第二章 記憶のなかの左腕「1、2」
1
幼馴染みの男女によくある話といえば、学年が上がるにつれ疎遠になっていくことではないのかなと僕は思う。掻く言う僕自身はそれの代名詞みたいなものだ。
僕らは年齢を重ねる度に、少しずつ疎遠になっていった。
小学校高学年になってからは一緒にいることはおろか話すことさえ僕からは一切しなくなったのだ。
男友達といるほうが、楽だ。
女は、面倒くさい。
最初こそやまもんは、そんな僕の態度に戸惑っていたり、しつこく話しかけてきたりもしたが、やがてそれをしなくなった。
さらに時間は過ぎ、中学に上がる頃には、僕らは一言も会話をしなくなっていた。かといって僕は別段気にしてはいなかったし、寧ろこれでいい、せいせいしたとさえ思っていた。当然あのことも忘れてしまっていた。『大切な約束』を、忘れてしまっていた。
そして、中学二年の五月半ば。僕は僕が犯した一度目の裏切りに気づくのだった。
2
僕は授業中に体調が悪くなり、保健室へ立ち寄った。
ベッドで寝ようとしたとき、カーテンの隙間から、誰かがベッドの上で何かをしているのがちらと見えた。
覗くという行為に多少の罪悪感を覚えながらも、興味本位でカーテンの隙間から中を覗いてみた。
やまもんがいた。
右手にはカッターナイフが握られている。
左手首、その白い肌に赤い線の様なもの浮かんでいるのが見えた。
傷口だ。
カッターナイフ、手首の傷、その異様な組み合わせに該当するものは――。
「なにしてるんだよ!?」
僕は慌ててカーテンを開け、やまもんの右手を掴んだ。
やまもんの右手に握られていたカッターナイフがカシャンと音を立てて床に落ちる。
刃の先端についた血が保健室の白い床に小さな染みを作る。
「離してよ!」
やまもんはヒステリックに叫びながら僕の腕を振り払う。その力は弱々しいものだったが、彼女の必死の形相に驚き、反射的に手を離したじろいだ。
それから約一分ほど、僕らは沈黙した。その間、やまもんは僕を刺すように睨み続ける。その沈黙に耐えられなくなり、やがて僕は恐る恐る尋ねた。きちんと話すのは、恐らく一年かそこらぶりだろう。
「やまもん、リスカなんてしてるのか?」
「見ればわかるでしょ」
やまもんは、やはり敵意剥き出しの表情で僕を睨んだ。そして、カッターナイフを拾い、続きをしようとする。
「お、おい、何してるんだよ!?」
「だから見ればわかるって言ってるでしょ」
「どうしてこんなことしているのさ」
「うるさいな! 放っておいてよ! あとやまもんなんて言わないで! うざいよ」
「――でも」
「大体、この歳になってもまだそんな呼び方なんて、御坂君はいつまで経っても子供だよね」
やまもんは項垂れ、俯き、やがて無表情になり、淡々と不満を述べる。僕は御坂君と苗字で呼ばれたことと、まるで他人行儀なやまもんの態度にショックを覚え、心が痛くなった。
「そんなこと、言わなくても――」
僕は俯きながら言った。するとそれにイライラしたのだろうか、やまもんが声を荒らげながら口を開いた。
「なに? 呼び方も変わってないどころか、泣き虫陽ちゃんも変わってないわけ?」
「――それは……」
唯一、僕を泣き虫陽ちゃんと呼ばなかった人にそう呼ばれ、僕の心は更に痛くなった。
すごく、痛くなった。
それ以上に、やまもんの変わり様に驚いた。
「用がないのならさっさと出ていってよ。あんたがいると邪魔なのよ」
やまもんがうんざりといった表情で言う。
「やまもんって、――たよね」
思っていることがそのまま口に出てしまっていた。
僕ははっとして、やまもんの顔を恐る恐る窺った。
機嫌を、非常に損ねてしまったようだ。
「なにそれ!? あんたにあたしの何がわかるっていうの? 何にも知らないくせに知った風なこと言わないでよ! 泣き虫陽ちゃんのくせに!」
関が切れたように、やまもんが怒り任せに言葉を羅列し始める。
感情が暴走しているせいか、やがて発音も声量も滅茶苦茶になっていく。
もはや、何を言っているのか、まるでわからない。
やがて、やまもんは怒り疲れたのか、言葉の羅列を止め、静かに僕を睨んだ。
これ以上の長居はまずいと思った。
「あの――」
「なに?」
やまもんが肩で息をしながら、それでいて刺す様な目で睨みながら言った。
「ごめん……」
僕は一言だけ言い、やまもんが文句を言うより早く、逃げるようにベッドから離れ、保健室を出た。
『泣き虫陽ちゃんのくせに』
その言葉が脳裏に何度も蘇り、僕は廊下を歩きながら涙を流した。
一番呼んでほしくない人に嫌な渾名で呼ばれたからか、それとも、他の理由か。
――朗らかやまもんはどこ行ったんだよ……。
保健室を出て真っ先に向かったのは、教室ではなく屋上だった。今は授業中だから、誰もいないだろう。
今は、何も考えず一人でいたい。
階段を勢いよく駆け上がると頭がくらくらし始めた。
――そういえば、体調が悪かったっけ。屋上で少し休んだら早退しよう。
そんなことを考えながら屋上へ通ずる扉を開けた。
青空にはやたら大きな入道雲が浮かんでいる。
本格的に梅雨入りだなと思いながら錆びたフェンスにもたれた。
瞼を閉じると、脳裏にはやはりさっきのやまもんの顔が浮かぶ。リストカットまでしているのだから、きっと相当な悩みを抱えているのだろう。
僕は僕が先ほどやまもんに言った言葉を思い出していた。
『やまもんって、変わったよね』
少し疎遠にもなれば、人は知らず知らずのうちに変わるのだろうけれど、あの変貌ぶりは一体何なのだろうか。
――どうしたもんかな。
寝転がりながら、心のなかで呟いた。
やまもんは変わった。明らかに変わった。
――なんだかな。
夏が、もうじき訪れる。
閉じた目を開けると、青空が、太陽がムカつくほど眩しく感じられた。
太陽の陽太、名前をつけてくれた親には悪いけど、僕にその名前はやっぱり不釣り合いだ。
身体を大の字にして青空を泳ぐ入道雲を目で追う。
――あ、太陽が隠れた。いいぞ、入道雲。
僕は再び目を閉じて、そのまま眠ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます