歩兵のごとく進め

 携帯ゲーム機のなかの金将が、相手の陣地に攻め入ったその時、窓の外で金属バットがボールを叩く快音が響いた。

 キィンという音につられるようにして面を上げると、茜色に染まる女生徒の顔が目前にあって、思わずうわ、と声が出る。


「そんなに驚かなくてもいいじゃない」


 すぐ前の列の椅子に座って、苦笑しながらこちらを覗きこむ彼女は、私のクラスメイトだった。深窓の令嬢という言葉がしっくりくるような、なめらかな白い肌と艶やかな黒髪を持つ、クラスで一番の――いいや、もしかしたら学年一の――美人。名前は確か。


「……栂池つがいけ、さん。何してるの」

「何してるのはこっちの台詞よ、崎幡さきはたさん。それ、将棋のゲーム?」


 興味津々といった様子で栂池さんの整った容貌がぐっと近づいてくる。どきまぎして身を引くこともできない。


「そう、だけど」

「どうしてこんなところでゲーム相手に将棋やってるの? 部活に入ったらいいのに」

「それは、そうなんだけど……」


 目を泳がして語尾を濁らす。私と栂池さんは同じクラスで、ともに高校一年生だ。この高校では全員何らかの部活に入らねばならず、二ヶ月の仮入部期間が終わるまであと一週間を切っている。ほとんどのクラスメイトは既に腰を据えて部活動に励んでいるか、自分に合う部活を探して校内を渉猟しょうりょうしているかのどちらかだ。ゆえに、放課後もクラスに残っている生徒など皆無といってよい。

 だからこそ、私はこうして教室で悠々とゲームができるわけだが。

 もちろん私だって将棋部には入りたい。けれど、なぜ仮入部さえしていないのか、それには理由がある。


「あんな男子しかいないところ、入れないよ……」


 言葉尻は意図せず震え、泣き言のように教室へと漂う。

 部活動見学なら、した。でも部室はまさに男子の巣窟で、私みたいな小心者の女子が入っていける雰囲気ではまるでなかった。部活に入りたい意欲は確かにありつつも、こうしてゲーム機相手に燻る気持ちをぶつけているのは、そんな理由からだ。

 栂池さんは小首を傾げ、凛とした声を放つ。


「そんなの、気にすることないじゃない」


 きりりとした切れ長の瞳には、強くはないが確かな意思の光が灯っていた。

 断言する彼女に対して、私は少なからず、むっとした。将棋部の内情をも知らずにそう言い切る姿勢が、無責任だと感じられたからだ。


「気にすることないなんて、どうしてそんなにはっきり言えるの。将棋部のことも、私の気持ちも、何も知らないでしょう」

「分かるよ」


 言い放つ彼女の瞳は揺らがない。


「私も、同じだから。私が入ることにした部活、私以外はみんな男子なの」


 はっとして、まじまじと栂池さんの目を見つめる。彼女はうっすらと笑んでいた。慈愛すら感じる優しい笑みだった。


「……どの部活?」

「プログラミング部」

「プロ……」


 言い淀む私に、彼女がプ、ロ、グ、ラ、ミ、ン、グ、と噛んで含めるように言う。

 そんな部活があるなんて知らなかった。確かにそこは、将棋部と同じように、いやきっと将棋部以上に、男子生徒が覇権を握る領土だろう。


「女子は私一人だけど、全然やっていけてるよ。それに、最初から女だから、って遠慮するのって、それこそ自分から性差の壁を作ってることになるんじゃない?」


 その口調は私を咎めるものではない。教え諭すものですらなく、どこまでも淡々としていて、穏やかに流れる清流に似ていた。だからこそ、うじうじと悩む自分の心にすうっと沁みた。

 栂池さんが細く長い指を差し伸べて、私の口の端にそっと触れる。その仕草は優美であるとともにどこか後ろめたく、急に心臓が早鐘を打ち始める。


「やってみようよ。おどおどしないで、堂々としていれば大丈夫。現に誰も何も言ってきてない」

「でもそれは……栂池さんは綺麗だから……」

「そんなことない。あなただって、こんなに綺麗」


 唇に添えられていた指が、今度は髪の一房を掬い取った。流麗な動作に胸が高鳴るばかりで、私は一言も発することができない。きっと彼女にも聞こえるくらい、ごくりと喉が鳴った。

 栂池さんは目元を緩ませ、出し抜けに立ち上がる。そのまま陽の光に透けそうな薄いスカートをふわりと翻してみせた。


「私ね、一度あなたと話してみたかったんだ」


 そうして贈られた言葉はびっくりするほど意外なもので。

 私は数秒、絶句した。


「じゃあ、また近況報告聞かせてね」


 ひらひらと手を振り、栂池さんは教室から出ていった。縫い止められたようにしばらく呆然としていたが、気を取り直して鞄に荷物を放り入れる。

 善は急げだ。この足を、一度は一見して逃げ帰ってしまった将棋部の部室へ向けよう。そうして入部希望の意思を伝えるんだ。

 心境の変化の理由は絶対に誰にも言えない。彼女の笑顔をまた見たいと思ったせいなんて、不純にすぎるから。

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