英梨々ルート(仮)

平沢あつし

第1話

俺の一世一代の告白を受けて、恵は固まってしまった。

しばらく沈黙が続く。

それは一瞬のようで、それでいて永遠のようで。

待たされるのは相当キツい。

恵の表情からは何を考えているか、読み取れない。

やがて恵は目を閉じて、再び開いたときその目には決意の光が宿っていた。

「ありがとね。倫也君の気持ち、とっても嬉しいよ。でも、……それで本当に後悔しない?」

「後悔なんて、するわけないだろ。」

恵は訳の分からないことを聞いてきた。

後悔するくらいならこんな事はなから言わない。

「そっか。……じゃあ、詩羽先輩や、英梨々のことは?」

「……なんでここで二人が出てくるんだよ。」

真っ直ぐな恵の質問が俺の心臓を鷲掴みにする。

「……いいかげん、そういう鈍感系主人公?みたいな態度、やめようよ。」

恵は静かに俺に語りかけてくる。

静かではあるが、それはいつものフラットなそれではなく、少しだけ怒りが滲んでいるように感じた。

どうやら見過ごしてはもらえないらしい。

俺だって恵の言ってることがまったく分からないわけじゃない。

どうして彼女たちは俺なんかの企画に、あんなにも一生懸命になってくれたのか。

俺だって何度も考えたし、悩んだし、期待だってした。

だけど客観的に考えたら、あの二人が本当に俺なんかのことを好いていてくれるなんてことがあるはずがない。

あったとしてもそれはきっと一時的なものだ。

いつも創作に一生懸命すぎて、恋愛に奥手な二人の前に、たまたま俺がいただけだ。

だから俺はやっぱり鈍感系主人公のように恵の質問を受け流すしかない。

「二人のことは今関係ないだろ。俺と恵の話をしてるんだよ、今は!」

ここで一歩も引くわけにはいかない。

言葉にしてしまった以上、もう後には引き返せない。

そんな覚悟ならはじめから告白なんてしない。

俺の回答に恵は一瞬難しい表情を見せたが、何かを諦めたのか、すぐにいつものフラットな恵に戻った。

「……はぁ、これじゃあ、どうしたって交わらない訳だよ。まずは一回、倫也君の家に戻ろう。」

「ええっーと、恵さん?俺の告白に対する答えは……?」

「……そんなのは、後だよ。」

恵はそう言うと、ふいっ、と顔を背けてしまった。

そうして俺はそこはかとなく難しい顔をした恵(隣に並べないので飽くまで想像)の背中を追いかけながら共に来た道を引き返した。

冬の夜風がのぼせ上がった頭を冷やしていく、なんて感慨に浸る余裕はまだない。

**

倫也の家に戻る道中でも、恵はまだ葛藤していた。

ここ数日、恵に都合の良い形で事態が大きく動いた。

ゲーム作りの進捗の遅れを取り戻すために、英梨々と詩羽が駆けつけてくれたこと。

英梨々が恵に倫也を譲ってくれたこと。

そして、つい先ほどの倫也からの告白。

この告白を受け入れて、恵は倫也と結ばれて、それでハッピーエンド?

本当にそれでいいのだろうか。

どこかで痛みを伴うのは必然だ。

でもこれらの出来事は本当はもっと時間をかけて決着がつくはずだったと思う。

それなのに、ここまで急速に事態が動いたのには何かの力が働いたことを想像してしまう。

結局これは恵と倫也と英梨々の問題なのに、第三者が出しゃばってくるのは、ちょっとひっかかる。

今はゲームが完成することが一番大事だが、本当にここまで強引に話をまとめる必要があったのだろうか。

英梨々の力を借りるために、英梨々に色々諦めてもらうっていうのもなんだかおかしい話だ。

恵とて今の都合の良い状況を積極的に諦めるつもりはないが、なんだかフェアじゃないような気がする。

それに、英梨々は恵を許し、倫也を譲ってくれたのだ。

その行動の背景にあったのはどんな気持ちだったのだろうか。

自分達の窮地を救ってくれた倫也への恩返し?

サークルを抜けたことへの贖罪?

恵への友情?

あきらめ?

きっと全部あると思う。

でもそれだけではないような気がした。

今までだって英梨々とは腹を割っていろんな話をしてきたつもりだ。

でもきっと恵にも倫也にも話していない、ひょっとすると英梨々自身も気づいていない、とても大切な理由があるのかもしれない。

もしもそれがまだ語られていないなら、倫也は知るべきだ。

英梨々本人も含めて周り全てが恵と倫也をくっつけようと画策している中で、今親友の「小さな」恋のために何かできるのは、恵しかいないのだ。

なんで私が……、なんてことはもう考えないようにしようと思った。

「じゃあ、まずは状況の整理から始めようか、最低主人公君?」

倫也の家に引き返していつもの定位置に陣取った恵は早速行動を開始した。

**

完全に祭りの後、といった感じの俺の部屋に戻ってきた。

なんだかみんなでわいわいとゲームを作っていたことが夢だったみたいだ。

「じゃあ、まずは状況の整理から始めようか、最低主人公君?」

恵の言葉に棘があるのはきっと気のせいだ。

恵はおもむろにどこかから取り出してきた俺たちのゲーム「冴えない彼女の育て方」の人物相関図を机に広げた。

俺は黙ってその様子を見守る。

ふいに、恵が話を振ってきた。

「倫也君はさぁ。ヒロイン達の気持ち、ちゃんと考えたことあるのかな?」

「そりゃあそうさ。俺はいつだって彼女たちのことをっ!」

「あー、はいはい。そうでしたねー。」

恵は俺の回答を軽く流すと、また相関図を眺め出した。

恵が何をしようとしているのか、まだ分からない。

「倫也君はさぁ、英梨々(仮)が主人公と巡璃から決別した理由何だと思う?」

今度は英梨々(仮)のところで恵は俺に意見を求めてきた。

「それは彼女の夢のため、だろう?彼女は幼い時からずっと努力してきてて。本当は仲間も大事だったけど、きっと仲間はいつか自分が戻ってくるのを待っていてくれると信じていたから。どっちかを選んだんじゃなくて、どっちも捨てないことを選んだ結果があの決断だったんだ。」

「まあ、お話の中ではそうなってるんだけど、それって本当にそうなのかなあ?なんかスッキリしないと思わない?結局この子にとって一番大切だったのは何だったんだろうね。」

「どっちも手に入れる、どちらかを捨てる必要はない、って言うのが彼女の選択なんだから、別におかしくないだろ?いわば世界とヒロイン両方を救う王道展開だと思うんだけど。」

恵はいまいち納得していない様子だ。

「うーん、あ、そうだ、分からないなら聞いてみればいいんだよ。」

俺の講釈を聞き流し、恵はものすごく棒読みでそういうとおもむろにスマホを取り出しコールを始めた。

トゥルルルル、トゥルルルル、なかなか出ない。

「おかしいなー、まだ起きてると思うんだけどなー。」

「おい、お前どこにかけてるんだよ!」

こんな真夜中に電話をするなんて非常識だ。恵はそんな子じゃないと思ってたのに。

トゥルルルル、トゥルルルル、まだ出ない。

「もう時間も遅いし、今日はやめとこう?な?」

「いや、やっぱりこういうのは思い立った時にやっとかないと。」

トゥルルルル、トゥルルルル、ガチャ。

「……何なのよ、こんな遅くに。」

なんとも不機嫌そうな、聞き慣れた声が返ってきた。

「あ、やっと出た。」

「あ、やっと出た、じゃないわよ。今あたしあんまり人と話したい気分じゃないの。悪いけど、急ぎじゃないなら明日にしてくれないかしら?」

そりゃそうだろう。

「今、登場人物の相関図を整理してるんだけど、ちょっと英梨々(仮)の気持ちで分からないところが出てきちゃって。取材、させてもらえないかな?どうしても今直さないと間に合わない。」

「……倫也もそこにいるの?」

恵は英梨々の問いかけを無視して話を進める。

「英梨々(仮)が主人公と巡璃に別れを告げた理由。」

「そんなの、もう終わった話じゃない。シナリオに書かれてることが全部。なんで今更っ……!」

「まだ、終わってなんかいないよ。今ならまだぎりぎり直せるかもしれない。」

「……」

「じゃあまずは私から言おうか?飽くまでこれは私の解釈なんだけど。」

スピーカーからは微かな息づかいが聞こえてくる。電話を切るつもりはなさそうだ。

「なんだか薄情だなー、て思っちゃった。認めたくないかもしれないけど、あの子ってすっごい自分勝手だよね。あの時巡りは怒ってたし、悲しかった。あんなに楽しかったのに、親友だと思ってたのに、なんで一言も相談なく、大事なこと決めちゃったんだろうって。許されなくてもしょうがないって思うのと、許されようともしないのとじゃ全然違うんだよ?仲直りした今でもきっと巡りはそう思ってるよ?もしもあの時英梨々(仮)が相談してきてくれてたら、きっとどんな手を使ってでも解決してた。あの子のために鬼になることだって、出来た。本当にどうしようもないなら、じゃあ仕方ないねって、笑顔で送り出すことも、きっと出来たはず。」

「だって、それはっ!」

「夢も仲間も大事だったんだろうけど、なんかやっちゃった失敗を後で無理矢理正当化してるような感じ、するんだよね。」

「違うっ!違わないけど、それだけじゃない!あの時はあの選択肢しかなかったの!だって……、だって、もし誠司や巡璃に止められたら止まっちゃう。二人を振り切って行くなんて、できなかった。もしあの時止まっちゃったら……、きっとこれ以上先へ進めなくなる。倫也との約束も全部終わっちゃってたっ……!」

俺は英梨々が一瞬口走った俺の名前を聞き逃さなかった。

恵がこちらに視線を送ってきた。

おそらくもう聞き出したいことは聞き出せた、ということなのだろう。

しかし、恵はまだ言いたいことがあるのか、そのまま会話を続けるつもりのようだ。

「……それって、結局巡璃たちを信じてなかったってことだよね?もし言ってくれたらきっと巡璃はなんとかしたよ?」

「でも、でもっ!!そんなの分からないじゃん!みんなが自分と同じこと考えてるかなんて、あの子には分からなかったし……。それ言うなら巡りだって、腹黒いじゃない!」

「え、腹黒いっていうのはちょっと違うんじゃないかなあ。」

「いや、腹黒いでしょ!親友の気持ちを知りながら心の中ではどうやって主人公を奪うか考えてたんだから。」

「いやいや、それは人の気持ちは変化していくものだし、裏で算段してたっていうのは邪推ってやつじゃないかなあ?そもそも、それはさぁ……」

こうして自分をモデルにしたヒロインを通した代理戦争?は結局小一時間続いたのだった。

「……ふぅ。なんだか疲れたからあたしもう寝る。」

「そうだね。おやすみ、英梨々。今日は付き合ってくれてありがとね。」

「うん、あたしもなんだかんだで楽しかった。おやすみ、恵……。」

それで通話は切れた。


恵が今日英梨々から引き出した本音は、俺が思ってたよりもずっと熱くて、純粋で、それだけにキモかった。

英梨々が口走った俺との約束。

きっと、将来俺の会社の原画家になる、というやつだ。そのために、俺と一緒に大きな夢を叶えるために、英梨々はいろんな意味で険しい道を選んだんだ。

そりゃあ俺にとっては願ってもない光栄な話だけど、英梨々の実力を考えたらどうしたって不釣合いだ。

それを埋めるものが何なのか、流石の俺でも想像できる。

でもたぶん英梨々のその感情は一時的なものだ。あんな別れ方をしたせいで、罪の意識に縛られてるだけなのかも知れない。ゲームのヒロインとは違う。この先きっと自分にふさわしい相手を見つけて恋に落ちて、俺以外の、もっとすごいやつと結ばれる。

でも、そんな当たり前のことを俺は認めたくなかった。そんな当たり前のことを、高校生にもなって想像すらできていない彼女を、手放したくないと思った。

でも俺は、今更どうやって彼女の想いに報いればいいのだろう。

「倫也くん」

気がつくと恵は窓の方を向いて立ち上がっていた。俺に背を向けている。

「私、倫也くんのこと、好きだよ。でも逃げるようなことは、やめてほしいな。私たちの主人公なんだから、最後の、最後はちゃんと決めてね。」

「恵、……ごめんな。」

「……じゃあ私、今日は帰るね。」

「ああ、でもお前終電は?」

「あ。」

**

俺たちの冬コミは気がつけば、あっという間に終わっていた。

結果は当然の如く大成功。

あれだけのメンバーが死力を尽くして完成させた作品だ。

失敗なんてありえない。

俺の興奮醒めやらぬまま、年は明け、冬休みは終わり、新学期が始まる。

そしていざ新学期が始まると急速に受験という現実が迫ってきた。

ゲーム作りにかまけて全く受験勉強をしてこなかった俺は今更でもラストスパートをかけなければいけない。

いつものように明日から本気出すぞっ!と心に誓った。

ホームルームが終わると俺は隣の席にいる英梨々を見やった。

こいつは進路、どうするんだろう。

俺と同じでほとんど勉強なんてしてないと思うのだが。

「なぁ、英梨々。最近どうだ?久々に一緒に帰らないか。」

放課後そそくさと帰宅の準備をする英梨々に声をかける。

今日ずっと話しかけようと思っていたが、なぜかタイミングが合わなかった。

避けられてたわけじゃないよな?

英梨々はこちらに視線を向けると曖昧な笑顔を見せた。

クラスの何人かがこちらを気にして様子を伺っているようだ。

今更そんなこと気にはならないが。

「ごめんね、倫也。今日ちょっと仕事の打ち合わせがあって、霞ヶ丘詩羽と待ち合わせて直接クライアントに会いにいくの。」

「そうか、じゃあまた、今度な。」

「うん、恵にもよろしくね。」

「ああ、英梨々も詩羽先輩によろしく。」

英梨々は手早く自分の荷物をまとめると、周りの友人たちに挨拶しながらさっさと帰ってしまった。

何だか妙に優しくて、大人な英梨々だった。

あの夜、恵に想いを語った英梨々と今目の前にいる英梨々は本当に同じ人物なのか。

今までどんな風に話してたっけ。

俺は一体何を話したかったんだっけ。

何を期待してたんだっけ。

英梨々はやっぱり、俺なんかがいなくてもすごくちゃんとしていた。

**

所変わってここは放課後の帰宅ルート。

1月の日の入りは早く、まだ五時前なのにもう外は薄暗い。

サークル活動はとりあえず受験に集中、ということで今は休止中だ。

「と、いうわけなんだけど、俺避けられてる?」

「何でそんなこと私に聞くかな。」

そんな訳で俺は英梨々にフラれてしまった後、たまたま前を通りかかったA組から、たまたまタイミング良く出てきた恵を捕まえて一緒に帰宅している。……本当にたまたまだよ?

「だってお前たち、親友なんだろ?」

「だからってわざわざ倫也君の話なんてしないよ。」

「いや、そうだろうけど、そんな言い方しなくてもいいじゃんっ!」

そろそろ互いの通学路の分岐点、というところで恵は珍しく新しい話題を振ってきた。

「あ、倫也君も聞いてると思うけど、英梨々のお父さん、今度任期が終わってイギリスに帰るらしいね。」

「えっ、まじで!?それって、英梨々も一緒にイギリスに、行くのか?」

「さあ、どうなんだろうね。まぁもうすぐ卒業だし、仕事もキリがつく頃みたいだし。タイミング的には悪くないとは思うけど。」

「いやいやいやいや、今イギリスなんて行ったら英梨々の野望は、夢はどうなるんだよ!

これからどんどん商業の仕事して、どんどん有名になって。凄いクリエイターにならなきゃいけないのに!」

「そんなこと私に言われても困るんだけどなぁ。本人に直接聞いてみたら?」

それだけ言うと恵はさっさと帰ってしまった。

**

何となく言い出せずに時間ばかり過ぎていく。

英梨々。本当にイギリスに行ってしまうのか。

何度も英梨々に聞こうとしたけど、どうしても出来なかった。

俺は10年以上毎日目にしてきた英梨々の家を眺めながら、携帯の番号を表示させてみるが、結局今日もコールすることができずに終わってしまう。

あの時の英梨々の言葉が忘れられない。

10年以上確信が持てなくて、それでも忘れられなかった想いが、ほぼ確信に変わったはずなのに。

何故ここから一歩踏み出せないんだろう。

傷つくのが怖くて、仕方がない。

恥をかくのが怖くて仕方がない。

本気で手を伸ばして、それでも届かないのが怖くて仕方ない。

今のあいつにだけは、そんなところ見られたくない。

**

そして気がつけば無情にも学校は昨日で終業式を迎え、春休みに突入してしまった。

今日は英梨々の出発の朝だ。

このまま時間が過ぎて、選択肢がなくなれば、やっとこの苦しみから解放される。

そこにどんな想いがあったとしても、最後に英梨々は自分から離れていった。

だから仕方ない。

俺も英梨々も、正しい判断をして別々の道を歩き出す。

それは尊い決断で、誰にも否定することはできない。

俺は煮え切れない思いを反芻させながら自分の部屋の天井を眺めていた。

その時、枕元に置いてあった携帯電話が着信した。

俺は慌てて名前を確認すると、今年に入ってからまだ一度も会えてない、俺の憧れの先輩からだった。

俺は電話を取った。

「詩羽先輩?」

「倫理君、あなた、今どこにいるの?」

「どこって、家だけど。」

「そう、私今あなたの家の前にいるのだけど、扉開けてくれないかしら?

あなたの話を聞いてあげる。」


今は詩羽先輩と二人、キッチンの机に座って向かい合っていた。

前にこんなシチュエーションになったのはどのくらい前だっただろうか。

あの時も大事な相談に乗ってもらっていた気がする。


「それで、あなた今ここで何してるの?」

「何って、何のこと?」

「澤村さん、今日イギリスに出発するみたいだけど、見送りに行かないのかしら?

まさか知らないなんて、言わないわよね。」

「加藤から聞いた。」

「そう。じゃあなんで見送りに行かないの?」

「本人から何も聞いてないのに、見送りに行くの変だろ?」

「そうかしら?1年前私たちがサークルを抜けた時、あなたは見送りに来てくれたじゃない。町田さんから情報まで聞き出して。」

「それは、そうだけど……。」

「話してもらえないかしら。あなたの本当の気持ちを。そうしたら……私が全部解決してあげるわ。」

そう言うと詩羽先輩は俺の手に優しく手を重ねた。

「詩羽先輩……。分かった、全部話すよ。でももう決めたことだから。」

俺は詩羽先輩に最後にみんなで集まったあの日から今日までの出来事を包み隠さずすべて話した。

加藤に告白したこと、その後電話で英梨々の本当の気持ちを聞いて心が揺れたこと、英梨々のイギリス行きの話を聞いても勇気がなくて何もできなかったこと。

そして自分は英梨々の決断を尊重すると決めたこと。

「英梨々に俺は必要ないよ。仮に今、英梨々が俺を想ってくれていたとして、それはきっと本心じゃない。10年前のことを引きずってるだけだ。俺が英梨々から離れていけば、英梨々はやっと解放されて自由になれるんだ。」

「……倫理君、いえ、倫也君。その話だけは、聞き捨てならない。あまり澤村さんを、いえ、私たちを舐めないでもらえるかしら。」

詩羽先輩は深く怒りを滲ませながら、言い捨てた。

「自分の本当の気持ちなんて、案外本人にだってよく分かっていないものよ。だから、確かにあなたの言う通りなのかもしれない。でも、でもね……。私たちの心まで勝手に想像して、勝手に気を遣って、……勝手に諦めるなんて、絶対に許せない。」

「でも……しょうがないじゃん!俺と英梨々じゃどうやったって釣り合わないじゃん!どう背伸びしても届かないよ……。」

俺の言葉を聞いた瞬間先輩の目が少しだけ潤んだ気がした。

「……それを決めるのはあなたなのかしら?少なくとも私とあの子は、あなたのこと買ってるわ。たぶん加藤さんよりも、ずっとね。……それにね、そんなのはあの子も同じ。自分じゃ釣り合わない?きっとあの子もそう思ってる。もう傷つきたくない?きっとあの子もそう思ってる。今更自分からは言えない?きっとあの子も、そう思ってる。」

何で詩羽先輩は、俺なんかのためにここまでしてくれるんだ。

なんで俺はここまでさせてしまっているんだ。

「まだ、決心がつかないのなら教えてあげるわ。あの子があなたのことを、諦めた日のこと。あの子、泣いてたわ。この世の終わりなんじゃないかってくらいに。……それでもあの子は立ち上がった。あなたの言う通り、きっとあなた無しでもやっていける。でも、それってあなたのこれからの行動に何の関係があるのかしら?」

気がつくと俺の目から涙が流れていた。

俺は先輩にそれを見られまいと俯く。

そう、最初から答えは決まっていた。

決まっていたのに動き出せなかったのは、誰かが背中を押してくれるのを待っていただけだった。

「今からならギリギリ間に合うかもしれない。でもきっと、これが本当のラストチャンス。……だからッ、」

詩羽先輩は詰まりながらも、俺に一つの結論を突きつけようとしてくれている。

「行けっ、倫也!10年前と1年前の2人の失敗を、今こそ取り戻しなさい!」

顔を上げると、詩羽先輩の瞳がまっすぐ俺を見つめて揺れていた。

一歳しか違わないのに、この人は何でこんなに偉大なんだろう。

どうして俺の、俺たちのために、ここまでしてくれるんだろう。

俺は出会ってから2年間、詩羽先輩からもらったもの全てに対して、万感の想いを込めて言った。

「詩羽先輩、本当にありがとうございましたっ……。」

「うん、がんばってきなさいっ!」

そして俺は空港に向かって走り出した。

間に合うかどうかは分からない。

でも今は全力を尽くすしかない。

**

英梨々は今日、外交官としての任期が終わりイギリスに帰る父を見送りに空港まで来ていた。母も諸々の準備のため、とりあえず父について行くがいずれは日本に戻って英梨々と一緒に住む予定だ。

絵の仕事の環境を考えると、現実的に今英梨々がイギリスに行くという選択は考えられないが、顔をクシャクシャにしながら旅立つ父を見ていたら少しだけ心が揺れた。

(あたし、何のために絵描いてたんだっけ……。)

英梨々はあの日、恵に倫也を譲った日の事を何度も後悔し、何度も諦めてきた。

英梨々が恵を許さなければ、恵は踏みとどまってくれたのか。

きっと倫也の夢のために本当に必要なのは側で支えてくれる恵のような女の子なのだろう。

恵になら、倫也を安心して任せられる。

たとえ将来別れることがあったとしても、倫也を不幸にすることはないだろう。

それに、二人が今両想いなら、そこに自分が踏み入ることなんてできない。

本当は一緒に成長して、一緒に夢を叶えたかった。

でもなんで自分じゃダメだったんだろうというところに思考が至ると、心当たりが多過ぎた。

だから諦めると決めたのに、あの二人の輪の中に自分がいないことがあまりにも悲しかった。

そしてそれでもまだちゃんと立っていられる自分が少しだけ寂しかった。

そしてBlessing softwareを抜けた時、後悔しないと決めたのに、もしあの時違う道を選んでいたら、と何度も考えてしまう。

あの時全てを捨てて追いかけなかったことが失敗だったのだとしたら、今自分にできることは何だろう。

今からでも友情もプライドも全てを捨てて泣きすがれば、事態は好転するのだろうか。

結局そんな極端な選択肢を選べない自分だから、今こうしているのだろう。

「はぁ〜、いい加減振り切らないと!」

今までどんなに辛いことがあっても、最後の最後で自分を支えてきたものに、これから先は頼れなくなる。

今は目の前の事に集中して少しずつ時間が解決してくれるのを待つしかない。

空港は人がごった返している。

この群衆の中帰るのは少し億劫だな、と思いながら運転手の待つ駐車場に向かって歩いていると、自然と群衆の中の一点に注意を引き寄せられた。

見知った少年の肩を落とした後ろ姿。

よほどつらいことがあったのか、人目をはばかる様子もない。

その瞬間、なぜか英梨々の中で10年以上出来なかった決心が、友情だとか今までの因縁だとかを全てすっ飛ばして、あまりにも唐突に、自然についた。

英梨々はその姿を通して在りし日の自分を見ていたのかもしれない。

足をくじいて不安に押しつぶされそうだった時、倫也が見つけ出してくれたあの日の思い出。

もしもあの日の彼が、今の自分と同じ気持ちでいたのだとしたら、やっぱり自分は最後まで諦めちゃいけないのだろう。

**

間に合わなかった。

もう搭乗時間はとうに過ぎている。

流石にこの時間になってまだチェクインカウンターでダラダラしていることはないだろう。

あれだけみんなの助けを借りたのに、自分の決断が遅かったために、こんな情けない結果になってしまった。

そりゃあこの後も、その気になればチャンスは作れるだろうけど。

今この時に旅立つ英梨々に追いつけなかったことが、自分の限界だと思い知らされたような気がした。

あまりにも悔しくて、自然と涙が出て来た。

その場に立ち尽くし落胆していると、ふいに最近聞いていなかった、でも聞き慣れた声が自分を呼んだ。

「倫也、大丈夫?」

「……。」

「どうしたのよ、そんなところで。」

俺が顔を上げて振り向くと、少し困ったような笑顔で英梨々が立っていた。

一瞬自分が置かれた状況が分からなかった。

「お前、イギリスに行ったんじゃなかったのか?」

「あたしがイギリスに?誰がそんなこと言ったのよ。今の状況でイギリスになんて行けるわけないでしょ。パパを見送ってこれから家に帰るところよ。」

「何だよ、それ。……はははっ。」

俺は今更ながら2人に謀られたことを悟った。

俺は立ち上がり涙を拭いて英梨々を見つめた。

「……英梨々、お前に言いたいことがあるんだ。」

「聞きたくない。」

「英梨々?」

想定と反応が違う。

俺は電車の中で準備してきた言葉を飲み込んだ。

「……その前に、あたしから言いたいことがある。」


**

少し離れたところから群衆に紛れて、倫也と英梨々を観察している者たちがいた。

「どうやら、あっちは無事に終わりそうね、加藤さん。さて、私達も帰って大学生編の準備を始めましょうか。」

「そうですね。ところで今更ですけど、今回の作戦ってちょっと穴が大きすぎませんか?

実際2人が会える確率ってそんなに高くなかったですし。

ひょっとして英梨々に会えなかった倫也君を先輩が慰めるのがバックアッププランだったんじゃ……?」

「な、何を言ってるのかしら、この子は。

私は2人の運命力を信じたのよ。」

「……へー、そうなんですかー。」

「あなた、目が笑ってないわよ。」


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英梨々ルート(仮) 平沢あつし @Hira9999

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