また会う日までお元気で
「あ」
思わず漏れた、といった声だった。
声につられてそちらを見ると、卒業証書を手にした女子生徒が、凍えるほど寒い廊下で棒立ちになっていた。
肩口までのつやつやした黒髪と、黒目がちの大きな目が印象的な女の子。
その子には見覚えがあった。俺が使っている通学電車で、ちょくちょく見かける子だ。ここらは田舎なので、通学に使える電車は限られているし、車両も都会に比べたら冗談みたいに少ない。だから名前は知らなくとも、顔を見慣れている人がたくさんいる。
目の前にいる子も、その一人だ。ただしその電車通学も、今日で終わりだ。
「おんなじ学年だったんだ」
女の子が破顔する。寒さのためか、頬の一番高いところが、ぽっと赤らんでいる。
たぶん、俺の手にある卒業証書か、胸に付けた赤い造花を見て言ったのだろう。
「あ、ごめん。いきなり話しかけて」
「いや別に……。あんた、電車に乗って通学してないか?」
「え、うん。知ってるんだ?」
「ああ。電車の中でいつも本読んでるだろ」
「そんなことまで? わあ、ちょっとびっくり」
名も知らぬ女子生徒はにこにこと嬉しそうだ。
実を言うと、電車内で見かけるうちに可愛いなと思うようになっていたのは内緒だ。突然その子に話しかけられて、内心かなりびっくりしている。
「ね、名前、なんていうの」
「
問われて答えると、女の子がぷっと吹き出した。
「うそ、女の子みたいな名前。見た目けっこういかついのに」
「うるせーな。ほっとけよ、コンプレックスだよ。そういうあんたは何さんなんだよ」
「私? まこと。あんの、まこと」
「あんただって男みたいな名前じゃねーか」
「漢字見たらそうは思わないよ」
まことと名乗った女の子は、気温差で曇った廊下の窓ガラスに指を走らす。赤らんだ指先が安野真琴、という字を
「どうだい」
「まあ、そうだな」
「でしょう? さてこれは恥ずかしいから消そっと」
真琴は指先を揃えて自身の名前をきゅっきゅっと消した。
透明になった窓から、一面の雪景色が見えた。雪国の、豪雪地帯と言われる地域だから、この時期の降雪は特に珍しくない。
ただ、今日は卒業式だ。何もこの日に、狙いすましたように大雪にならなくてもいいのに。
雪はしんしんと音もなく降り続いている。暗鬱な空から大きな牡丹雪が次々と舞い落ちてくる。朝から十五cmは積もっただろうか。
「すごい積もったね。帰るの大変そう」
「卒業式なのにな」
「卒業式なのにね」
二人して窓から外を見つめる。真琴の横顔ははっとするほど綺麗だった。
静寂を破るように、聞き慣れたチャイムが甲高く鳴る。ロングホームルームを知らせるチャイムだ。この高校で、いや人生で最後の、ホームルームが始まる。
「ざんねーん、時間切れ」
真琴が楽しげな声を上げた。もしかしたらわざと楽しそうな声を作ったのかもしれない。その台詞はやけに芝居がかっていた。
「じゃあね、馨くん。元気で。縁があったらまた会おうじゃないか」
「おう。縁があったらな」
俺たちはそんな風にして気軽に別れた。気軽を装って、といった方が確かかもしれなかった。
互いにクラスも訊かなかった。進学先も訊かなかった。電話番号も、メルアドも訊かなかった。
それでも、またすぐに会えるような気がしていた。少なくとも、そのときはそう思っていた。
* * * *
再会は、10年後だった。
何のことはない、ただの同窓会だ。成人式でも高校の同級生は集まったのだろうが、俺自身が身内の不幸でばたばたしていて出席できなかった。
スーツあるいはカジュアルなドレスで着飾った同い年の男女が、あちらこちらに輪になって談笑している。懐かしい顔がいくつも見える。
「あ」
無意識に漏れたような声に、俺は振り返る。
あれ、と思う。なんかこの状況、デジャヴだ。
「馨くん。来てたんだ」
そこには十年前と全く変わらない真琴がそこにいた。満面の笑みをたたえている。
変わったのは化粧の上手さくらいか。淡いクリーム色の、上品な感じのドレスを身に纏っている。
向かい合って、しばし無言になった。お互い、左手の薬指に指輪を着けていた。
「……いや、びっくり。全然変わんねーな」
「そう? 出産したら体型変わった気がするけど。馨くんはあれだね、昔よりさらに目付きが悪くなったね」
「なんだそりゃ。つーか子供もいんのか。何歳?」
「もうすぐ二歳。もう毎日大変だよー、可愛いけど」
「可愛いならいいじゃんか」
近況報告に近い雑談をしながら、ああ、二人とも大人になったんだな、としんみり思う。
「あのさ」
切り出す気になったのは、体に回り始めたワインのせいかもしれない。ワインのせいにしとく。
「卒業式の日、どういうつもりだったんだ?」
「あー、あれね」
真琴はばつが悪そうに笑った。
「あのね、馨くんのこと、ちょっと好きだった」
「ちょっとかよ」
「うん、ほんのちょっと」
「そっか。まあ俺も好きだったよ。ほんのちょっと」
「ほんのちょっとか」
「うん」
そこで目が合って、どちらともなくふふっと笑い合った。
胸は痛まなかった。
あの日の刺すような空気の冷たさだけを、思い出した。
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