意味を求めて彷徨い歩きはや百年。出会い頭の無条件罵倒は未経験だったぜおマダムさん。しかも自分、あんたがウジウジしてっからこいつらに手懐けられちまったよ。雑兵と言うにはなかなかに獰猛で滑稽な細菌共だ。どうだい、バクテリアの方が俺達より働いてる気がしないか」

驚き半分、意地悪顔半分といった具合の悪巧み顔で言い返してきた。

刹那的に確信した。こやつは自分と同じ穴の狢。忌々しい腐れ縁にも似た仲良し感覚が芽生えてきたのでいじいじ作戦を決行しようと思う。

「土壌微生物に負けてる貴方を恥じると同時に、そのポジションが極めてよき場所に見えてきたのである。ふふ、そこどけそこどけ名無しが通る・・・・・・おうっ」

しかし予想外、ぐぎゅるるる、と、人の生理現象が彼に助けを求めていた。

「…いるか?」

お米をチラ見せする彼の憐れむ視線が自分を射抜くぅ!嫉妬、羨望、尊敬、相乗効果で私はチワワへと変貌した。

「養ってください見ず知らず様!」

双眸を滾らせた狼もびっくりのアイアンクローを紙一重で躱される。

「おおっと、待て待て少女。まず君の名前と所属、あとここに至るまでの経緯を話したまえ」

「今さっき、小一時間ほど前に記憶喪失にて蘇生。かな。それ以前の事は一切合切どうでもいいからおにぎりよこせっ」

「そんなに目血走らせてもー、大事な食料をむざむざ手放すわけないじゃ――ん」

ひらひらはらはら奇怪なダンスを披露する彼は、身体スペックで軽く私の数倍はあるか・・・・・・ってそもそも背が届かないじゃ――ん!

「むむ、こしゃくな。じゃ聞いたげる。ふーあーゆー?」

「…自分は、そうだな。見ての通り暇人さ。この世界への気持ちは誰にも負けない。ラヴの化身とでも呼んでもらおうか」

と、そこで阿呆面のキメ顔から神速で食料を奪い取り、

「もらった!んほぉ、骨に染み渡る米の甘美なる味わい…はっ!私、日本人だ!」

神速で理解していく。やはり私は中途半端に記憶を失っているのだと。

「坂本龍馬が使っていたとされる爪楊枝もあわせてどうぞ」

「時価ゼロ円だね!いらない!」

馬鹿もやれやれな掛け合いを続けて三十分。

凪いだ水面が、潮騒を鳴らす。

「いい世界・・・・・・ここには、あなただけ?」

「ああ。ここ最近は気候が安定してて、土も草木も伸び伸びしてる。湖で水は幾らでも汲めるし、食には困ることがない」

「ただ――自分は話し相手が、欲しかった」

「動物ってのは孤独だと死んでしまうんだ。コンビニとか手工業だって需要が無きゃやってけないだろ、そういうことだ」

「あ、そんじゃ私睡眠労働があるんでこれで」

「死んじまうちゅーとろうがぁ!?」

つまりは路頭に迷うことにはならないで済みそう。

「おにーさん、私、行くあてゴザイマセーン」

彼はわかっていたかのようにはにかむ。

「浮気者の節操なしはのーせんきゅーですよぅ?」

「貴方がそれを言いますかラヴの化身」

ラヴの化身は四つん這いで五分ほどうずくまって、振り切ったようににこやかになった。

「・・・・・・恥ずかしい事を言っちまったなぁ。自分の真の名はラヴィだ。うっかり自分がやっちまわないように、ここに誓いを建てよう。君は自分で、自分は君だ。一心同体で生きていこう」

その微妙で曖昧で不合理な言い回しを理解できるのは、もう少し先の話。

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