エピローグ 拝啓、太陽より
【エピローグ 拝啓、太陽より】
8月31日、午前9時。
スマートフォンが部屋に軽快なアラーム音を響かせ、正確に時間の到来を告げた。外から聞こえる鳥のさえずりに心地よさを感じる。
療養期間を終えてからも、僕は以前と変わらずバイトに精を出す日々を送っている。ただ、今日はそれが休みだ。
それでもこの時間に起きてしまうのは、きっと習慣になっているからだと思う。
まあ、健康的なのでこれからもこの習慣を続けていきたいと思っている。
とりあえずベッドから起き上がり、改めて日にちと時間を確認する。
8月31日、午前9時1分。
――今日で、夏も終わりか。
今年の夏は、色々あった。まるで遠い昔のことのように感じるが紛れもない事実で、それは僕の記憶とガラステーブルの上に置かれた泥だらけの鞄とその中に入っているやまもんの日記が証明してくれる。鞄の中身はあの崖のとき以来一度も触れていない。
――また、読んでみるか。
僕はガラステーブルに置かれた泥だらけのカバンからやまもんの日記を手に取ってからベッドに座り、ぱらぱらとページを捲った。
良いことも悪いことも、今なら全て受け入れられた。受け止められた。
「ん?」
本来日記の最後のページの日付は8月10日のはず。しかし、日記には続きが書かれていた。まるで今日この日に読まれることが予め定められていたかのように、続きが書かれていた。僕は食い入るようにそれを読み始めた。
8月31日 晴天
陽ちゃんへ。
陽ちゃんがこれを読んでいる頃には、私はきっと成仏していることでしょう。本当は直接言いたかったけど、敢えてここに書き記しておきます。
さて、
陽ちゃん、お元気ですか? 私がいなくても、ちゃんと笑えていますか? きっと、大丈夫だよね。なんてったって陽ちゃんの陽は、太陽の陽だもんね。
それでも、時折私のことを思い出してどうしようもなく泣きたくなることが、きっとあると思います。そのときは、どうか我慢せずにいっぱい泣いてください。嬉し涙は強いけど、誰かのことを想って泣く涙はもっと強いのです。私は、そう思います。なので、私のことだけに限らず、誰かのための涙なら我慢せずにたくさん流してください。そして、それ以上にたくさん笑ってください。
それから、幸せになってください。あなたが私を幸せにしてくれたように、今度はあなたがあなた自身を幸せにしてあげてください。これが、私の最後の願いです。
こんな我儘で、泣き虫で、自分勝手な私を心から愛してくれてありがとう。
もし生まれ変わったら、またあなたの大切な人になれますように。
心から、
愛しています。
山本 美陽より。
この字は紛れもない、やまもんの字だ。いつ書いたか、まるでわからない。
日記に書かれた手紙を読み終え、僕はふうと息を吐き、微笑んだ。
やまもんの書いた手紙を、字を撫でる。目から熱いものが流れてくる。
――やまもん、この涙は、強い涙かい?
日記を閉じ、ガラステーブルの上に静かに置いた。
カーテンを開けると、まるで僕を包み込むように朝陽が部屋に飛び込んできた。
「――眩しいよ」
嫌いで嫌いで仕方がなかったそれが、今ではとても心地よく感じられる。
きっとそれは僕が変われたからだと、少なくとも僕自身はそう思っている。
それから、十年が経った。
会社を早退してきた僕は急いで病院へ向かった。
昨晩雨が降っていたせいか、走る度に地面の水がはね、スーツの裾が汚れた。だが、今はそんなことどうでもいい。
病院に着くと真っ先に分娩室に向かう。
分娩室の扉を勢いよく開けると、そこには妻の秋穂と、その腕のなかに僕らの子がいた。
「陽太、産まれたよ」
秋穂が汗を拭いながら言った。出産直後なのか、息が荒い。
「秋穂、大丈夫か?」
僕は秋穂のもとに走り寄った。秋穂はそんな僕の頬を優しく撫でた。
「大丈夫よ。それよりも、ほら、抱いてあげて。私達の子供よ」
「僕たちの――」
僕は慎重に我が子を抱き上げた。
「秋穂! 僕たちの、僕たちの子だぞ!」
心から嬉しかった。今、僕の腕の中に僕たちの子が、僕たちの大切な存在がいる。それが心から嬉しかった。
「声が大きいよ。起きちゃうじゃない」
「ああ、ごめん」
僕は慌てて声を小さくした。
「元気な女の子ですよ」
助産師の女性が微笑みながら僕に言った。
「ありがとうございます!」
「陽太、大きな声出さないでよ。ああ、ほら、起きちゃったじゃないの」
「ああ、ごめん」
「まったく困ったお父さんでちゅねえ」
秋穂が微笑みながら我が子の頬をくすぐる。
「心外だな」
僕は不貞腐れたふりをしながら、秋穂の見えないところで微笑んだ。
「あ、そうだ。陽太」
秋穂が思い出したように言う。
「ん? なに?」
「この子に見せてあげてよ。ほら、カーテンを開けてさ」
「ああ、わかった」
僕は我が子を抱きながら分娩室のカーテンを開けた。途端に太陽の光が分娩室を、僕ら親子を優しく包み込んだ。
「ほら、これがお父さんと君の名前の由来だよ」
秋穂が微笑みながら我が子に言った。
僕と我が子の名前の由来になった太陽が、まるで僕らを祝福するかのように、今日も青空の真ん中で僕らを照らしてくれている。また昨晩の雨の水滴もまだついていて、太陽の光がそれを美しく、まるで宝石のように輝かせている。
「陽香」
僕は我が子の名前を優しく呼んだ。
陽香は太陽の光に少し驚いた様子だったが、慣れてきたのか、やがてにこにこと微笑んだ。それを見て、秋穂も微笑む。
――ああ、幸せだ。
心から、そう思えた。
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