第四章 奪われた睡眠「1、2」

   1



 夢のなかの少女からの告白をぼんやり思い出しながら、顔を洗うため洗面所に立った。

 鏡を見ると、そこにはいつも以上に窶れた自分の顔があった。

 今朝みた夢のせいと、夏休み唯一の予定であったバイトの最初の一週間を療養のせいで潰され、僕は少々苛立っていた。

 今日明日は外に出るのはよそう。いや、今日明日じゃなくても、生活費の節約をしなければならないから、結局家の中で本を読むことくらいしかやることはないのだ。

 それに、外に出るのはあまり好きではない。外は幸せの権化の様な人達で溢れかえっているのだから尚更だ。夏休みやクリスマスは特にそうだ。

 それでも、僕はそんな人達に嫉妬するわけでもないし、羨ましがることもない。

 自分勝手な都合で幸せを捨てた僕に幸せを望む資格はないのだから、それらを傍観して、その人達の幸せを心から願うことに徹し、幸せとは無縁になろうと心に決めたのだ。

 けれど、どうしたことだろう。

 例の少女の夢を見始めてからというものの、その決意が揺らぎ始めているのだ。

 これは、決して赦されるべきことではない。未だ償いすらまともにできていないというのに、やまもんを、大切な人を傷付けたというのに、自分だけが幸せになろうだなんて、それこそ自分勝手過ぎる。

 せめて、やまもんともう一度逢えれば良いのだが……。

 そんなことを思いながらテレビを点けると、見たことのないタレントらしき男の人の顔が大きく映った。

 どうやらそのタレントが海で、海水浴を楽しむカップルに声をかけ、そのカップルの馴れ初めを聞きに行くという、なんとも有難迷惑な企画らしい。

 タレントにマイクを向けられたカップルは赤面したり、驚いたり、下品にケラケラ笑ったりと反応は様々だった。

 その後、チャンネルを数回ほど回し、面白そうな番組がやっていないことを確認すると、テレビを消してベッドに寝転んだ。

 今寝たら、またあの少女に逢えるだろうか。

 無意識にそんな考えが頭にふっと浮かんできて、慌てて首を振った。

 ――いけない。望んではいけない。

 自問自答を繰り返しながらスマートフォンをいじっていると、須田から着信がきた。何事かと思いながら電話に出る。

「よお、御坂。起きてたんだな」

 耳に須田の声が入る。

「ああ、今さっき起きたところだよ」

 僕はできるだけ明瞭な声で答えた。

「そうかそうか。それで? 体調はどうだ?」

 須田が心底心配そうに僕の容態を聞く。

 僕は昨日の病院の帰り道、バイトが休みになった旨を須田にメールしていたことを思い出した。

 わざわざ容態を確認するために電話をしてくるとは、こいつもマメな奴だなと感心した。

「一日寝たから良好だよ。寧ろ休みなんていらないくらいさ」

 僕はできるだけ努めて明るく答えた。

「ならさ、今日俺の家に来ないか? もし良かったら酒でも飲もうぜ。鈴木と三人で」

 まるで楽園にでも誘うような声色で須田は言った。僕は財布の中身の金額を思い出しながらう~んと唸った。先ほど外には出ないと決心したばかりだが、考えを変えて「わかった、飲もうか」と明るい声で言った。

「よし、じゃあ今夜、待ってるからな。つまみ、お前も用意しとけよ?」

 陽気な声で須田が言った。

「わかった。センスは期待しないでくれよな」

「そこは俺のセンスに任せろ」

 須田は電話口でおどける。

「それ、大丈夫なのか?」

「うわ、ひでえな」

「冗談だよ。お前のセンス、期待してるからな」

 僕は笑いながら言った。

 それから僕らは少し世間話をしてから電話を切った。

 きっと夜遅くまで飲むことになるだろう。それならば今のうちにたくさん寝ておこう。

 僕は携帯を枕元に起きながらベッドに寝転がりながり、ぼんやりと天井の染みの数を数え始めた。

 二度寝は、最高だ。



   2



 薄目を開けると、もはや見慣れてしまった神社の境内の景色が目に飛び込んできた。

 ――しまった。

 目の前にいるのは、これももはや見慣れてしまった少女だ。

「また、来てくれたんですね」

 少女は心底嬉しそうな表情をする。

 当然、僕は混乱し、動揺する。

 デジャブを感じるというレベルの話ではない。

 さすがにこう何度も同じような夢を見ると、取り憑かれているのではないかと不安になってしまう。そしてそれ以上に、この少女の、いや、この夢のしつこさに段々と腹が立ってくる。

「――また、お前か」

 僕は若干言葉を荒らげながら言った。

 少女は一瞬怯えた顔をしたがすぐに元の嬉しそうな表情に戻った。

「それで、お返事いただけますか?」

「返事? 何の?」

「とぼけないでください。覚えてないとは言わせません」

 少女がやや俯きながら、赤面し言った。

「もしかして告白の返事を聞きたいのか?」

「他に何があるんですか?」

 少女が首を傾げながら不思議そうな顔をする。不思議なのは僕のほうだというのに。

「答えは、ノーだ」

 僕は少女から顔を背けながら言った。

 常識的に考えて、知り合って間もない女の子とそういう関係になるのは、非常識だ。

 まったく、この少女は警戒心どころか常識もないのだろうか。

 いや、常識云々の話ではない。

 この少女に限らず、僕は誰とも付き合うことはない。

 というより、できない。

 怖い。

「そんなこと言って、実は――、だったりしませんか?」

 少女が悪戯っぽく微笑む。自分から告白してきた奴の言う台詞ではない。自信があるとでもいうのだろうか。

 こいつは、頭がおかしいのだろうか。

「ない、断じてな」

「うわ、即答ですか」

 少女がしゅんとしながら言った。

「当たり前だ」

 僕は、少女の奇怪なペースに乗らないように、頑なになろうとした。

 少女は少し考え込んでから、やがて口を開いた。

「それではこうしましょう」

「なんだ?」

「これから毎日貴方の夢に現れます。そして貴方に惚れてもらえるように頑張ります」

「はあ?」

 僕はぽかんと口を開けながら間抜けな声を出した。どうやら、僕は少女の奇怪なペースにまんまと乗ってしまったようだ。

「 なにをそんなに驚いているのですか? もしかして私の言っていることが分からないのですか? ええとですね――」

「いや、分かってる。分かってるから二度も説明しようとしなくていい。頭が痛くなる」

 僕は額に手を当て、大きく溜息を吐いた。少女はそんな僕の様子を見てケラケラ笑っている。よくわからないが、この少女のことを嫌いになったのは確かだ。

「それでは、また明日の夜に逢いましょうね、御坂陽太さん」

 少女が悪戯っぽく笑みを浮かべながら言った。

「ちょっと待て。なんで僕の名前を知っているんだ?」

「さて、どうしてでしょうかね」

 少女はやはり悪戯っぽく笑う。

「わけがわからない」

 僕は項垂れたが、これは僕の夢なのだからこの少女が僕の名前を知っていても不思議ではないということに気付き、深く深呼吸して、冷静になろうと努めた。けれど少女は、そんな僕の気持ちなどまるで理解しておらず、慌てたり怒ったりする僕の様子を見ながら笑っているのだ。

「――なに笑ってるんだよ」

 僕は不機嫌な声で少女に言った。

「ただ惚れさせるだけじゃ、なんかつまらないですね」

 少女が口元に手の甲を当てながら考える。

「いい加減にしてくれよ。僕は茶番に付き合っている暇はないんだ。それに君じゃなくとも、人は好きにならないからな」

「なら、勝負しましょう」

 少女が真剣な表情をしながら言った。

「勝負?」

「そうです。私はこれからあなたに惚れてもらえるように色々なことをします。もしあなたが私に惚れたら私の勝ちです。逆に惚れなかったらあなたの勝ち。これです。これでいきましょう」

 少女が世紀の発明をしたと言わんばかりに喜びの表情を浮かべながら言った。

「……いや、あのな――」

「さて、今はそれより、さあ、目を覚ましてください。そろそろ時間ですよ」

 少女は意味不明なことを言い、僕の顔の前で両手を広げたかと思えば、そのまま両手の掌を僕の顔の前でぱんと叩いた。

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