第八章 再会「5」
5
「お世話になりました」
僕は深々と頭を下げた。
「また、いつでもいらっしゃいね」
やまもんの母親が言い、僕はそれに笑顔で頷いた。
実体のあるやまもんだが、どうやら僕以外の人には見えないし、触れることができないらしい。彼女の母親も気づいている様子はなかった。
――まあ、幽霊だから仕方ないか。
けれど、それが少し寂しく感じた。
頭を上げ、僕は玄関を出た。
「陽ちゃん 見てみて! もう山があんなに遠い!」
やまもんが耳元で風景の感想を言う。それが俄かにおかしくて、僕は彼女に気づかれないようにくすりと笑った。
原付バイクの後ろにやまもんを乗せながら、僕らは故郷に向かって走っていた。
途中曲がったり、スピードを上げたりする度にやまもんは僕の腰をぎゅっと強く掴んだ。
「陽ちゃん!」
「ん? なんだ?」
「風が気持ち良いね!」
「ああ、そうだな」
僕は若干スピードを落として走っていた。後ろにやまもんを乗せているということもあるが、本当のことを言うと、このまま走り続けたいと思った。きっと、故郷に帰ってやまもんの最後の望みを叶えてしまえば、彼女は今度こそ消えてしまう。そうなれば、僕は――。
「陽ちゃん!」
「今度はどうした?」
「橋! 橋があるよ!」
「ああ、そうだな」
僕は微笑みながら答えた。
「あの橋、行ってみるか?」
橋の下には、昨日川で見かけた活発そうな女の子と気弱そうな男の子が水をかけあって遊んでいた。
きっと時間稼ぎがしたかったのだろう。少しでもやまもんと長くいられるように。けれど、
「ううん、このまま行こう」
やまもんは僕の提案を断り、僕の腰を掴む力を強くした。
「私たちの思い出の川は、ここじゃないよ」
「――うん、わかった」
僕は二人に、特に男の子に対してこう思った。
――大切にしてあげなよ。
残念ではあったが、やまもんの気持ちを尊重し、先を急ぐことに決めた。
やまもんは既にこの世の存在ではない。長く留まらせるわけにはいかない。
彼女のためにも。そして、僕のためにも。
走り続けて約四時間半。ようやく故郷の駅前にたどり着いた。ナビ通りに行けば、本来なら一時間前にはとっくに着いているはずだった。
――ああ、着いちゃったよ。
やはり、未練があるのだなと改めて感じた。
駐輪場に原付バイクを止め、僕らは駅前のベンチに向かった。
「随分と遅かったね」
菅井は僕の顔を見るなり言った。
「色々、あったんだよ。すまん」
待ち合わせに遅れたことを謝罪した。
僕はちらちらとやまもんと菅井を交互に確認する。やはり菅井にもやまもんは見えていないようだ。
「バイク、ありがとな」
僕は鍵を菅井に返した。
菅井は鍵を受け取る際、
「やまっちゃんに、逢えた?」
「ああ、逢えたよ」
「――そう」とだけ菅井は言った。
「陽ちゃん」
やまもんが僕の服の裾を引っ張る。
「私の言葉、あっきーに伝えてほしい」
僕は黙って頷いた。そんな僕のことを、菅井が怪訝そうな顔をしながら見る。
「菅井、聞いてほしいことがある」
僕は話を切り出した。
「なに?」
「実は今、僕の隣に、やまもんがいるんだ」
「は?」
菅井がぽかんと口を開けた。まあ、当然の反応だろう。
「僕以外には見えないんだ。信じられないと思うけど」
菅井は黙って僕の話を聞いている。
「それで、どうやら菅井に伝えたいことがあるらしいんだ」
菅井が少し考える素振りをし、やがて「わかった、聞くよ」と言った。
「じゃあ、やまもん言ってくれ」
「うん」
やまもんは言い、菅井への言葉を話し始めた。
「あっきー、久しぶり。えっと、何年ぶりかな。時間が経ちすぎてわかんないや」
やまもんが笑う。
「あっきーと初めて逢ったのは小学生の時だったよね。確か、五年生だったかな。私の一番の親友で、それは今でも変わらないよ。私の家の事情とか、相談に乗ってくれたよね。本当に嬉しかった。でも、私が弱かったから、あっきーが止めるのも無視して自傷とかやっちゃってた。本当にごめんなさい。あっきーが悪いわけじゃないのに、あっきーは自分を責めてたよね。私がもっと力になっていればって。そう思わせて、本当にごめんなさい。それから、家の話だけじゃなく恋の相談にも乗ってくれたよね。私の恋を全力で応援してくれた。それが叶ったとき、私以上に泣いて喜んでくれた。嬉しかったよ。引っ越ししたあとも連絡をたくさんくれてありがとう。逢おうって約束したのに、逢えなくてごめんね。お葬式、来てくれてありがとう。私のためにいっぱいいっぱい泣いてくれてありがとう。私の親友でいてくれて、ありがとう。私はこの後陽ちゃんと一緒に思い出の場所に行きます。そして、成仏します。本当に、本当にありがとう。大好きだよ、あっきー」
僕はやまもんの言葉を一言一句違えずに伝えた。
菅井は、泣いていた。
「……やまっちゃん、私のほうこそ、ありがとう」
やまもんはそんな菅井を抱き締めた。勿論、菅井はそれに気づいていない。
「菅井、抱き締め返してやってくれ」
僕は菅井に促した。
菅井が両腕を広げ、やまもんを抱き締めた。僕には、そう見えた。
菅井と別れ、僕らはシャッター街を歩いていた。
「だめだね」
やまもんが俯きながら歩く。
「何が?」
「私、色々な人を悲しませた。お母さんも、あっきーも、陽ちゃんも」
「――そんなことはないぞ」
僕は努めて明るく励ました。
「そんなことあるよ」
やまもんは静かに言った。
「陽ちゃんの足枷になっていた……」
「なってないよ」
僕はやまもんの頭を撫でながら、優しく言った。
「ごめんね……」
やまもんが申し訳なさそうに謝る。
「ごめんより、ありがとうのほうが嬉しい、だろ?」
「そうだったね。ありがとう」
シャッター街を抜け、住宅街を抜け、僕らは河川敷を歩いていた。
「さっきのシャッター街もそうだけど、景色って変わるものだよね」
やまもんは少し寂しそうな顔をしながら言った。
川を見つめるやまもんの顔を見て、僕は立ち止まった。
「――川、入らないか?」
「え?」
「川遊び、したかったんだろ?」
「――うん、そうだね」
やまもんの表情に明るさが戻った。
「今日も負けないよ!」
やまもんがはりきりながら先陣を切る。
「おいおい、そんなに急がなくても川は逃げないよ」
「早く遊びたいの!」
既に川に足を入れたやまもんがこちらに手を振る。僕はそれに応えるように川に足を入れた。
幼き頃を思い出しながら、僕らは思う存分遊んだ。
やがて、遊び疲れた僕らは川を出る。やまもんが先に河川敷に腰を下ろした。
「ふう、疲れたねえ」
「幽霊でも疲れるんだね」
僕もやまもんに倣い、彼女の隣に腰を下ろした。
「さて、次はどこに行くでしょうか?」
やまもんが問題ですと言わんばかりに僕に言った。
「――境内」
僕は微笑みながら答えた。
いよいよ、最後の時が近づいてきている。きっと、境内に行けばやまもんはいなくなるだろう。
名残惜しいが、このままこの世に彼女を残しておくことは彼女のためにも、僕のためにも良くないのだ。
「――行こう」
僕は立ち上がってやまもんに手を差し伸べた。
木々が生い茂るなか、古びた境内の正面の階段に僕らは腰を下ろしていた。
「なあ、なんで山になんて登ったんだ?」
僕はやまもんに話を切り出した。
「この場所に、似ていると思ったからだよ」
予想通りの答えが返ってきた。
「だからって、立札を無視して進むなんて――」
「陽ちゃんだって無視したじゃん」
確かに。そう言われてしまうとぐうの音も出ない。
「――さてと」
やまもんが静かに立ち上がる。
――いよいよ、か。
僕も立ち上がる。
「陽ちゃん、ありがとうね、ここまで連れてきてくれて。陽ちゃんが迎えに来てくれなかったら、私はずっとあの崖で一人だった。陽ちゃんだけが、私を救えたんだよ。だって陽ちゃんは私の大切な人だから。誰よりも、大切な人だから」
やまもんの身体が徐々に薄くなる。
「やまもん!」
「私、生まれ変わったら、また陽ちゃんの大切な人になりたいな」
「やまもん、僕は――」
視界が霞む。
――やめろ! こんな時に泣くな!
僕は涙をこらえ、真っ直ぐやまもんを見つめた。
「今だけは、泣いていいよ」
やまもんが僕の頬を撫でながら言った。それでも、
「泣かないよ」
――笑って、見送ってやるんだ。なぜなら僕は、太陽の陽太だから。
昔は嫌いだった自分の名前だが、今では誇りに思う。そう思わせるきっかけをくれたやまもんに心から感謝すると同時に、心から愛おしく思った。
「――そっか」
やまもんは頷いた。
「強く、なったね」
「やまもん」
僕は、誰よりも大切な人を、抱き締めた。
「……痛いよ、陽ちゃん」
「痛くなるくらい抱き締めてるからな」
「ふふ、そっか」
やまもんがくすぐるように笑う。そんな彼女を抱きしめながら「やまもん」と彼女の名前を呼んだ。
「ん?」
「愛しているよ」
僕がそう言うとやまもんは照れながら、そして涙を、嬉し涙を流した。
それから、僕らは見つめ合い、目を瞑り、唇を静かに重ねた。
そして、
やまもんは光に包まれ、消えた。
僕はその光を、やまもんを抱き締め続けた。完全に消えてしまうまで、抱き締め続けた。
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