第6話 サクラ、咲く
人間は本当に大変だ。でも、人間の体はとても素晴らしいと思う。主翼が腕になり、その先に手がある。手には指というものがあって、これで何でもできるから驚きだ。
「翼! 見て、お箸が使えるようになった」
「おう、良かったな」
私の整備士、青井翼と暮らし始めて半年が経った。翼はなんでも知っていて、出来るようになるまで優しく教えてくれる。私は言葉は話せても文字が読めなかったし、書けなかった。名前が書けないと手続きというものが出来ない。だから一生懸命に覚えた。
私の名前は松島ナナ。本籍は松島基地にしてもらった。翼が本籍も苗字もそのうち変わるから何処でもいいと言ってくれたからだ。
(本籍と苗字が変わる……なんでだろう)
「明日は休みだけど、何がしたい」
「んー。何しよう」
「考えておけよ。じゃあ、仕事行くわ。ゆっくり食えよ」
「はい」
翼が仕事に行ったあと、私は近くの公園まで散歩をするのが習慣になった。まだ、お金を使うのは難しいし、バスや電車に一人で乗るのは怖い。玄関を出て鍵をかけ、官舎の階段をゆっくり降りた。
(二足歩行も楽しい。今までギア転がしていたのが嘘みたい……ふふっ)
「ナナさん! おはようございます」
元気な声に振り返ると、沖田飛行隊長と暮らしている女の人から声をかけられた。
「おはようございます。
「わぁ、名前! 覚えてくれたんだ。嬉しい。ありがとう」
翼に聞いたら、彼女は沖田飛行隊長のお嫁さんだって。お嫁さんの意味はよくわからないけれど、それになったらずっと一緒に居られるそうなの。
「公園に行くの?」
「はい。たくさん歩く練習です。ずっと飛んでいたから、長く歩くのが難しくて」
「そっか。私はずっと地上だから空を飛んでみたいわ」
「天衣さんを乗せて展示飛行してみたかった」
「ふふっ。ナナさんは本当にT-4が好きね」
「T-4も翼も好き」
「あらっ」
天衣さんもとても優しい。無線越しにしか聞いたことのない声は時々怖かったけど、全然違った。
私は幸せだと思う。多くの仲間がエンジンを外され無の世界に還って行く中で、私はこうして新しい躰をもらったし、大好きな翼に見つけてもらえた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
私はまだ、知らない人とは話をしない事にしている。だって、たいていの人は変な顔をして離れていくから。私は変な人だと小さな人から笑われた。翼も変な人だと思われたら嫌だから、口は閉じている。
(早く、普通の人になりたい)
ふと、空を見上げたら緑色のF-2兄さんが飛び立って行った。私は腕を空に向けて大きく振った。私は人間になったよ!いつか、ブルーインパルスの皆にも会ってみたい。私のボディを見たらきっと驚くと思う。
☆
「ナナ。今日も公園に行ったんだって?」
「うん。天衣さんに聞いたの?」
「ナナが頑張ってたって教えてくれた」
翼は「おいで」と言って私を膝の上に乗せ、一日一回こうしてたくさん撫でてくれる。人間になっても翼は同じように私を元気にしてくれるの。髪を手で梳いて、頬を撫で、鼻の先にチュとキスをくれた。それがとても気持ちよくて「もう一回」と言ってしまう。
「翼の手は気持ちいい」
「……おい」
「はい」
「煽っているのか。煽っているだろう」
「どういう意味ですか? んんっ」
唇と唇が重なって、その瞬間、翼は私を強く抱きしめた。私の躰は翼とくっついてしまう。重ねられた翼の唇が私の唇を柔く挟んだり、撫でたりする。そして、
「ん、ふっ」
「力を抜いてごらん」
「ちかっ……ら!!」
何か私の口の中に入ってきた! 生ぬるい湿り気のある何かが。でも、
(気持ちが、いいーー!)
ブルーインパルスだった時よりも、断然この姿で撫でられたりキスをされる方がいい。翼の肌の温もりや柔らかさが伝わって、幸せな気持ちになるから。そして心だけじゃなくて、なんだか躰のあちこちがムズムズするの。
「そんな顔するなよ。我慢できなくなるだろう」
「そんな顔はどんな顔?」
「ナナは女の子だろ。こうされるとどんな気分になるんだ?」
翼は私の背中を上から撫で下ろし、垂直尾翼があった場所を揉むように撫でる。時々、翼の指がその尾翼に付いていた
「あんっ……や、やめてっ」
「どんな気分なんだよ」
「んっ、擽ったい! あと、なんだかムズムズするわ」
翼から人間で言う臀部や尾てい骨を触られると、ピクンピクンと勝手に躰が揺れてしまう。
「待った! 俺の上であんまり跳ねるなよ。マジでっ」
「だって、翼が悪い」
「あああっ、くそ!!」
翼は急に不機嫌になって私をソファーの上でに押し倒した。眉間にシワを寄せた翼が上から私を見ている。
「なんで、翼が怒るの?」
「怒っているわけではないよ。困っているんだ」
「困っている?」
翼は首を少し横に倒して暫く私の顔を見ていた。何に困っているのか、私には分からない。
(人間て、難しい)
「ナナの事が、好きすぎて困っている」
「どうして困る。好きは嬉しいことなんじゃないの?」
「あのな」
翼は何か言いかけて口を閉じてしまった。好きすぎて困ると言うのは本当に理解ができない。どういう事だろう。
「俺は、いつまで待てばいい」
「何を待っているの」
「ああっ、くそ。限界だ!」
「ひやぁぁっ」
☆.。.:*・°☆.☆.。.:*・°☆.
1年後、私は青井ナナになった。せっかく松島という漢字を書けるようになったのに。戸籍と言うものも本当に変わってしまった。でも、変わって良かった事がある。
「翼と同じだね!」
「あたりまえだろ」
「青井も同じ! 戸籍も同じだよっ!」
「おう」
ちいさな島で真っ白なドレスを着て、青井のお父さんとお母さんの前で神様に誓った。
『健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓います』
とても難しくて頭に入らなかった。そうしたら翼が、ふたりの言葉に言い換えてくれた。
「空がどんなに変わろうとも、互いに触れ合い、掌の温もりを確かめ、この手で愛し合うことを誓います」
「誓います」
安定した飛行をする為には、飛行前点検が最も重要だよ。翼は死ぬまで私の整備士であることを誓ってくれた。だから私も、私の寿命が尽きるその日まで、翼の愛機でいたいと思う。空は飛べなくなったけれど、貴方が愛してくれた
#725は、青井翼と共に生き続けているわ。
「ナナは今日から俺の嫁さん。分かった?」
「お嫁さん! うん、分かりました」
「じゃあ、ご褒美な」
青空を見上げると、曾ての仲間たちが轟音と共にやって来た。目の前を6機のブルーインパルスが航過した。
ー ゴーー!! シューー!
「あっ、デルタ」
山型をとった隊形で通過すると、大きくターンし、チカチカと遠くに見えなくなった。あの頃と変わらない仲間たちの編隊飛行に私の胸は高鳴った。ウイングが風を切る音が聞こえてきそう。
「翼、ありがとう」
「まだ早いぞ」
「え?」
ー ゴーォォォ!
もう一度、今度はツリーと言う隊形で皆が戻ってきた。そして……!
「ああっ」
私は歓喜の声を漏らす。息がピタリと合った6機が、沖田飛行隊長の「ナウ!」の声と共に白い雲を噴きながら360度の旋回で大空に描く日本の花。
「サクラ……うあっ」
仰け反るように空を見上げていた私は、慣れない白のヒールに足元がふらついた。
「綺麗だよな」
でも翼が後ろからしっかりと私を抱きとめてくれたから、空に浮かんだサクラをちゃんと見ることができた。
「よかったな、ナナ。
「うん。嬉しい」
「サクラが咲くってどういう意味かわかるか」
「え? 意味?」
「合格おめでとうって意味もある」
「合格したの? 私」
「ブルーインパルスを卒業して、人間になったから。だな」
私は目からオイルをたくさん流した。それは涙と言うらしい。涙がでたら、ようやく翼と同じ人間になれた気がした。翼もあの日、目から透明のオイルを流していたから。
「翼も涙、流したね」
「えっ。な、流してないぞ」
「流したよ。浜松のハンガーで」
「ナナっ」
「はい」
「愛している」
サクラ越しにキスをした。
私は今日を忘れない。
☆☆☆
「翼。早く起きてー!」
「ナナ。俺、休み」
「給油の時間は待ってくれない」
「おい。いい加減に飯を給油と言うのはやめろよ」
「むっ。同じでしょ」
「煩せぇ」
翼は私をまたベッドに引きずり込んで、小声で「給油口のチェックだ」と言って大人の整備を始めてしまう。
「あ、待って。朝だよっ……ふあっ」
パイロットがどうのこうのと昔は聞いたけど、整備士の方がよっぽどだと思う。
空飛ぶドルフィンが人間に恋をした。恋を知り、涙を流す事を覚えた。その恋が愛に変わるのをこれからゆっくり知ることとなる。
ここまでが、二人の始まりのお話。
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