きっとありえた死と恋の音が遠ざかっていく

 朝霧を含んだしめやかな風が、夢と現との境にいる私の顔をそっと撫でる。悪くない目覚めだった。

 寝転んだままの姿勢で首を左に捻ると、ひさしと障子戸、縁側とで四角く切り取られた庭がよく見えた。

 昨晩からの雨は止んでいた。凌霄花のうぜんかずらが、その色で見る者の目を刺さんばかりに、見事に咲いている。緑の葉と、赤黄の花の対比がたいそう鮮やかだ。雨の名残の水滴を身に纏い、朝の光にやわらかく濡れ、揺れていた。


「初雪様。お食事をお持ちしました」


 少年のような凛とした声がして、障子戸のわきから人間が現れた。私の世話役をしているその人は、敷居を跨ぐ前に、深々と礼をした。


「木蓮。まるで狙い澄ましたように来るね」

「あなた様のことは何でも分かりますから」

「今朝は……また粥かい。私は内臓を病んでいるわけではないのだよ。食事しか楽しみがないのだから、献立くらい豪勢にしてもらわねば困る」

「そう我が儘を仰らないで下さい」


 私と同じ年のその人は、教え諭す口調で言う。

 体のいたるところを軋ませながら、私は褥の上で半身を起こした。両の腕ともえ木で固定されているため、食事はおのずと、木蓮に匙で口元まで運んでもらう形となる。

 私がもごもごと口を動かすのを、木蓮がじっと見る。


「うむ。美味い」

「先ほどは文句を言ってらしたというのに」

「美味いものに美味いと言って何が悪い」

「悪いとは申しておりませぬ」


 木蓮は、吹けば消えそうな弱々しい笑みを浮かべた。

 私は見て見ぬふりをした。つとめて明るく振る舞って、この場をやりすごすことだけ考えたかった。床に臥せってから、食事のたび、頭の中がそれでいっぱいになる。

 しかし、私が粥を咀嚼していると、木蓮が俯いてぽつりと漏らした。


「――どうして、ご無理ばかりなさるのです」


 私は嗚呼、と胸の内で嘆いた。どうか触れてくれるなよ、と念じていた話題だった。



 先の戦のことだ。私は全身に怪我を負った。

 敵味方が入り交じる戦場だった。

 私は目の前の人間だけに気を取られ、背後から近づく影に気づくのが遅れた。馬から落とされ、人間の足や馬の脚が、慈悲なく迫ってくるのを見た。気を失う前に、私は自分の命を諦めた。

 いま生きているだけでなく、そこかしこの骨を折った程度で済んだのが、不思議なくらいだった。

 私はため息混じりに答える。


「無理などしておらぬ」

「嘘です、まだ前の戦での傷も癒えていなかったではありませんか」

「お前は、傷が治っていないから戦には出られぬと、そのようなことが私に言えると思うのか。他の者とて、皆が万全の体ではないのだぞ」

「……」

「生きて帰ってこられて良かったとは思っている。敵に切りつけられて死ぬならともかく、馬に踏み潰されて死ぬなど、末代までの恥だからな」

「――私はどちらも嫌にございます!」


 木蓮がぱっと顔を上げ、びりりと空気を震わすほどの声を放った。常に物静かな世話人の、意外なほどの剣幕に気圧けおされる。

 木蓮の眸は涙に潤んでいた。艶々とした髪が乱れ、顔にかかっているのを直し、涙を拭ってやりたいとも思ったが、この体ではどうしようもなかった。


「あなた様が、この世からいなくなるなど……考えたくもありません」

「……お前は、私にどうしてほしいのだ」

「ご無理を、しないでほしいだけです」

「お前とて分かるだろう。この家に生まれついた以上は、この生き方しかできんのだ。すまぬ」

「謝られても、困ります……」

「すまぬ」


 私はじっとこうべを垂れた。木蓮の、自分より幾回りも小さい手が、両膝の上で握られているのを見た。

 刀すら振るったことのないたおやかな手、その甲に骨の筋が白く浮き出ている。木蓮の体は、ぶるぶると震えていた。


「……あなた様は」

「なんだ」

「あなた様はこの土地のため、民のため、国のためと仰います。ですが、私のことはどうでもよろしいのですか」


 私の顔から血の気が引いた。それはしてはいけない問いだった。私は返答に詰まって、唇を噛んだ。

 心の中のもう一人の自分は叫んでいる。どうでもいいわけがない、と。声を枯らさんばかりに。

 それを口に出すことはできなかった。もとより私たちのあいだには、どんな言葉も許されていないのだ。

 木蓮だって、分かっているはずだ。分かっているのに、言わずにはいられなかったのだろう。私にも、気持ちが分かる。私と木蓮が胸に秘めた想いは、同じ形と、色と、重さのものに違いないから。

 居心地の悪い沈黙が続いた。半分ほど残っていた粥はとうに冷めきっていた。いつの間にやら霧は晴れ、凌霄花が陽の光にいっそう華やかさを増し、咲き誇っている。

 言葉を発したのは私だった。


「私が馬から落とされた時」


 またも俯いていた木蓮が、はっとこちらを凝視する。


「気を失う前――最後に心の中に浮かんだのは、お前の顔だったよ」


 それが精一杯の言葉だった。

 木蓮の肩越しに見える、凌霄花の群れから、風も無いのに花がぼとりと落ちた。

 木蓮は何も言わなかった。

 私は、自分と同じ性を持つ、その人の瞳を見つめる。何時いつ見ても清らかな目だった。私はそれの他に、美しいものを知らなかった。

 その中心へ吸い込まれて、今すぐ死ねたらいいのに。そう思った。

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