第66話:たよる
怖い。
さっきまでは、なにかの行き違いかもと思えた。本当に大切な用のある人が居て、タイミングが悪いだけだと思えた。
でも少なくとも二箇所で、私を監視している人が居た。そうなると、もう今この時だって、誰かが居るのではと思えてくる。
真冬の空に置かれたように、指がかたかたと震う。ミルクティーのボトルが、するりと手から落ちて、鈍い音で転がった。
「お、織紙。大丈夫か──?」
気遣ってくれる音羽くんが、私の肩に触れようとして手を止めた。そのまま辺りを見回して、「そこに座ろう」と手を引いてくれる。
道ばたに置いてある、コンクリートのブロック。近所の人が、鉢でも置くのに使っているのだろう。
載っていた砂は音羽くんが綺麗にしてくれて、そこにお尻を乗せたら力が抜けた。ちょっとしばらく、立てそうにない。
「電話しないと──」
「野々宮か? いいよ、俺が連絡してみる」
バッグに戻した携帯電話を取り出すのも、おぼつかなかった。音羽くんはまたメールチャットで、純水ちゃんにメッセージを送ったらしい。
「お、返事あったよ。早いな」
私の様子を見てだろう。音羽くんは、無理に笑おうとしているみたい。とてもいい人。
それなのに私は、迷惑をかけてばかりで申しわけない。
文字を打つ操作があって、いくらか間があって、また文字を打つ。それが三回も続いただろうか。
音羽くんのスマホの、呼び出し音が鳴った。甲高い音が、夜の街に響く。
「もし──ああ、うん。一緒に居る。大丈夫」
純水ちゃんが、チャットにしびれを切らしたらしい。
おとはにも同じような人が居たこと。その上に祥子ちゃんからのメッセージを見て、私が怖がっていること。
音羽くんがそれらを伝えたあとにも、会話はいくらか続く。
「そうだな。そうする」
最後にそう言って、電話は切られたようだった。
純水ちゃんは、なんと言っていたのだろう。視線を向けると、音羽くんはまた作った笑いで答えてくれる。
「とりあえず、ここでいつまでも話してたら迷惑だからさ。お兄さんにも、迎えに来てもらおう」
「うん……でも歩けそうにないの」
「え──あ、そうか。うーん、でもとりあえずお兄さんに連絡しよう。それは出来る?」
無理なら俺がかけるよと、音羽くんは言ってくれた。まだ泥水に浮かんだような心地は変わらないけれど、バッグを開けて携帯電話を取り出すことは出来た。
なんとかお兄ちゃんの番号を呼び出して、あとは落とさないようにしっかり耳に当てる。
「もしもし。どうした?」
「あのね──」
しゃがれた、変な声。そのあとになにを言っていいのか、頭が真っ白になった。
ぱくぱくと口を開け閉めする間に、お兄ちゃんからの呼びかけが聞こえる。
「もしもし? おーい。なにかあったのか?」
少しずつだけれど、声に心配の気持ちが乗っていく。それを聞いていると、ますます焦ってしまって声が出ない。
──と、突然に携帯電話を持つ手が握られた。その手はそっと私の手を解いて、携帯電話を優しく奪い取る。
「もしもし、急に代わってすみません。言乃さんの友だちで、音羽といいます。言乃さんを、迎えに来ていただけませんか」
おとはの前に待ち受けていた人のことを話して、私が怖がって動けなくなってしまったと、音羽くんは説明する。
それからは今の居場所の説明だけをして、もし動けるようなら歩いて家のほうに向かうと言って通話は終わった。
「よし、行こう」
「ええ──私まだ動けない」
「どうせ自転車には乗れないだろ? 俺がおんぶする」
おんぶ。
おんぶ?
背中に負うということ? それは小さな子とかの特権ではないの?
そんな疑問が頭の中を走り回ったけれど、言われた通りに自転車は危ない。
多少の時間があれば歩けるようにはなると思うけれど、自転車に乗るなんて今は想像も出来なかった。
お兄ちゃんは、歩く以外に移動手段を持っていない。タクシーを捕まえるよりも、ここまでなら走ったほうが早いだろう。
それならおんぶしてもらって、合流するのを早めるのが正解なのかもしれない。
「遠慮するな。腰をぬかしたのは、他のやつには黙っておくから」
「もう、そんなこと言わないで──」
意地悪で言っているんじゃない。少しでも私の気持ちを解そうとしてくれている。
この人なら、せめて今くらいは頼っていいのかもしれない。
目の前に腰を屈めて、いつでもおぶされと音羽くんは待っている。
震える膝をなだめながら、少しずつ体重を前に寄せて──。
よいしょ!
ちょっとしたバンジージャンプくらいの気持ちで、体を預けた。
「よし、いいか?」
「うん」
私の体重なんてないみたいに、音羽くんは軽々と立ち上がった。自分のと私のと、自転車の鍵もかけて、私の家の方向に歩き始める。
「──重くない?」
「ぜんぜん。これなら子猫のほうが重いな」
音羽くんの胸の鼓動が、ドクンドクンと伝わってくる。最初はすごく速かったのに、だんだんと緩くなって力強さだけが残る。
「俺のほうこそ悪いな。汗臭いだろ」
「え──あ、私もだ」
お互いにお店のお手伝いを終えたあとで、汗をかいている。
私は着替えたから服が濡れていることはないし、スプレーもした。でも全く臭いがしないとは限らない。
音羽くんの首すじは、さらさらとしているみたい。頭は、水をかぶったんだろうか。まだ少し濡れている感じ。
シャツ一枚だけれど、それは洗濯物の匂いがして、ほっとする。
「織紙は臭くないよ。むしろいい匂いがする」
「やだ。嗅がないで」
無理なことを言った。おんぶしているのに、音羽くんが臭いを嗅ぐなんて出来るはずがない。
収まっていた音羽くんの鼓動が、また高くなっていく。それはきっと、はや足のせいだけではないだろう。
互いに「ごめん」と言い合ったところで、遠くから走ってくるお兄ちゃんの姿が見えた。
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