第67話:どきどき
「っはあ……はあ……」
「──お兄ちゃん、大丈夫?」
顔を見るなり、私の、というか音羽くんの足元にお兄ちゃんは座り込んだ。
年齢は二十九歳。もともと運動は得意じゃないみたいだし、今の生活はずっと家に居る。
それを思うと、どれだけ慌てて、どれだけ心配してくれたのかが分かる。
「ああ──だい──じょうぶ」
いつもの、だぶだぶな部屋着。上はよれよれのTシャツ。足には靴下もなくて、汚れの染み付いたスニーカー。
格好悪いけれど、大好きなお兄ちゃん。
「あの、これで良かったらどうぞ。俺、飲んでないんで」
「──ああ、いいね」
音羽くんが差し出したミルクティーを、お兄ちゃんはがぶかぶと飲んだ。一気に半分ほども減らして、ようやく一息吐けたみたい。
「──ミルクティーか。久しぶりに飲んだけど、甘いな。あ、いや。運動したあとは、甘い物がいいね」
もらった物だとうっかり忘れていたのを、途中で気付いたらしい。取り繕うお兄ちゃんに、音羽くんも苦笑いだ。
「えーと、音羽くんだっけ。重いだろう? 代わるよ」
「いえそんな、重いなんて全然!」
気遣いされないのもされるのも、どっちも恥ずかしい。なんと言っていいのか、困ってしまう。
「織紙、降ろすよ?」
「あ、うん。ありがとう」
音羽くんは、負われている私の足が付くまで、しゃがんでくれた。肩に手を突かせてもらって立とうとしたけれど、まだふらふらとする。
「あ──」
「おっと」
よろけたところを、お兄ちゃんが抱きとめてくれた。
「音羽くん。家まで手を貸してくれるかな」
「え、はい。どうしましょう」
お兄ちゃんは私のバッグを引ったくって、音羽くんに手渡した。「え、なに。どうするの」と慌てる私には構わず、強引におんぶする。
「もう、おんぶならおんぶって言ってよ」
「おんぶしますよー」
「遅いですー」
そのやり取りを見て、音羽くんが笑う。
しまった。家に居るのと同じように、お兄ちゃんと話していた。
さっきの恥ずかしさも手伝って、私は拗ねた振りをする。でも気付いていた。すっかり怖さがなくなっていることを。
家に着く少し前には歩けそうだったけれど、せっかくだから階段の下までは運んでもらった。
「散らかっててごめんね──」
「そんなことないよ。お兄さん、小説家だったよな。それっぽいなーって感じだ」
冷蔵庫に、お兄ちゃんが買い置きしていたカフェオレがあった。ひとつ二百五十円くらいするやつ。
もらった飲み物にケチをつけた罰に、それを音羽くんに出した。
「あ、カフェオレ。本当に好きなんだな」
「え? あ、違うよ。好きなのはお兄ちゃん」
「ええ、これお兄さんのか。飲んでいいのか?」
「へいきへいき」
罰とは言ったものの、よほど特別な物でない限りは、お兄ちゃんはそういうことに拘らない。
「すごいな」
「そんなことないよ。読まない本もたくさんあって、整理しないといけないの」
「いや。そうじゃなくて、お兄さん」
「お兄ちゃん?」
すごい──だらしない?
否定は出来ない。部屋の惨状もだけれど、本人の見た目にも清潔感に溢れるとはとても言えない。
「お兄さんが来た途端に、織紙の顔がすごい安心してた。そのあと、笑ってたし」
「ああ……そうかな」
「そうだった。頼れる人でいいな」
それは──私が五歳の時に、お兄ちゃんはまだ高校を卒業して間がなくて。通っていた大学をやめて、私を養ってくれた。
そんな人を、信頼しないはずがない。
幼いころの私は、それがどんなに大変なことか分かっていなかった。たぶん今だって、本当には理解していないのだと思う。
お兄ちゃんには、どれだけ感謝したって足りないくらい。
でも。だからってそんなに表情が違っていたのでは、音羽くんを信用していないみたい。
逆の立場だったら、私は呆然としてしまっただろう。音羽くんは毅然としていた。
純水ちゃんと祥子ちゃんの時だって、あんなに親身になってくれた。
音羽くんは信頼できる。今日は特に頼ってしまった。とても格好いい人だと思う。
──格好いい?
いや、見た目は今は関係ない。私はなにを考えているんだろう。
「どうかした?」
「う、ううん。なんでもないよ。お兄ちゃんはお父さんみたいなものだし、二人分なんだよ」
「なるほどな。やっぱりすごいんだな」
返事を忘れていた私に、音羽くんは無邪気な感じでそう言った。
どうしたんだろう。胸がドキドキする。さっきの怖さが戻ってきたのかな──いやそれとは違うみたいだけれど。
「お兄さん、大丈夫かな。すごい汗かいてたけど。風呂で倒れてたりは──さすがにしないか」
音羽くんが笑ってる。私を笑わせようとしている。私が怖がっていたから、今も気を紛らわせようとしてくれている。
どうしてそんなに、思ってくれるんだろう。
どうしてこんなに、頼もしいんだろう。
「織紙?」
息が苦しくなってきた。こんなに動悸がしていたら、音羽くんに聞こえてしまいそう。
顔も熱い。赤くなっているのかな、恥ずかしい。
あ、音羽くんが私を見てる。私を呼んでる。音羽くんが──。
呼んでる?
「え⁉ な、なにかな⁉」
「どうしたんだよ、ぼうっとして。疲れちゃったのか?」
「ううん、平気。元気だよ!」
「そ、そうか。それならいいけど」
お風呂場の折り畳みドアが開く音がした。お兄ちゃんがたっぷりと汗をかいたので、シャワーを浴びていたのだ。
「お、大丈夫だった」
ふう。
音羽くんの言うように、なんだかぼうっとしていたみたい。どうしたのだか、音羽くんがすごく素敵に見えた。
いやいや素敵な人なのは間違いないのだけれど──なんて私なんかが偉そうに言うことじゃ──。
ああもう、わけが分からない。
「待たせてごめんね」
「いえ。もっとゆっくりでも良かったですよ」
「お。若いのに、気の利いたことを言うねえ」
目が回りそうになったところで、お兄ちゃんが戻ってきた。
さすがお兄ちゃん、いいタイミング。
さっきは罰を与えたけれど、今度はご褒美をあげることにした。
冷凍庫を開けて、冷やしていた大きなジョッキを取り出す。そこに琥珀色の液体を、たっぷりと。
「おお。言乃、ありがとう」
「黒ビールですか?」
「よく知ってるね。でもこれはコーヒーだよ。僕は酒が苦手なんだ」
「へえ、綺麗な色ですね」
お兄ちゃんと音羽くんは、馬が合うみたい。初対面なのに、仲良く話してくれている。お兄ちゃんも機嫌よく、ジョッキを傾けた。
「言い忘れてたけど、妹の面倒をみてくれてありがとう」
「いえとんでもないです。でも心配ですね、明日からもどうしたらいいのか」
「うん、そうだね。言乃にもとは思わなかった……」
言乃にも?
お兄ちゃんが、おかしなことを言った。
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