第5話 その手で、もう一度愛して

 あれから病院に行ったものの、何が悪いと言う具体的な診断はなかった。最終的に何か精神的に大きなショックを受け、それがナナの記憶を抑えてしまったのかもしれないと。その後、精神科へ足を運んだ。診察をするその僅かな間も、ナナは俺から離れる事を拒んだ。

 警察には行方不明者に該当しないか、捜索願いの届けが出ていないかを調べてもらっている。焦っても仕方がないが、ここまで俺にしか懐かないのも嬉しいような悲しいような複雑な気持ちだった。




「俺は今から仕事だ。一人で待てるか」


 いくら第一発見者だからと言って、ずっとついてやることは出来ない。心を鬼にして仕事に向かう準備をする。しかしナナは雛のように俺のあとをついて回る。


(本当に刷り込み効果か!!)


「仕事?」

「ああ。ほら、ベランダから見えるだろ? あそこが俺の職場。君が保護された場所だよ。航空自衛隊松島基地と言う。俺は整備士、分かるか?」

「整備士……」

「ブルーインパルスと言う飛行機の整備をする仕事だよ。ブルーインパルスって言うのは、白と青の」

「ドルフィン……」

「そう。知ってるのか! 別名ドルフィン。パイロットはドルフィンライダー、俺たちはドルフィンキーパーって言われている」


 そう言うと、ナナはベランダの手すりに掴まって基地がある方をじっと見ていた。その横顔があまりにも美しくて、無意識に手を伸ばしそうになる。なぜか無性にその柔らかな頬に触れたくなる。


「ここから、飛ぶのが見える?」

「見えるよ。9時過ぎたら訓練が始まるから」

「じゃあ待ってる。私、ここで待つ」

「分かった。昼休みに戻ってくるから、一緒に飯を食おう」

「はい」


 ナナの澄んだ瞳が俺の心臓を鷲掴みにしてくる。俺しか見えていない、そんな自惚れた錯覚を起こしそうになる。


「行ってくる」


 離れがたい感情を圧し殺し玄関のドアを閉め、俺は部屋を出た。




     ☆


 


 正直、戸惑っている。ハンガーに裸で倒れていた女は記憶が無くて、最初に目を合わせた俺に懐いてしまった。口数が少ない分ナナは目でものを言い、躰で感情を表現する。怖いときはビックリするほど震えるし、嬉しければ両頬を上げて破顔して笑う。寂しい時はさっきみたいに儚げに遠くを見る。


(放っておけない……)


「何を考えているんだ」


 はぁ、とため息をつき整備手帳に目を通した。


「青井!」

「ん? 沖田か」

「身元不明の女性を保護してるって」

「ん、ああ」

「墜とされたのか」

「は?」


 沖田か俺のデスクの前に両手をついて、ニヤニヤしながらそんな事を言ってきた。墜とされたってどういう事だ。


「惚れるなよ」


 身元不明、捜索願いが出ていないか、家出か、何か事件に関わっているのか。そんなわけの分からない女に惚れるなと言っているのだろう。そんな事は分かっている。しかも、俺は自衛官だ。出処の分からない人間を嫁にするのは難しいことだ。


「余計なお世話だ。お前は自分の家庭の心配をしていろ。昨日も嫁さんに叱られただろ。管制官に逆らうなんて命取りだからな」

「はいはい。その辺は帰ってから丸く収めたよ」

「それはご馳走さまでした。さっさと1stの準備に入ってくれ」



 本日の天候は晴れ。風も10メートル程で恐らく第一区分でやるだろう。今年の展示飛行スケジュールも続々と決まり、それに向けて訓練は調整されはじめた。

 俺は現場に出るよりこうして一日デスクワークをすることが増えた。それでも指導のためにエプロンに出る。今のところどの機体も問題はない。新しく来た#790も1番機として絶好調で、沖田の機嫌もいい。しかし、どうしても思い出してしまう#725の事を。


(今頃、アイツ……どうしてるんだろな)


 調べれば分かる事だ。俺は知りたくないのかもしれない。姿を変えて飛ぶという選択はあの機体にはない。だったら博物館行きか、整備士たちの教材になる道しかない。博物館に行くほどまだT-4の歴史は長くない。


(アイツ、ばらばらに分解されて……っ!)




「三佐、青井三佐?」

「っ、何か」

「お昼ですよ」

「ありがとう」


 俺は#725に呆れるほど執着していたと気づく。整備士の卵にとって、引退した機体は喜ぶべき教材だ。分解して細部まで確認できる。最悪、組み立てられなくても所詮教材な、はず。


『アオイ、私は……725』


(まさか、な)


 気づけば俺は官舎まで走っていた。途中、部下が乗っていた自転車を掻っ攫って、死ぬほどペダルを漕いだ。




☆.。.:*・°☆.




 官舎の階段を一つ飛ばしで駆け上がり、重い鉄のドアを思い切り開けた。


「ハァハァ……ハァハァ」


 玄関にナナの靴はあった。しかし、気配がない。バスルームもキッチンも、決して広くない単身者向けの部屋。なのにナナの姿がどこにも見当たらない。俺は焦っていた。ドタドタと部屋を掻き回して叫んだ。


「ナナ! 何処だよ! 出てこいよ!」


ーー。


「くそっ」


 その時、リビングに潮風が入ってきた。窓に目を向けるとカーテンがゆらりゆらりと裾を揺らしている。


(ベランダか!!)


 俺はカーテンが破れるんじゃないかってくらい強く引き「ナナ!」と叫んでいた。

 ベランダの端で、驚いて目を大きく開いたナナが振り向いた。美しい黒髪が風に靡き、頬に掛かる。消え入りそうな声で「アオイ」と言った。


「聞こえなかったのか、俺の声。ずっと部屋の中で探していた」

「アオイが私を、探す」

「そうだ! 心配したんだぞ。早く部屋に入るんだ」

「心配? 大丈夫。私は空を見ていただけ。ドルフィンが泳いでいた。懐かしい」


(懐かしいって、何だよ。やめてくれ)


 俺は引き摺るようにナナを部屋の中に入れた。ずっと外にいたのか握った手が異常に冷たくなっている。


「風邪をひく」

「私は風に強い」

「そう思っているのは自分だけだ」

「本当だよ。触ってみて? アオイ」


 ナナが頬を俺に寄せてくる。触って確かめろと言うのだ。そんな事でわかったら医者なんて要らないよ。


「早く、アオイ」

「ったく……」


 俺は言われるがままナナの頬に手を持っていった。指先がナナの頬骨にあたり皮膚が柔らかく凹む。そこからちゃんと体温が伝わってくる。ナナは目を瞑った。第一関節だけでは満足出来ず、両手でナナの頬を包み込むように掌で触れた。

 どこか懐かしく感じるのはなぜだ。俺も目を瞑った。引き寄せられるように額をコツンと合わせ、そして鼻先で触れて確かめる。


「アオイ……私はシアワセだった。他のどの整備士キーパーよりも、アオイの手が好きだった」

「ナナ?」

「最後の日、アオイは私にキスをくれた。このノーズに。あの時の私は何も知らずに浜松まで飛んだ。横風が強いあの空港での着陸、とても良かった。アオイ、ナイスランディング」


 俺の顔をナナが笑顔で見上げる。その時、見えたんだ。ナナの顎の下に傷があるのを。#725が石を巻き上げて作った疵とナナの傷が同じとは言わない。言わないけれど……。


「っ! 嘘だろっ……」


 俺はきっと夢を見ているんだ。この女は航空マニアで、目を盗んでハンガーに侵入したんだ。駐機している機体に乗ろうとして、足を踏み外して落ちたんだ。だから記憶が少しおかしいんだ。


(夢なんだよ!)


「アオイ。その手で、もう一度、アイシテほしい」

「……へ?」

「私がキライ? アオイは男だから女の躰になったよ。T-4のままが良かったかな、このボディは柔らかくて気持ちが悪い。触ると生ぬるいし」


 とても真剣な顔をして、ナナは自分の胸をサワサワと撫でながら理解不能なことを言う。


「ぷっ、はははっ。良く分かんねぇけど、俺は柔らかい方がいいよ」

「本当?」

「本当だ」


 目が覚めたら夢だった。それはもう受け入れられない。本当によく分からないけど、俺にもう一度愛されたくて人間になったらしい。嘘も方便て言うじゃないか。どれだけ俺のことが好きなのか、そしてそんな俺も知らず知らず惹かれていたじゃないか。


「アオイは言った。お前は俺の愛機だと。私はアオイのものでしょう?」

「そうだな、そうなるのかな」

「私は何をしたらいい。もう空は飛べない、アオイを背中に乗せられない」


 ナナは悲しそうに俯いているが、空が飛べないのは当たり前だ。だって君は人間なんだからな。でも、本気で悲しむ姿にその言葉を口にするのはやめた。自分の事をブルーインパルス#725だと思っているのだから。


「じゃあさ、俺に乗ってみればいいじゃないか」

「え?」


 俺はナナをの腕を引き寄せながらソファーに座った。俺の膝の上にナナを跨がせて向かい合わせになるようにした。俺を背中に乗せられないって言うから、俺に乗れって買い言葉で言ってみた。ナナは驚いたのか顔の表情がフリーズ状態だ。あまり男性に慣れていないのだろうか。


「俺に乗ればいい、こうやって」


 自分でも意地が悪いと思っている。しかし、どうしても男から触れられた時の反応を確かめないわけにはいかなかった。心の何処かで、全部が初めてであってほしいと思っている。彼女が#725であるならば。


「ぁ……っ、どうしたら、喜ぶ?」

「喜ばせたいのか? 俺を」


 そう問いかけるとナナは真顔で「うん」といって頷いた。どこまでこの女は俺を試すのか。自衛官だからって安心してもらっては困るんだがな。

 俺はナナの腰に手を回し尻を浮かせてトンと深く座り直した。その反動でギシッと狭い二人がけのソファーが軋み、ナナと俺の腰元がさっきよりも密着度が増す。どんな表情かおをしているのかと、ちらと見上げる。ナナは下唇を噛んで真剣だった。恐る恐る俺の肩に手をおいて、首を傾げて悩んでいるようだ。


(まるで、子どもだな)


 それでも俺は黙って見ていた。すると、


「アオイ。お疲れ様」

「ん?……んっ!」


 突然ナナの長い睫毛が近づいて来たかと思えば、額がゴツンと強めにぶつかり、少し冷たい鼻先が触れ、柔らかな感覚が唇に押し付けられた。


「これしか、知らない」

「……(キスしか、知らない?)」

「アオイがしてくれた」


 この仕草は確かにあの日、俺が最後に#725にしたものだ。だとしたら本当にナナはあの時の#725なのかもしれない。そう思うと、ストンと肩から荷が下りたように軽くなった。俺は松島基地に来てから、ずっと#725ナナと一緒にいたんだと。


(誰も信じないよな。頭がイカれたと思われるだろうな)


「じゃあ、キス以外も教えてやるよ」

「うん!」


 子どものようなキラキラした笑顔を見せられると、その先は随分と長い道のりだと想像がつく。それでもいい気がする。


「よし! その前に昼飯食って、戸籍作成に向けて動こうぜ」

「コセキ?」

「そう、戸籍。それがないと結婚もできないぞ」

「ケッコンて、新しい展示課目なの!?」

「ばっ、ちげーよ!!」


 取り敢えず、家庭裁判所でいろいろ面倒な手続きをしなければならない。本物の人間になるためにな。


「アオイー、おこらないで」

「怒ってないから」


 俺は宥めるようにナナの躰を抱きしめた。柔らかくて、温かい、出るとこ出て、締まるところは締まった女の躰。なのに頭の中はT-4だなんて、俺得しかないじゃないか。ほんの少しだけ手をナナの臀部に移動させてみた。引き締まった筋肉がヒクッと動いて、更にキュと固くなる。


「アオイっ……」

「ん?」

「くすぐったい」

「俺、ナナの機体ボディが好きなんだよ。他のどの機体よりもな」

「ほんと? ウレシイ!」


 強く、強く抱きしめ合った。

 確かに先は長いけれど、俺はこの世界で最高に肌の合う愛機を見つけられたと思う。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る