余所事の話 小さな恋の増長


ジロの連絡員兼情婦となり一週間が経ったが、マールには偽りの記憶を与えられ続けられていた。


 だが、マールに失望はなかった。

 この地獄も終わりがあるかもしれないという希望を知ったからである。


『とりあえず今はまだ無理な注文だ。こっちで大丈夫そうだと秘密結社シカリイクッターの、特にルイネ王都の駐在員達への調査を終えてから、お前の希望通り、記憶の保持を認めよう』


 処女を捧げた夜、睦言でそう言ったのをマールは盲目的に信じている。

 例え約束が反故にされたとしてもそれすらもマールは受け入れる気持ちの準備はしてあった。


 ジロと寝るようになって以来、マールは気持ちに余裕が生まれ全てを受け入れる達観した思いをジロに対して抱きつつあった。ジロに対して希望も絶望もすべて受容するそんな心境であった。そして――


『そうなった際は、俺の姿を知る貴重な片腕として動いてもらう』


 その言葉が、マールには何よりも嬉しかった。

ジロにとってはなんの思い入れもなく言ったとしても、『貴重』や『片腕』と言われたのも天にも昇る心地を味わった。


 その際、「もしこき使われるのが嫌になれば言え、元に戻す」との言葉も続いたが、そんな事はあり得ないと知っていたので問題とも思えなかった。それどころか自分が一日二十四時間をジロの為だけに働けるという事を想像するだけで、至福の時を味わった。


       ◆



 マールを片腕とする調査に必要な情報だと言われ、マールが自分よりも格上であると思える結社及び、キヌサン関係者の、特に重要人物の名前をすべて告白する。


 名前を言いながら、拷問を受けても話すはずがないと誓っていた結社の機密情報が、単なる薄っぺらいもののように感じられ、改めてジロへの想いを強靱なものとした。


「俺が実際にそいつらの幾人かを観察してみて、その全員よりも俺の方が強いと確信を持ったらお前の望みを叶えようと思う。……いいのか? 何かと面倒だろう?」


 体を重ねたからか、ジロは少しずつ地を出すようになったとマールは感じていた。

 そしてマールが最近知ったのはジロが、何事も起きないような、暇な日常生活を夢見ていると言う事だった。


 力の信奉者たるマールには、ジロほどの力を持つ者がそんなつまらない生活を臨んでいる事に目を見張るような驚きがあったが、持たざる者である自分には到底理解できない深遠な理由があるのだろうと感じ取った。


 そしてマールは忙しなく動くのが好きな性分であったので、ジロの面倒くさがりを自分がジロの心に入りこむ良い特性だと、内心喜ぶような打算を持つ余裕も生まれつつあった。



       ◆


「今度魔界に行く。その前にお前の案件は片付けておきたい」

 と、ジロとはほぼ毎夜、あるいは払暁時に体を重ねるようになり、官能的快楽の名残を感じつつ、気だるい微睡みの中にマールがたゆたっているような時、ジロがポツリとそう言った。


「ジロ様。私、あるいは洗脳済みの誰かをお供に連れていってもらうわけにはいかないでしょうか?」

 ジロの力の一端を知るマールであったが、行き先が魔界となれば、ジロの身がやはり心配だった。


「足手まとい以外の何ものでもないし、お前の結社の任務にも支障がある」

「ですが、私の任務はジロ様と魔法剣の監視。ジロ様が魔界へ行けば我らもせめてシロチまでは出向くのは自然です」


「あぁ、そうか。そういう事か」

 ジロは苦笑した。その何気ない表情にマールは動悸を早くする。


「マール。違うんだ。普通の方法では行かない。二、三日ここを空けるだけだ」


 マールはジロが何を言っているのかが分からなかった。

 例え王都ルイネにあるであろう《門移動》を使っても、魔界と人界の国境の町であるシロチの到着までに二日は要する。

 入った途端に戻ったとしても四日はかかる。


 その疑問を、体を重ねたことによって多少の遠慮がなくなったマールはジロに問いかけたが、ジロは面倒くさそうに手を振って眠ってしまった。

 ジロの胸に片頬を当てジロの鼓動を聞きながら考えていたが、やがてマールも眠りに落ちた。


        ◆


 もはやジロの性欲を満たしているのか、自分の快楽を貪欲に貪っているのか解らなかったが、いつものように時間になると息を切らせて、本店を訪れた


だが、その夜はいつもとは勝手が違った。


厚着を命じられ外に連れ出されたマールは、ジロに抱かれる事はなく、空にいた。


「こういう事だ」

 ジロは少し自慢げに、マールにそう言った。


飛行フライ》ではあり得ないほどの高みに二人はいた。


 ジロに後ろから抱かれるようにして空を飛んでいる。マールを支えるのは、後ろから抱きつくようにしてマールを掴むジロの腕だけだったが、その事に対しての恐怖は微塵も感じなかった。


 マール自身は《飛行》は使えないが、風部門の実力者やキヌサンの腕利きなどが使っているのは幾度となく見てきたが、ジロの行使する《飛行》とは比べるべくもなく、速度は鳥などよりも遥かに速く、高速移動している最中は、呼吸をする事だけで精一杯だった。


 秘密結社シカリイクッターの風部門の秘術に空を移動する魔法があるが、これほどの上空での使用は見たことも聞いたこともないし、こんな速さでは誰も飛べない。


 《飛行》を用いての高速移動は通常、飛行しながらも風の精霊の力を借りなければならないので、その行使には強風が必要だった。


 だが、ジロの魔法はすべて無風状態の中で行われた。


 用意されてあった雪山を踏破できそうな服を身につけていたたが、それでも雲の上はとても寒く、息苦しかった。


だが……、



 今、空に停止し綺麗な月を見上げながら、マールは自分達以外の音がしない世界にジロと二人きりだった。




 ジロはマールが落ちないように、いわゆるお姫様抱っこという格好で滞空している。



「これで魔界へと行くのですね。私の知ってる《飛行》とは違うようですが……」


「これは大陸一の師匠の使った《飛行》を覚えていたから、それをアレンジしただけだ」


ジロの師匠が、少し前まで常に噂を提供するような、高名な大陸一の勇者と名高いティコ・ティコのジェリウス・レイルだという事はマールも知っている。


「ジロ様が参考になされたお人……かの勇者も同じ事ができますのでしょうか?」

「多分無理だろう……。俺は人界の魔法常識とは別の理で、同じ魔法を行使しているにすぎない」


「では、ジロ様はジェリウス・レイルよりも遥かに格が上という――」

「――やめろ、殺すぞ」



 ジロの全能性を目の当たりにし、恍惚となったまま言葉を紡いでいたマールにジロが冷たい声音で冷水をかける。


「あ、あ、あっ」


 ジロの豹変ぶりにマールは言葉を失い、自分の不用意な言葉でジロの信頼を失いつつある事に心底怯えた。


「俺と師匠らとでは、そもそも実力を比べる事すらおこがましい。それを俺の力を昨日今日、知っただけのお前風情が、分かったような口を利くな」



 山の頂よりも遥かに高い場所に地に足をつけずにいる事も忘れ、マールはジロの一言一句も聞き逃すまいと、必死の思いで耳を傾ける。


 今の自分はジロの信頼を失えば、例え生きる事を許されたとしても自ら命を絶つ事が当たり前であるように考えている。

 だから、ジロが不快に思うことを会話からすべて知っておきたかった。


「もう二度と俺が大事に思う人達を下に見るような発言はするな。言えば二度目は無い」


「申し訳ございません……ジロ様、あなた様の思いも知らずに……」


「今回だけは許す……。俺に性欲がまだ残っていて、その性欲を満たした関係を幸運に思え、ただそれだけの情がお前を今生かしたにすぎない」


 マールはジロの声音で、自分の価値が今はその程度、女の色香だけでジロが価値を見いだしているだけの存在である事を知った。



「ジロ様……不快にさせない為にも、今後の為にお聞きしておきたい事があります」

「なんだ?」

「ジロ様が大切に思うという方々の事です。お名前をどうか……」


 ジロは逡巡したが、やがて矢継ぎ早にその名を口にする。

 その数はジロ・ガルニエが過ごしてきたこれまでの激動の人生の中では決して多くない事が、マールには少し悲しかった。


「大切な……方々なのですね」

「ああ、あの人達は俺がこんな身になっ……、いや……今でも俺の誇りだ」

 名を出したことで脳裏にその姿を思い描いているのか、憧憬のこもったジロの横顔がマールの心にチクリとした痛みを残す。



「ジロ様と勇者様の違いというのはなんなのでしょうか?」

「……まだ聞くか。殺されると言われれば、普通はもう怯えて黙るものだと思うが?」

 ジロは不快そうにというよりは、やや呆れ気味になりながら釘を刺してきた。


「いえ、ジロ様の心に土足で踏み込む無礼をご不快にお思いでしょうが、それでもわたくしは今後の為には知らねばならないのです」


ジロは黙ったまま空中できびすを返す。あまりの高度のため、方向感覚が多少おかしくなっていたが、マールは本店方面だとわかった。


 行きの高速とは違い、呼吸も余裕ある速度での移動であった。


「俺と師匠の違いは言う気はないが、同じ《飛行》だが発動させている方法が違う。別の理の魔法だと言っただろう? 俺が逆立ちをしても師匠のようには魔法は使えない。逆に、俺の知る理を師匠が知れば、俺なんかより遥かに凄い使い手になるのは分かりきっている。それだけだ」


 十分以上押し黙っていたジロが突然、口を開いた。


 それ以上話すつもりは無いとばかりにジロはマールを穀物の入った麻袋のように肩に担ぎあげた。

 対面していたジロの顔はマールの視界から消え、マールは首を巡らせてもジロの後頭部しか見ることができなくなった。


 飛行速度が目に見えて上がった。


 マールの魔法により強化された視界中、夜景が逆向きに流れていく。


 流れゆく景色の中、マールはジロにまた少し近づけた気がした。


本店近くの林の上空で再び止まった。


 ジロが黙って滞空を続ける理由を求め、マールは強化した視力にさらに魔力を流し込み、最大限まで夜目の効果を上げる。

そこまでしてようやくジロの視線が遥か遠くの街道をゆく数個の松明らしき光を警戒しているのだと分かった。


 二人は黙ってそれを眺めた。


「魔界までは一時間。キヌサンの帝都でさえも五時間程。この《飛行》の存在をお前も知っておけば、いちいち疑問に思う事もないだろう」

 見送る事に飽きたのか、ジロは誇るでもなく淡々とそう言った。


「魔界行きは、お前らがそもそも俺に関わる事になった魔法剣の一件にも関係がある。あれを取りにいかないとならないからな」


「取りに? 誰かに預けてあるのですか?」

「今日は質問が過ぎるな。お前に話すと思うか?」


「……出過ぎた質問でした。お許し下さい」


「許そう。さぁ降りようか。しっかり掴まれよ」

 マールは言葉に従いながら、必要以上に体を密着させて、ジロにしがみついた。

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