第72話:みぎて
「ここの子たちって、真面目よね。私が高校生の頃なんて、保健室に入り浸ってたけど」
「先生。生徒にそんなこと言って、いいんですか」
購買から戻った祥子ちゃんと純水ちゃんは、おにぎりやパンをたくさん買ってきてくれた。
食べきれるはずもない量だったけれど、好きな物を好きなだけ食べてと言われた。その分はお金を出すからと言うと、それも断られた。
今の先生への言葉もそうだけれど、純水ちゃんはなにか怒ってる?
イライラとも違う気がするけれど、少なくとも機嫌がいい、とは反対の方向に居ると思う。
「サボれって勧めてるんじゃないわ。苦しい時には、そういう選択肢もあるって、知らないのかなと心配してるの」
「お知らせに、そう書けばいいじゃないですか」
「先生方の中にも、今の野々宮さんみたいに仰る方が居るのよ」
先生の苦笑に、純水ちゃんは「あたしは別に……」と言葉を濁した。
「織紙さんとか特にね。自分でなんとかしちゃおうって、溜め込むタイプでしょ」
「──私の名前。覚えてくださってるんですか」
「もちろんよ」
私が保健室を使わせてもらったことは、あっただろうか。なかったと思う。
でもそういえば、私の顔を見ただけなのに担任が三島先生だと知っていた。与謝野先生との接点なんて、なにも思い出せない。もちろん廊下ですれ違ったくらいなら、あるけれど。
「私だって、ずっとここに引きこもってるわけじゃないから。職員室に行くこともあるし、織紙さん、よく用事を頼まれてるわよね」
「あ──はい」
「コトちゃん、信頼されてるよねー」
そんなことないよ、と答えた。誰にも声をかけやすい人と、そうでない人は居ると思う。私がそう思われやすいというだけだ。
でもそう言われてみれば、保健室には体調不良で来るだけじゃない。
保健関係のプリントを持ってきたことくらいは、何度かあった。
「そういう子と──あ、そういう子に限らないけど、私を好いてくれる生徒たちとお昼を食べるの、憧れなのよー」
「憧れなんて。先生は好かれてると思いますよ」
「そう? それなら嬉しいんだけど。野々宮さんも?」
「分かりません」
明らかに表情を殺している純水ちゃんの顔にも、さすがに少し照れが浮かぶ。
「でも今こうしてるんだから、実現しましたねー」
とりなす気ではなかったのだろうけれど、結果としてそういう格好の祥子ちゃん。けれども先生は、「うーん」と浮かない顔。
「たまには来てくれる子も居たのよ。今が初めてってことはないの。でもやっぱり、ここに来てくれたなら、痛いとか苦しいとか、治してあげたいじゃない?」
「そっかー。うちはあんまり悩みってないけど、それでも言い出すのは難しいですよねー」
そうね、と。先生の視線が、ちらと私を向いた。やはり察せられているみたい。どこか具合が悪いわけではないと。
その目はすぐに自身のお弁当に向いたけれど、追従した二人の視線は逸れない。
「……コトちゃん。なにかあったの?」
今の私の顔は、どんな感じなのだろう。ここに来る前の、ひどい状態よりはましだと思うけれど。
どうであれ、なにもないと言って信用してもらえる雰囲気ではなかった。それは私だって、逆の立場ならばそう捉える。
「なにも、ないよ……」
分かっていても、言えない。
言えば二人は心配してくれて、なんとかならないかと考えてくれるだろう。でもこればかりは、どうにもならない。私一人の気持ちや、どこに住むかというだけの問題ではないのだ。
もちろん私もそうなのだけれど、お兄ちゃんが一生をどうやって食べていくのか。それがかかっている。
高校生が知恵を絞って、どうにかなる話じゃない。それなら最初から、そんな心配をさせずに別れたほうがいい。
「コトちゃん──」
「コト。答えはそれでいいの?」
「え?」
黙って食べていた純水ちゃんは、パンの包みをくしゃくしゃにしてビニール袋に詰める。ポーチからティッシュも取り出して、僅かに落ちたパンくずもその中に。
それを祥子ちゃんに渡して、彼女も同じようにテーブルを片付けていく。
「もう一度聞くよ。あたしたちは、コトのことを心配してる。なにかがあって、あたしたちを心配させないように、黙ってると思ってる」
腕組みをした純水ちゃんは、もう視線を逸らさなかった。ほんの一瞬も、まばたきさえ忘れたように。
「音羽から、昨日のことは聞いたよ。でもたぶん、そのことじゃないよね。お兄さんが、なにか知ってるみたいだとも聞いた。そっちじゃないの?」
なんて言おう。
あなたたちには関係ない?
言ってもどうしようもない?
それが現実ではあっても、私の気持ちの事実ではない。二人に嘘を吐きたくはないけれど──もう、なにもないと言ってしまったか。
「えっと──」
「待って」
どうにか言葉を吐き出そうとしている私に、純水ちゃんの平手が突きつけられた。
待つってなに? 喋るなってこと?
切羽詰まった気持ちに、焦りが自乗されていく。
「ちゃんと答えてね。あたしがこれを聞くのは、これで最後だからね」
怒りなのか、悲しんでいるのか、純水ちゃんのあごが震えている。答えを間違えれば、怒号とともに絶縁されるのだろうか。
それもいいかもしれない。なにも言わずに別れるのなら、いっそそのほうが。
「だって、迷惑が──」
ぱちん。
と、弱々しい音がした。音がしたのは、私の頬。そこに触れているのは、純水ちゃんの右手。
それほど痛くはない。ちょっとひりひりして、少し温かいかなというくらい。
けれども叩かれたのは事実で、ずり落ちていく純水ちゃんのと入れ替わりに、自分の手でそこを押さえた。
「純水ちゃん……」
きゅうっと、リノリウムを引きずる音をさせて、泣き出しそうな純水ちゃんは立ち上がる。
自分のポーチやさっきのビニール袋をかき集めて、彼女は駆け出そうとした。
「あーちゃん!」
びりっと、空気を痺れさせるような声。祥子ちゃんの、怒号と呼ぶには可愛らしい大声だった。
それで純水ちゃんの足は止まって、その場に呆然と立っている。
「逃げないで。座って。ちゃんと話さなきゃ。じゃないとコトちゃん、もっと困っちゃうよ」
その言葉に操られるように、純水ちゃんは元の椅子に座る。
姿勢を整えて、次に「コト」と言った時には、とても凛々しい顔をしていた。
「あたしたちね、コトのことが好きだよ。前にも言ったけど、ずっと仲良くしていきたいよ」
純水ちゃんが言うたびに、祥子ちゃんも頷いている。まさか事前に打ち合わせをしてきたはずもなく、いつも同じことを考えているということだろうか。
「親友って言葉があるよね。あたし『親みたいな友だちってこと? なにそれ』ってバカにしてたの。でも今は分かるよ。あたしの親友はコトで、祥子と同じに誰より大切だよ」
そこで言葉が切られて、私はどうなのかと問われているのが分かった。
私は頷く。二人のことを、好きじゃないなんて言えるはずがない。
「私も同じだよ」
「じゃあ言いなよ! 迷惑? そんなもの、かけてかけられてナンボだよ! 祥子みたいに、迷惑かけるの前提なのもどうかとは思うけど、コトは一度も頼ったことないじゃない!」
一息に言って、純水ちゃんは二回ほど息を整えた。内容にも勢いにも驚いた私は、なにも答えられない。
「迷惑をかけろって言ってるんじゃないの。頼ってよ──頼むから。頼ってよ、あたしたちを」
「大好きなコトちゃんに、うちたちは頼られてるんだって自慢させてよ」
並んで座る二人の顔が、ぼやけて見えない。私は泣き虫だ。いつもこうやって、泣いてごまかしている。
それでも話せと言ってくれる人たちが居る。
私は、頼っていいのかな。こんなことを話しても、いいのかな。
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