第73話:あらわす

 もう、吐き出してしまいたい。大切な二人に、こんな必死な顔をさせてしまうなら。もう心配をさせてしまったのなら。


 でもやっぱりためらう。こんなにまで言って聞き出したのに、どうにも出来ないと落胆させてしまう。

 誰にだって、出来ることと出来ないことはある。お兄ちゃんがここまで私を育ててくれたのに、もう一緒には居られないのと同じ。


「織紙さん」


 テーブルの角の向こうに座る、与謝野先生。その手がそっと、私の腕に触れた。小さくて柔らかそうな手だったけれど、力強さが感じられる。

 痛くはない。体の奥のほうに、体温を伝えようとしているような、安心感を覚える手だった。


「おばさんがなにか言ってるなあって。そのくらいに聞いてくれればいいのだけど」


 どこに向ければいいか分からなかった目で、先生を見る。すると触れていた手は、遠慮がちに離れていった。


「私にも友だちが居るわ。ずっと仲のいい人も居るし、何度かケンカして仲直りした人も居るし──もう二度と会わないんだろうなって人も居る」

「ケンカ、するんですか」


 優しそうな先生が、誰かに怒気をぶつけるのは想像出来なかった。でもまあ一方的に罵られるというのも、ケンカのうちに入るのかもしれない。


「するわよ。ひっかいたり、つねったり、叩いたりね」


 意味ありげに微笑む先生。その意味は当然に、純水ちゃんを指している。

 ケンカをしたつもりはなかったのだけれど、互いの意見が合っていないという時点で、そうなのかもしれない。


「でもそういう人とは、縁が切れないのよね。わだかまりがあったり、気まずいなあって時間はあっても、不思議とまた会っちゃうの。そうしたら、仲直りだって出来る」


 いつの間にか食べ終えていたらしい、お弁当の箱。包み直して脇に避けると、先生はお茶を継ぎ足した。

 私にも、純水ちゃんと祥子ちゃんにも。


「会えなくなったのは、きちんと話せなかった人。ケンカをした記憶はないけど、そういえばあの人にはあれもこれも言ってない。そんな人とは疎遠になるわね」

「仲が良かったのにですか」

「ええ。学校で会えば、バカなことをしたりしていた友だちとかね」


 純水ちゃんは、話してくれた。祥子ちゃんが好きだと、私だけに。

 祥子ちゃんも、いつも話してくれる。自分はこうしたい、ああしたい。どんなことだって、大きな声で。


「さて、と」


 考えていると、先生は席を立とうとした。私がなにか話すのなら、邪魔だと気を遣ってくれたのだろう。


「お婆ちゃんが……」


 優しい与謝野先生にも、聞いてもらいたいと思った。それで一言を言うと、止まらなくなった。祥子ちゃんと純水ちゃんと、座り直した先生とに、感情が転げ落ちていく。


 お兄ちゃんが今のお仕事を続けられるか、分からない。だから私は、東京のお婆ちゃんに引き取られる。

 でもそこにはお婆ちゃんの思惑があるはずだから、お兄ちゃんがお仕事を続けるのを条件にしようと思っている。

 冷静に話そうとしたけれど、どうしても苦しくなって、鼻をすすりながらになった。


「まじで……」

「織紙くん、そんなことになってたの──」


 先生は、お兄ちゃんのことも知っているらしい。そういえばお兄ちゃんも、私と同じこの高校に通っていたのだったか。

 それならずっと勤めている先生は、知っていて当然だろう。


「大人の人の、会社とかお仕事とか。私に出来ることなんて、なにもないから。そんなことを二人に言っても、困らせるだけだって思って……」

「そりゃあすぐに、こうしようとは出てこないけど」


 二人はそれぞれ、腕組みをして考え込んだ。先生もお茶を飲みつつ、思案顔。部屋の中が静まって、遠くにざわめきが聞こえる。

 考えてくれるのを待っている間、この無力感はなんなのだろう。


「──あれ。でもあたしたちが見たのは、若い女の人だったよ。二十代だと思うけど」

「部下だった人か、その人が雇った人だと思う」


 純水ちゃんたちは昨日、バスに乗ったあとも私たちを見ていたらしい。そうしたら、私たちが通ったあとをじっと見送る人に気付いたのだそうだ。


「写真撮ったりもしてたみたいだったから、変だなって思ったんだよ」

「それだと、音羽くんが見られてた可能性もあるのよね?」


 先生が問い返した通り、バスからの見下ろす視線では、その辺りの判別は難しいかもしれない。

 もしかして私とは別に、音羽くんにもなにか起こっているのか。ないとは言えない偶然を考えかけると、二人が声を揃えて「ないない」と言う。


「それはそうですけど、あいつを見て得する人なんて居ませんよ」

「そんなことないよ!」

「ん?」


 音羽くんにだって、なにかあったら大変だ。確証もないのに、ないと決めつけるのは良くない。

 そう言ったつもりなのに、二人の視線が私を捕らえる。


「ど、どうしたの?」

「ううん」


 ふーん。という風に私を眺めたあと、二人はまた頭を悩ませ始めた。

 なんだったのか、この様子だと答えてはもらえない気がする。本題とは関係ないのに、当事者の私がそこに拘るのは違うだろうとも思った。

 疑問を残しながらも、なかったことにする。


「ああ、時間切れね」


 先生が言ったので、時計を見た。お昼の休憩が終わる時間だ。


「織紙さん、どうする? 授業を受けていられる心境じゃないだろうし、今日はここに居てもいいわよ。それとも早退する?」


 二人も先生の勧めに頷いてくれる。

 どうしよう。心境と言われると、もやもやざわざわ。纏わり付くような心地が落ち着かない。


「いえ、教室に戻ります。ホームルームには出ないと」

「えっ。まさかピックアップしてきたの?」

「うん」


 今日の最後の授業時間は、例によって文化祭のための時間に充てられている。書き出してきたリストがないと、演劇の話がなにも進まない。


「うわ──ホントにやってある」

「コト、ゆうべ寝たの?」

「寝たよ」


 布団に入ったのは、三時前くらいだっただろうか。お婆ちゃんの話のあと、お兄ちゃんに相談して作業をした。

 日本や欧風の古典。中国の伝奇も含めて、誰もが聞いたことのあるタイトル。それでいて「どんな話だっけ?」となるような物。


 最終的に十個くらいになるのだから、その二倍の二十個をリストにしてきた。

 おおまかなあらすじと、それで予想出来る配役の種類と人数。

 相談したと言っても実際は、お兄ちゃんが話すことを私が記録しただけ、と言ったほうがいいかもしれない。


「無理するなって言ったのに……」

「でもせっかくやってくれたんだから、ちゃんと話さなきゃね」

「そうだけど、それどころじゃ──」


 祥子ちゃんは眉根を寄せて、難しい顔をしていた。頑張ろうと気合いを入れているのか、頭を悩ませているのか。

 少しの間それを眺めた純水ちゃんは、苦笑混じりに息を吐いて「そうだね」と言った。

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