きっとありえた死と恋の音が遠ざかっていく
朝霧を含んだしめやかな風が、夢と現との境にいる私の顔をそっと撫でる。悪くない目覚めだった。
寝転んだままの姿勢で首を左に捻ると、
昨晩からの雨は止んでいた。
「初雪様。お食事をお持ちしました」
少年のような凛とした声がして、障子戸のわきから人間が現れた。私の世話役をしているその人は、敷居を跨ぐ前に、深々と礼をした。
「木蓮。まるで狙い澄ましたように来るね」
「あなた様のことは何でも分かりますから」
「今朝は……また粥かい。私は内臓を病んでいるわけではないのだよ。食事しか楽しみがないのだから、献立くらい豪勢にしてもらわねば困る」
「そう我が儘を仰らないで下さい」
私と同じ年のその人は、教え諭す口調で言う。
体のいたるところを軋ませながら、私は褥の上で半身を起こした。両の腕とも
私がもごもごと口を動かすのを、木蓮がじっと見る。
「うむ。美味い」
「先ほどは文句を言ってらしたというのに」
「美味いものに美味いと言って何が悪い」
「悪いとは申しておりませぬ」
木蓮は、吹けば消えそうな弱々しい笑みを浮かべた。
私は見て見ぬふりをした。つとめて明るく振る舞って、この場をやりすごすことだけ考えたかった。床に臥せってから、食事のたび、頭の中がそれでいっぱいになる。
しかし、私が粥を咀嚼していると、木蓮が俯いてぽつりと漏らした。
「――どうして、ご無理ばかりなさるのです」
私は嗚呼、と胸の内で嘆いた。どうか触れてくれるなよ、と念じていた話題だった。
先の戦のことだ。私は全身に怪我を負った。
敵味方が入り交じる戦場だった。
私は目の前の人間だけに気を取られ、背後から近づく影に気づくのが遅れた。馬から落とされ、人間の足や馬の脚が、慈悲なく迫ってくるのを見た。気を失う前に、私は自分の命を諦めた。
いま生きているだけでなく、そこかしこの骨を折った程度で済んだのが、不思議なくらいだった。
私はため息混じりに答える。
「無理などしておらぬ」
「嘘です、まだ前の戦での傷も癒えていなかったではありませんか」
「お前は、傷が治っていないから戦には出られぬと、そのようなことが私に言えると思うのか。他の者とて、皆が万全の体ではないのだぞ」
「……」
「生きて帰ってこられて良かったとは思っている。敵に切りつけられて死ぬならともかく、馬に踏み潰されて死ぬなど、末代までの恥だからな」
「――私はどちらも嫌にございます!」
木蓮がぱっと顔を上げ、びりりと空気を震わすほどの声を放った。常に物静かな世話人の、意外なほどの剣幕に
木蓮の眸は涙に潤んでいた。艶々とした髪が乱れ、顔にかかっているのを直し、涙を拭ってやりたいとも思ったが、この体ではどうしようもなかった。
「あなた様が、この世からいなくなるなど……考えたくもありません」
「……お前は、私にどうしてほしいのだ」
「ご無理を、しないでほしいだけです」
「お前とて分かるだろう。この家に生まれついた以上は、この生き方しかできんのだ。すまぬ」
「謝られても、困ります……」
「すまぬ」
私はじっと
刀すら振るったことのないたおやかな手、その甲に骨の筋が白く浮き出ている。木蓮の体は、ぶるぶると震えていた。
「……あなた様は」
「なんだ」
「あなた様はこの土地のため、民のため、国のためと仰います。ですが、私のことはどうでもよろしいのですか」
私の顔から血の気が引いた。それはしてはいけない問いだった。私は返答に詰まって、唇を噛んだ。
心の中のもう一人の自分は叫んでいる。どうでもいいわけがない、と。声を枯らさんばかりに。
それを口に出すことはできなかった。もとより私たちのあいだには、どんな言葉も許されていないのだ。
木蓮だって、分かっているはずだ。分かっているのに、言わずにはいられなかったのだろう。私にも、気持ちが分かる。私と木蓮が胸に秘めた想いは、同じ形と、色と、重さのものに違いないから。
居心地の悪い沈黙が続いた。半分ほど残っていた粥はとうに冷めきっていた。いつの間にやら霧は晴れ、凌霄花が陽の光にいっそう華やかさを増し、咲き誇っている。
言葉を発したのは私だった。
「私が馬から落とされた時」
またも俯いていた木蓮が、はっとこちらを凝視する。
「気を失う前――最後に心の中に浮かんだのは、お前の顔だったよ」
それが精一杯の言葉だった。
木蓮の肩越しに見える、凌霄花の群れから、風も無いのに花がぼとりと落ちた。
木蓮は何も言わなかった。
私は、自分と同じ性を持つ、その人の瞳を見つめる。
その中心へ吸い込まれて、今すぐ死ねたらいいのに。そう思った。
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