第四章 奪われた睡眠「3」

    3



 目を覚ますと、そこは見慣れた自室の天井があった。

 たくさん寝たせいか、無駄に目が冴えている。

 窓の外に目をやると、空が薄ら赤みを帯びているのが見えた。

 カーテンを閉めずに眠ってしまうとは、ケアレスミスもいいとこだ。僕のアパートは一階だ。誰かに覗かれたりしてないだろうか。

 どうでもいいようなことを考えていると、やがて僕は思い出した。

「……また夢か」

 こう何度も同じような夢を見ると、さすがに気が狂ったのではないかと心配になる。

『貴方に惚れてもらえるように頑張ります』

 なんでそんなに――。

『また明日の夜に逢いましょうね』

 また逢いましょう、ということは、また逢えるのだろうか。

 いや、僕は何を考えているのだ。少しでも肯定的に考えればあの少女の思う壷だ。これ以上あの奇怪なペースに乗る必要はない。

 ――いっそ寝ずにいよう。そうしよう。それがいい。

 寝ずに耐えていれば夢をみなくて済む。つまり、少女に逢わなくて済む。それならば寝ずにいよう。そうしよう。

 僕は固く決意し、身支度を整え、自宅を出て、途中コンビニに寄り、酒やらつまみやらを買い込んでから須田の家に向かった。



「よお、早かったな」

 上半身裸の須田が濡れた髪をバスタオルで拭きながら、玄関で僕を出迎えた。シャワーでも浴びていたのだろうか。

「どんな痴態だよ」

 僕は若干呆れ気味に言うと、

「そんなことより、早く俺の部屋に行こうぜ」

 須田が陽気な顔をしながら言った。

「――そうだな」

 僕はそう言いながら靴を脱ぎ、須田に促され階段を上がり、二階の須田の部屋へ向かった。

 部屋に入ってすぐ、洒落た色をしたパソコンデスクが僕を出迎えた。その上にはやたら高性能なパソコンやらスピーカーやらが鎮座している。いつ見てもこの光景は凄い。

「まあ、適当に座れよ」

 須田はシャツを着ながら言った。僕はその言葉に甘え、須田のベッドの脇に座り、そのままベッドに寄りかかってスマートフォンをいじり始めた。須田もパソコンでカタカタと何かを始め、やがてスピーカーから彼の好きな、僕も聴き慣れたアーティストの曲が流れ始めた。僕はその曲に合わせてふんふんと鼻歌を歌った。

「鈴木は?」

 僕は須田に尋ねた。

「ああ、あいつはそのうちくるよ」

 鈴木がくるまでの間、僕らは思い思いの時間を過ごした。須田はパソコンに夢中で、手持ち無沙汰だった僕は彼のギターを手に取り、適当に弾いていた。

 僕と須田と鈴木の共通の趣味はギターだった。

 しばらくすると、呼び鈴が鳴った。

「お、鈴木が来たみたいだな」

 須田は立ち上がり、玄関の方へと歩いていった。

「よお、久しぶりだな」

 鈴木が部屋に入ってくるなり僕の肩を叩いた。

「痛えよ」

 僕は笑いながら言った。

「さて、ぼちぼち飲み始めるか」

 須田がパソコンデスクの脇に置いてある缶ビールを手に取った。僕はギターを置き、途中コンビニで買った日本酒を取り出し、つまみとして好物のチータラや、ポテチやらをバサバサとベッド脇のテーブルに広げた。

 須田は缶ビールのタブを開け、僕もそれにならいカップ酒の蓋を開け、鈴木はワインをグラスに注ぎ、そして無言で乾杯し、お互いそれぞれの酒を豪快に一口飲んだ。

 日本酒独特の甘味が口のなかに広がり、思わずむせ返りそうになった。

 酒自体、飲むのが久しぶりだったため、このカップ酒一杯でも程よく酔えそうな気がした。ましてや誰かと飲むなんて、それこそ数ヶ月ぶりで、それが僕をより楽しい気持ちにさせ、同時に酒の美味しさも増したような気がした。

「――やっぱりうめえな、ビールは」

 須田が笑みを浮かべながら酒の感想を言った。

「もう酔っ払ったの?」

 僕はからかうように言った。

「ビール一本で酔うかよ」

「一気しようぜ」

 鈴木が須田を煽った。

「嫌だよ。炭酸きついし」

 須田は鈴木の煽りをやんわりと回避した。

「――だよな」

 僕は須田に同調し、二人のペースに合わせるように日本酒をぐいぐいと喉に流し込んだ。飲む度に口に広がる美味しさに涙が出そうになった。

 三人で談笑しながら酒を何本か飲み進めていくうちに、やがて程よく酔っ払ってきた。頭がぼんやりとして、ふわふわと宙に浮いている様な感覚になり、とても気持ちが良かった。

 酒は良い。

 本当に良い。

「それで、体調の方はどうだ?」

 須田が何本目かわからない缶ビールを飲み干し、空になった缶を片手で潰しながら言った。

「ドクターストップで働けないんだよね」

 僕は自嘲的に言った。

「じゃあ、帰るか?」

 鈴木が言った。

「帰るわけないだろ。終いまでいるさ」

 僕はつまみのチータラを咥えながら言った。

「でも本当に、体調悪くなったらすぐ言えよ?」

 須田が心配そうに言った。

「ああ、ありがとう」

「にしても、災難だよな。ドクターストップなんてな。生活大丈夫なのか? お前、仕送りとかしてもらってないだろ」

 須田が深刻そうな顔をしながら僕に尋ねた。そんなことまで心配なんてしなくてもいいのにと、須田に対して申し訳ない気持ちになったが、それ以上に、こんな僕を心配してくれていることに嬉しさが込み上げてきた。

「切り詰めれば大丈夫さ。心配してくれてありがとな」

「いいさいいさ」

 須田が照れくさそうにしながら新しい缶ビールのタブを開けた。僕も負けじと新しい日本酒の蓋を開ける。

 ――飲もう。酔っ払おう。極限まで。

 僕らは三人お互いのペースを意識し合いながら、次から次へと酒を煽った。

 そして、飲み始めてから数時間、僕らはお互いに限界を迎えた。

「酔っ払ったな」

 僕が呟く。

「ああ、そうだな」

 須田と鈴木が僕の言葉に同調する。

「さすがに、もう無理だよ。今日はもうよそう」

 僕と鈴木が言うと、須田も「ああ、そうだな」と物足りなそうにしながらも、ゆっくり頷いた。多分三人のなかで酒が一番強いのは、おそらく須田だろう。

 僕ら三人は床に手足を投げ出し、油断すればすぐに眠ってしまうであろう、そんな瀬戸際にいた。それだけでなく、調子に乗ってがばがばと飲んだことが祟って、若干頭が痛い。

「どうする?」

 須田が身体を起こしながら言った。

「どうするって、なにが?」

 僕は訝しげに尋ねた。

「お前ら、泊まってくか?」

 僕は少し考え、やがて口を開いた。

「そうだな、頭痛いし、身体もだるいからな」

「俺もそうする」

 鈴木も僕の意見に同調した。

「そうか、分かった。雑魚寝でいいか?」

 僕らの言葉に須田は申し訳なさそうな顔で頷く。

「いいさ、泊めてくれるだけでもありがたい」

 僕と鈴木は言った。

「ならいいんだけどさ、そうだな、俺も雑魚寝しようかな」

「なんでだよ」

 僕は笑いながら言った。

「だってお前らだけ床に寝かせとくわけにもいかないだろ」

「いいって、気にするなよ」

 僕は言った。

「そうだよ、気にするなよ」

 鈴木も僕と同じように言った。

「いや、俺も雑魚寝するわ」

 須田は決心したように立ち上がり、そしてまた座り込み、床に足を投げ出した。

 しばらくすると鼾が聞こえ始めた。まさかと思いむくりと起き上がると須田は既に就寝していた。

「寝るの早いな」

 僕はそう呟き、また寝転がり目を瞑った。

「鈴木、起きてる?」

「ああ、起きてるよ」

 隣で鈴木の身体がこっちを向いたのがわかった。

「って言っても、もう眠いけどな」

「――なあ」

「ん? どうした?」

 鈴木が身体を起こした。

「幸せって、なんだと思う?」

 最近見るおかしな夢を思い出しながら、僕は宙を見つめながら鈴木に尋ねた。

「それを知るためにまずは生きるんじゃね?」

 鈴木は起こした身体を再び寝かせる。

「そうか」

「なんでそんなこと聞くんだ?」

「いや、なんとなくだよ」

「――そうか」

 鈴木は寝返りを打ちながら言った。

「それじゃ、俺ももう寝る」

「――おう」

 それから数十分後、鈴木の鼾が聞こえ始めた。

 ――眠い。

 睡魔が襲ってきた。

 酔っ払ったし、頭も痛い。

 床に転がっている酒の瓶や缶を見て飲みすぎたことを後悔した。

 ――このまま眠ってしまおうか。

 そう考えた瞬間、僕はあることを思い出し、がばっと起き上がる。いかんいかんと首を横に振った。頭を鈍痛が襲い、くらくらと目眩がした。

 ――寝たらまたあの少女に逢ってしまうじゃないか。今日、限界まで寝ずに、少女に会わないようにしようと決心したんだ。まったく、危ない危ない。

 僕は自分の頬を思い切り引っぱたき、強引に眠気を飛ばす。スマートフォンを開き、それから須田や鈴木が目を覚ますまで動画を見ていたり、SNSを覗くなりと、長い長い暇潰しを始めた。

 眠らない独りの夜はあまりにも長く、寂しさから須田を起こそうかと思いはしたが、鼾までかきながら熟睡する顔を見ると、なんだか大罪を犯す様な気分になったので、起こすのを諦めて再びスマートフォンをいじり始めた。

 意識すればするほど時間の経過は遅く感じるが、それでも着実に進んでいるようで、段々と窓の外が明るくなっていく。それをぼんやりと眺めていると、やがて須田の携帯のアラームが盛大に鳴り響き、アラームを止めながら須田が目を覚まし「おはよう」と間の抜けた声で言っているのをみて俄におかしく思い、くすりと笑った。

 当たり前の話だが、浴びるように酒を飲んで、更にオールして迎える朝は絶望的に身体がだるくなるから、やろうとしている人がもしいるのならやめたほうが良いよと忠告したい。まあ、そんな馬鹿なことやる人なんていないだろうけど。

 僕は、やめておけば良かったと後悔している。

 実際のところ、夢を見ない方法は寝ないこと以外にないから、これは仕方のないことなのだけれど。

 おかげですっかり顔は酷い有様で、理由を知らない須田や鈴木は、げっそりとした僕の顔を見て「酷い顔だな」と腹を抱えながら笑った。この分なら、理由を言ったとしてもおそらく笑い飛ばされそうな気がするから言う必要はないだろう。

 好き放題に僕の顔の感想を言う須田と鈴木を横目に、テーブルに乱雑に放置されていた空き缶やらポテチの袋やらを空のコンビニ袋に乱暴に放り込んだ。、ゴミ箱に捨ててからリモコンを手に取りテレビを点け、子供向けの某アニメを観ながら数時間過ごした。

 アニメ番組を観終えた後、何か他に面白いものはないかとチャンネルを回したが、何もやっていないことを確認すると、「帰るよ」と僕はゆっくりと立ち上がる。

「そうか、なら送ってくよ」

 須田が立ち上がりながら言った。

「いや、いいさ。歩いて帰れる」

「寝てないのに大丈夫かよ」

 須田が心配そうに言った。さっきまでけらけら笑っていたのに、忙しい奴だなと苦笑しながら「大丈夫だよ」と言葉を返した。

「ちゃんと寝ろよ」

 須田に促され玄関まで降りて靴を履く。

「ああ、わかったよ」

「それじゃあな、また誘うわ」

「おう」

 僕はそう言って玄関を出た。

 二階から鈴木の歌声が聞こえてきた。きっとギターで弾き語っているのだろう。



 外はやたら日差しが明るく、空はむかつくほど清々しい快晴に覆われていた。

 何気なくスマートフォンで時間を確認してみると、時刻は既に午後一時を回っており、深い溜息を吐いた。だるい身体を引きずりながら、僕は帰路を歩き始めた。

 歩きながら寝れそうなほど、睡魔が絶えず僕を襲う。それに加えて、二日酔いで頭も痛く、吐き気も半端ではない。たまらずえずくと、昨日食べたつまみが喉までせり上がってくるのを感じた。

 耐えきれなくなって道路の脇の排水路まで走りよってしゃがみ込み、再びえずいたかと思うと、そのまま盛大に嘔吐した。

 口の中に胃液の苦いような酸っぱいような味が広がり、心底不快な気分になって、再び嘔吐した。

 排水路にぶちまけられた自分の吐瀉物を眺める。

「まいったな」独り言を呟く。

 それと同時に、僕は一体何をやっているのだろうかという虚しい疑問に胸中、心中が支配されていくのをぼんやりとだが、感じた。

『あなたのことが好きです』

 思い出すだけでも、ただでさえ虚しいのに、余計に虚しくなる。

 僕の七年前からの自己嫌悪は、自分が好かれるという幸福な夢を見たことによって著しく加速している。なぜなら、夢のなかで少女に好きと言われたとき、一瞬でも幸せだと思ってしまったからだ。

 良いのだろうか、こんな僕が幸せを感じても。

 自問自答を繰り返しても、やはり答えは出ない。

 唯一分かっていることと言えば、僕はやまもんに逢って直接謝罪がしたいということだけだ。

 罪悪感を払拭したいだけだろ、と言われればそうなのかもしれない。それには反論できない。

 ――けれど、けれど、けれど、僕は……。

 ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

 ――今でも君が好きだから、君から逃げた自分が赦せないし、憎いし、できることなら殺してやりたい。いや、生きるのも死ぬのも、もはやどうでもいい。消えてしまいたい……。

 酒が抜けて、しらふになるにつれ、思い出したくないことまで思い出してしまう。

『あなたのことが好きです』

 ――僕だって言いたい、言いたいよ。他でもない、やまもんに言いたいさ。

 心のなかで言葉を羅列する。

 ――今すぐにでも謝りたい、謝りたいよ。たとえ赦してもらえないとしても、君とちゃんと向き合いたいよ。

「君を、愛していた、いや、今でも愛しているのだから」

 気がついたら、言葉が出ていた。

 直接言えたなら、それを受け入れてもらえたのなら、僕はそのまま死んでも良い。

 涙を拭いながら立ち上がると、鈍い頭痛と共に立ちくらみがした。

 家へ、帰ろう。

 そう思い後ろを振り返ると通行人達の冷たい視線を感じた。

 通行人達は慌てて僕から視線を外し何事もなかったかのように振舞っている。それが俄におかしく思えて、僕は一人、くすりと笑った。

 今夜もまた、眠らぬよう頑張ろう。

 僕はコンビニに立ち寄ってコーヒーやら栄養ドリンクやらを大量に買い込んでから自宅の玄関を踏んだ。

 僕の頭のなかに節約という文字は、もはやない。

 そして、自宅に着くなり、僕は先ほど買い込んだ栄養ドリンクを二本、コーヒーを一本、一気に口に流し込んだ。強い炭酸と栄養ドリンク特有の甘味で目が一気に冴えた。

 ――今日もまた、絶対に眠らないんだ。

 ベッドに座り、栄養ドリンクの缶のラベル、成分表のカフェインという文字を眺めながら呟いた。

 ――僕に幸福な夢を見る資格は、ないんだよ。



 それから僕は、丸三日寝ずに耐えた。

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