第二章 記憶のなかの左腕「3」

   3



 目を覚ましたのは、放課後だった。

 だるかった身体もある程度良くなり、携帯で時間を確認すると帰るのに丁度頃合だったため、僕は帰ろうと立ち上がった。

 だがその時、近くに人の気配を感じ、その方向に目を向けると、フェンスの向こうに人影を捉えた。

 そこには、やまもんがいた。

 おそらく僕が寝ている間に屋上に入ってきたのだろう。

 なぜやまもんがここにいるのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。

 屋上で、しかも落下を防ぐために設置されたであろうフェンスをわざわざ越えるなんて、そんな危ない場所に立つのは、考えたくもないが、目的は一つしかない。

「お、おい! 何してるんだよ!?」

 僕は本日二度目の疑問形の言葉を発した。その声量は一度目を遥かに凌駕していた。

「あ、目が覚めたんだ」

 やまもんが無表情に、冷たく言った。

「邪魔しないでね」

「邪魔ってなんのことだよ。もしかしてやまもん、死ぬ気なのか?」

「だからさ、その渾名で呼ばないでよ。何度言えばわかるの?」

 やまもんはやはり無表情のまま言った。

「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ」

 僕はフェンスをよじ登りやまもんの説得を試みた。

 僕の足がフェンスを越えた。

「こ、来ないで!」

 僕がやまもん側の方に着地すると同時に彼女が大声で言った。

「こっち来たら、本当に飛ぶから」

 やまもんの言葉に動揺し、足が震えた。

「――ここ、結構怖いね」

 静かに言ったつもりだったが、一歩間違えれば命を落としかねないこの状況に緊張し、声が上ずってしまった。

 こんな怖い場所にいたのかよ、と違う意味でやまもんを尊敬した。

「なに? 馬鹿なの? あんたも死にたいの?」

 やまもんは心底呆れた表情で言った。

「馬鹿なのは、昔からだよ」

 僕は言いながらそのままやまもんの近くに寄ろうと足を進めようとした。彼女はそれを気づいたのか、突然両手を大きく広げた。

「今度は、本当だから。本当に、飛び降りるから」

 やまもんの言葉は本気そのものだ。これ以上近づくと本当に飛び降りてしまいそうだ。それでも、なんとかしなくてはならない。

「僕が話を聞くし、僕がやまもんの味方になるから。というか、いつだってやまもんの味方だから。だから、だからこんなことやめてくれ」

「嘘をつかないで!」

「嘘じゃないよ」

「――私のこと、煙たがったくせに、そんなの信じられるわけないでしょ!」

 やまもんは僕の言葉を跳ね除け、冷たく言い放った。

「それは――」

「なんにも知らないくせに、知ろうともしなかったくせに、そばに、いてくれなかったくせに、今更勝手なこと言わないでよ。幼馴染面しないでよ! 迷惑なんだよ! 泣き虫陽ちゃんに何ができるの? 何にもできないでしょ? だったらもう黙って私の前から消えてよ!」

 やまもんが言葉を羅列する。言葉の一つ一つに本気の恨みが込められていた。

 いや違う。

 恨みもあったが、悲しみも混ざっていた。

 言葉が出なかった。

 僕は自分に対し、大きく失望した。

「――約束、したのに……」

 やまもんが泣くのを堪えながら言った。

 ――約束したのに……。

『ずっと一緒だよ』

 頭の片隅に眠っていた幼い頃の記憶が蘇る。

『私がピンチになったら――』

 そばにいてやれなかった。

「ご――」

「また謝るつもり? そうだよね、謝らないとだよね。だってそれが、それが泣き虫陽ちゃんだもんね」

 やまもんが見下すような口調で言った。

 僕は今までの自分の行いを思い返して後悔し、それ以上に約束を破った自分を激しく憎んだ。

「ごめ、ん……」

 僕は涙を流しながら、やまもんに今までのことを謝った。

「本当に、ごめんなさい……」

「さっさと出て行って!」

 やまもんが叫ぶ。

 つまらない理由でやまもんを避けた。彼女が辛い時に僕はそばにいてあげられなかった。それ故彼女は飛び降りようとしている。死のうとしている。

 ――そんなの、嫌だ!

「嫌だ!」

 僕は涙を拭わず真っ直ぐやまもんを見つめながら言った。思った以上に大きな声が出ていた。

 こんなに大声を出してやまもんに言葉を投げかけたこと今まで一度もなかった。

「今更、今更幼馴染面しないでよ! 何度も同じこと言わせないでよ!」

 やまもんがヒステリックに叫びながら言った。その言葉にグサリと胸を、心臓を突かれる感じがした。

 自分から離れていったくせに、相手から拒絶されて僕は傷ついているのだ。

 彼女も、きっとこんな気持ちだったのだろう。

 そしてらその気持ちにさせたのは、紛れもなく、僕なのだ。僕自身なのだ。

「僕が悪かったんだ。やまもんの言う通りだよ。やまもんが苦しんでいるなんて、辛いなんて知らなかった。知ろうともしなかった」

「よく分かってるじゃない」

 やまもんが静かに言った。その声色が少しだけ和らいでいるように感じだ。

 気のせいかもしれないけれど、それが何よりも嬉しかった。

「だから、聞かせてよ。全部受け止めてみせるから。だから――」

 僕はやまもんを真っ直ぐ見て言った。

「やまもん、僕は――」

「――っ!」

「やまもん?」

「さっきからやまもんやまもんって」

「どうしたの? やま――」

「その渾名で呼ばないで!」

 さっきの僕の大声を遥かに上回る音量の声が屋上全体に響き渡り、それと同時にやまもんが頭を抱えながら泣き崩れた。

 突然のことで僕は混乱した。

 保健室のときも、やまもんと呼ぶと過剰に反応し、拒絶していた。

 幼馴染面されているのが嫌だ、というだけならここまで拒絶の反応は見せないだろう。一体――。

「何があったの? やま――、山本さん」

 幼少期からほぼ癖になってしまった呼び名を慌てて訂正した。

「やめてよ! やめてったら!」

 やまもんが、いや、幼馴染の少女がヒステリックに叫び、声を上げて泣き始めた。

「ご、ごめん……」

 僕はたじろぎながら謝った。

「本当に、もう嫌だ……」

 幼馴染の少女が泣きながら言った。

「一体何が、あったの?」

 幼馴染の少女からの返答はない。

 それでも、もう一度、急かすように質問をした。

「ねえ、一体何があったの?」

「――婚、するかもしれないの……」

 幼馴染の少女はどんなに耳がいい人でも聞き取れないような、か細い声で何かを言った。

「え?」

「私のお父さんとお母さん、離婚するかもしれないのよ……」

 幼馴染の少女が大粒の涙を目に浮かべながら言い、そして、その場に座り込んだ。

 ――え?

 僕は、記憶を巡らす。



   ▼▼▼



「パパ! 今日ね、陽ちゃんとまた川に行ったんだよ!」

 やまもんが満面の笑みで父親の手を握る。

「そうかそうか。楽しかったか?」

 やまもんの父親が愛娘を抱き上げて笑った。

「うん!」

 やまもんが父親に抱きつきながら笑った。

「陽ちゃん、いつも遊んでくれてありがとうね」

 やまもん達が笑い合っているのを眺めている僕の頭をやまもんの母親が撫でた。

「明日もやまもんと遊んでいい?」

 僕は尋ねた。

「ええ、遊んであげて」

「やった!」

「おい、母さん、早く行くぞ」

 やまもんの父親の呼び声がする。

「はいはい、今行くわ」

 やまもんの母親が笑顔で、ゆっくりと家族のもとへ歩いていく。

「今晩はシチューよ」

「やったあ!」

 やまもんがはしゃいでいるのが見える。

「じゃあ、陽ちゃん、また明日ね!」

 やまもんが手を振っている。僕はそれに応えるように手を振り返した。



   ▲▲▲



 僕は、幼馴染の少女の家族はとても仲が良いものだった記憶している。

 離婚とは限りなく無縁だと、少なくとも僕は思っていた。

「一体何があったんだ?」

 僕は何度目かわからない疑問形を幼馴染の少女に投げかけた。けれどそれに答えることはなく、彼女は目を伏せ、黙り込んだ。

 元気一杯な幼少の頃とはまるで正反対だ。太陽のように眩しかった笑顔は跡形もない。まるで別人だ。

「……一体何が――」

 何度聞いても幼馴染の少女からは返答がない。

「仲が、悪いのか?」

 僕は思い切って核心を尋ねた。すると幼馴染の少女は涙を拭いながら立ち上がった。

「悪いから、離婚するかもしれないんじゃないの?」

「そ、それは――」

「そんなことも分からないの?」

「……それは――」

「まあ、『大切な約束』すら忘れているような頭の悪い泣き虫陽ちゃんだから、分からないのも無理はないか」

 幼馴染の少女が涙を拭いながら、嫌味のように言った。

「私がピンチになったとき、そばにいてくれなかった。約束したのに、そばにいてくれなかった。それどころか私を毛嫌いした」

 幼馴染の少女が非難の言葉を羅列する。

 何も、言えなかった。

 何も、言い返せなかった。

 何も、言い返してはいけなかった。

 幼馴染の少女のピンチに気づかず、自分勝手な都合で避けた。僕は本当にどうしようもない奴だ。

 失いかけて気づく大切なもの、大切なこと。

 やっと思い出した『大切な約束』とそれを安易に破った自分自身。

 もう、謝っても決して許してはくれないだろう。けれど、それでも、やはり、謝りたい。

 誠意を込めて、ちゃんと謝ろう。

「やまもん」

「だからその名で――」

「本当に、今まで、ごめんなさい」

 幼馴染の少女が言葉を発する前に僕はそれを制止して、勢いよく頭を下げて謝罪した。

 頭を下げたまま目を開けると灰色の無機質なコンクリートが視界に入った。

 今の僕の心はこの灰色より淀んだ色をしているのだろうなと自嘲的になった。

「謝ってばっかり」

 幼馴染の少女が冷たい声で言った。

「それしかできないの?」

「僕は、もう一度君と、君と仲良くしたい。今度こそピンチに駆けつけたい。君を、君を助けたいんだ」

「一度裏切ったあんたをまた信じろと?」

「――うん」

 僕は下げた頭を上げずに言った。

「最低なお願いをしていることはわかってる。でも、君がもし赦してくれるなら――、いや、赦してくれるまで謝り続ける。今の僕にできることは、それだけだよ」

 何度目かの沈黙が、再び僕らを襲った。

 説得が伝わっているかどうか、まるで分からなかった。

 目の前の幼馴染の少女が何を考えているか、まるで分からなかった。何一つ、分からなかった。

 視線を左に逸らした。落下を防ぐために設置されたであろうフェンスがそこに突っ立っていた。

 こいつは、もはや何の役にも立っていない。ただのオブジェとしか機能していない。その様が俄かにおかしく思えた。

 それと同時に、死をより鮮明に、リアルに感じさせられた。

 フェンスから無機質なコンクリートに視線を戻し、更に視線をその先へ向けた。その時、僕はぞっとした。

 下から見れば四階なんて大した高さじゃない。けれど、上からだと違う。まるで別世界だ。このまま二、三歩足をずらせば大怪我か、運が悪ければ死んでしまうだろう。

 僕は改めて今いるこの場の恐ろしさを実感した。

 幼馴染の少女に気付かれぬよう息を深く吸い込み、そして吐く。それを何度か繰り返した。

 すぐそこにある鮮明な、リアルな死の恐怖。幼馴染の少女が抱えている悩み。そして『大切な約束』を無意識に、いや、故意に破った自分に対する憤り。

 それらすべてが目まぐるしく脳内を這いまわり、やがて一つの言葉に辿りつき、僕は沈黙を破った。

「それでも死にたいなら――」

 僕は顔をあげながら静かに、そして冷静な声色で言葉を紡ぎ始めた。

「僕が一緒に、死んであげるから」

 少し間が空いた。

「それ、本気で言っているの?」

「本気じゃなきゃ、言わないよ」

 僕は少女の目を真っ直ぐ見つめながら言った。

 数分間沈黙が続いた。その間、僕らは互いをじっと見つめていた。

 やがて、幼馴染の少女は僕から視線を外し、すっかり暗くなった空を眺めながら大きく深呼吸をした。

「一緒に、死んでくれるんだっけ?」

 幼馴染の少女が言う。その言葉に半ば絶望に近いものを感じた。けれど、それでいいなら、

「君が、本当にそれを望むなら」

「そっか」

 幼馴染の少女が笑った。その笑顔を見て僕は思わず目を見開いた。

 笑顔を見たのは、何年ぶりだろうか。できればこんな形で見たくなかった。

「それならさ、今から一緒に死んで」

 幼馴染の少女が笑顔で言った。

「一緒に死んでくれるんでしょう?」

「――え?」

「だから、一緒に死んでくれるんでしょ?」

 幼馴染の少女が、やはり笑顔で言った。

「さっき自分で言ったんじゃない」

 幼馴染の少女の笑顔に今まで見たことも感じたこともない不気味さ、恐怖を覚えた。それは先ほどから感じている鮮明な、リアルな死の恐怖に似ていた。

 再び視線を右方向に移した。相変わらず鮮明でリアルな死はそこにあった。

 少し強い風が僕の頬を叩く。夕焼けの中、カラスや蝙蝠が忙しく飛んでいるのが見えた。

 再び目まぐるしい感情達が僕の脳内を這いまわり激しい眩暈に襲われた。

「――うん、わかった」

 僕は俯きながらもできるだけ明るい声で言った。

「いいよ、それで」

「じゃあ、手を繋いでよ」

 幼馴染の少女が笑顔のまま手を差し出してきた。

「一緒に落ちよっか」

「――うん」

 それだけ言って、僕は差し出された手を握った。

 やがて僕らは手を繋いだままゆっくりと身体をフェンスの無い方へと向けた。

 再び強い風が僕の、僕らの頬を叩く。

「ねえ?」

 幼馴染の少女が夕焼けを見つめながら口を開いた。

「頭からいくよ」

「――うん」

 それしか返答が思いつかなかった。

「じゃあ、行こっか」

 幼馴染の少女が足を一歩進める。それを見て、僕も足を一歩進める。死の恐怖が大きくなっていくのを強く感じた。

「――うん」

「よし、もう一歩」

 幼馴染の少女が言い、僕らはもう一歩足を進めた。

『頭からいくよ』

 さっきの幼馴染の少女の言葉が頭に蘇る。あと一歩進めば死が待っている。

 足ががくがくと震えた。後悔は全くしていなくても、やはり死ぬのは怖かった。

「震えてるけど大丈夫?」

 幼馴染の少女が笑いながら尋ねる。

「う、うん。大丈夫だよ」

「本当に?」

「大丈夫だよ。だから、さ、早く、してよ……」

 僕は泣きそうになるのをぐっと堪えて、幼馴染の少女に懇願した。

 恐怖で口元も震えてきた。これ以上はもう耐えられないかもしれない。早く終わってほしい。いっそ僕から飛び降りてしまおうか。

「ねえ」

 幼馴染の少女が僕の顔をじっと見つめてくる。

「なに?」

 僕は震える手足、口元を強引に止めながら言った。

「あのね、――だよ」

「――え?」

 僕は思わず聞き返した。

「ごめん、なんて言ったの? 聞こえなかったよ」

「だから、嘘だよ」

 幼馴染の少女が一歩二歩と後ろに足をずらしながらけらけらと笑った。

「え? 嘘?」

「そう、嘘」

 幼馴染の少女が悪戯っぽく笑う。

「飛び降り、ないの?」

 僕はおどおどしながら尋ねた。

「この件はね、ひとまず保留にするの」

 幼馴染の少女はその場にしゃがみながら言った。

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