1話:はじめの1歩

「はぁっ、はぁ……ッ!」


村から離れた森の中で走り続ける。私は魔物に襲われているのだ。最初は採取していた薬草や果物入れた籠を抱えていたが今はそんな物を抱えている余裕は無く放り投げて走り続けている。

魔物の名はロットンウルフ。見た目は痩せさらばえた途轍もなく大きな狼の腐っている死体に木々巻き付いている異形な形をしている化け物。


頭の左右に巨大な枝分かれした角

あばらが浮かび、肉などは細くこびりついている程度しかなく、体には幾つの空洞が空いている。

腐っている腐臭が距離をとっている自分の方にまで漂ってくる。

普通は生物として生きられない構造をしているが魔物にはそんな事は関係ない。

魔物に常識など通用しないのだから。


ロットンウルフはその見た目からは考えられない強靭な力で恐れられている。ギルドの討伐クエストでもAランクに登録されている化け物だ。普通の人間がそんな化け物の攻撃を喰らえば掠っただけで死んでしまう。


唯一の救いと言えば見つかったのが森の中だった事だ。

ロットンウルフは体が腐っているためにまともに真っ直ぐ歩く事が出来ない為、木々にぶつかって追いかけてくる。腐食する部分が多く、五感の殆どが衰えている欠点も上げられる。もし見つかるのが荒野などの遮蔽物が無い場所だったらすぐに食い殺されていただろう


「あぐっ!」


だが、肝心な所で根が飛び出ていた所に足をとられてしまい転んでしまった。その際に腕や足を擦ってしまい血が出てきてしまい熱を持つ。あまりの痛みに蹲りたくなるが、そんな余裕は無い。早く動かなければと焦り立ち上がろうとする。だが一度だけ相手との距離を確認しようと後ろを向いた。


「――――――ぁ」


目の前に映るのは腐った狼の顔。

臭うのは途轍もない腐臭。


あれ程の距離をとっていたのに転んでしまった短時間で、もうここまで距離を詰められてしまった。

奴はまるで私を品定めするように顔を近づけ臭いを嗅ぎ、死んだ魚の様な白ずんだ眼で見てくる。

そして、品定めは終わったのか此方に大きな口を広げてゆっくりと近づいて来た。その光景を見て私は無意識の内に歯をガタガタと震わせてしまっていた。


ここで私は死ぬんだと悟った。


結局都会に出ることも村で一生を過ごし、恋人も作る事無くこのまま生を終えてしまうのかと。自分が死ぬ恐怖よりも先に死んでしまう両親に申し訳ないという心に溢れた。少しでも嫌な思いはしないように目をギュッと瞑る。


――――ドンッ


何かがめり込む音がしたと同時に、圧迫と腐臭が嘘の様に消えた。

あぁ、私は死んでしまったのか。

身体の肉を食いちぎられ苦しんで死ぬと思っていたが、そうでなかったなら良かった。

あまりに痛みなどの苦しみが一切来なかった事に拍子抜けに感じる部分もあるが死んでしまった今となってしまっては、どうしようもないか。


すると少し遠くの方からドンッ!と大きな音と共に振動が私を襲う


まさか死んでもまたあんな化け物に会わなければならないのか?

それは何と言う残酷な仕打ちだ、もしそんな事があれば私はずっと神様というものを怨んでやると思った。


『大丈夫か?』


だが私の考えを否定するかの様に少し篭った男性の声が聞こえた。なんで突然男性の声が聞こえるのか意味が分からない。もしかして私はそこまで心から恋人というものに憧れていて死の間際に、そんな幻聴が聞こえてしまっているのかと思うと恥ずかしく感じた。


『もしかして、怪我でも―――あぁ転んで膝擦ってんじゃねぇか、結構血ぃ出ちまってるし。ほら手ぇ出しな、まずは立ち上がんねぇと消毒もままならんぞ』


随分と私の幻聴は流暢に喋るなと思い恐る恐る目を開けると、目の前には手が差し伸べられていた


「え?」


目の前には大柄の黒ずくめ男性が此方に手を差し伸べていた。


まず眼に入るのはボサボサの長めの黒髪。

男性にしては長いと言える髪を、顔にかからない様に額の位置で長めの布の様な物を巻いている。

そして、首から下から全てを覆う様な物を身に纏い、更にその上から胸、肩、腕、腰、脛、腿等の要所に黒く硬そうな何かの防具が付けられている。

口元にもその防具が有り、此方から見えるのは目元から上だけだ。


ガタイは男性にしても大柄、肉体は全身覆われていてあまり分からないが、その上からでも筋肉の盛り上がりが分かる。少なくとも一般男性の体格とは段違いなのだろう。


目元は少し鋭い事と、その格好も相まってロットンウルフ程ではないが、怖く感じてしまい身を引いてしまう。


『―――あぁ、悪い。このままじゃ怖いか』


そう言うと彼は結んでいる紐を解き、口元の防具を外し素顔を晒した。

彫りの深い顔立ちで美形と言われるには十分。若干目元が釣り目で睨まれれば怖いという感情を抱くだろうが、今はまるで悪戯が成功したかのような表情で笑みを浮かべている為、少し無邪気さと明るさを感じさせる。


歳は二十代中盤程度だと推測できる。言うなれば子供っぽさを残した大人の様なものだ。


「大丈夫か?」

「え、ぁ、はい」


頭が混乱していて、気の抜けた返事しか出せなかった。

そんな私を見て軽く笑いながら頭を撫る。防具を纏っている為、若干堅さを感じるが痛みは無く、軽く触れる程度でやってくれて心地よさを感じる。

その心地よさに目を細めていると少し離れた所から、木々をへし折る音と獣の呻き声の様なものが聞こえた。


それと共に、まるで現実に引き戻すかのようにロットンウルフが木々をなぎ倒しながら顔を覗かせていた。先程の恐怖が蘇り「ひっ!」とまた情けない声を出してしまった


「ちょっと待ってな、すぐに終わらせてくるからよ。そしたら後で水でその傷洗わないとな」


怯える私を落ち着かせるように、優しい声で喋りながら手に持っていた防具を口へ再び装着する。

そのまま振り返り、明らかに怒りで興奮状態になっているロットンウルフへ歩き出す。


「す、すぐに終わらせるって……ッ!あのロットンウルフを武器も持たずに―――」

『武器ならある』


私の声を遮って彼は腕を掲げる。


『俺の武器は拳これだよ』


そう言い放つと、彼は再びゆっくりとロットンウルフへ歩き出した。

私はその背中を、黙って見る事しか出来なかった。




     ※※※




「凄い……」


この光景にそう言うしかなかった。

あまりに圧倒的な姿に、ただただ驚くしかなかった。


『しッ!』


面を被っていても聞こえる彼の声。

その声と同時に放たれる拳の一撃がロットンウルフの右の前足をへし折る。


そう、へし折る・・・・のだ。


彼の一撃はまさに一撃必殺。

当たればへし折れ、掠れば吹き飛ばされる。彼はまだ5回程度しか攻撃していないのに対し、ロットンウルフは満身創痍。

ロットンウルフは噛み殺さんと言わんばかりに、咆哮の様なものをあげているが、何の意味も成さない。

文字通り、負け犬の遠吠えだ。


とうとう両手が使えなくなってしまったロットンウルフは、玉砕覚悟で口を大きく開けて彼を噛み殺さんと迫ってくる。

だが、彼はそれを避けようともせずに腰を落として迎え撃とうと手を前に出す。


『ぬぅッ!!』


ロットンウルフの上下の犬歯を両手で受け止める。

流石に勢いは完全に殺すことが出来なかったのか、後方へ押されている。


『つ……ぅッ』


だがすぐに踏ん張りを効かせて、その勢いも完全に止まった。

為す術も無くなってしまったロットンウルフは、最後の抵抗に口を閉じ相手を噛み殺そうとするが、上下の犬歯をしっかりと掴まれている為、ビクともしない。

彼は捕まえた犬歯を少し上に持ち上げると、地面へ思いっきり叩きつけ、その顔の中心に地面にヒビが入る。


『ふんッ!!』


駄目押しの様に、ロットンウルフの鼻の少し上の部分に両手の指を組ませたところを、まるで槌の様に振り下ろす。

今度はヒビが入るどころか、地面が割れてまるで爆心地かの様に爆音と振動を発生させる。


「きゃ……ッ!」


距離を置いている筈のここにまで爆音と振動、そして砂煙が襲って来て思わず尻餅をついてしまった。

視線を戻すと、もうロットンウルフは力尽きる寸前なのか、体が殆ど動かずに呼吸で体が上下するだけだった。彼は顔を踏み台にし、ロットンウルフの首の後ろへ跳ぶ。

そして、むき出しになっている頚椎の部分を右手で持ち上げ


『討伐―――』


右手に力を込める事で徐々にヒビが入り、やがてはそのヒビは1間接全体に及び


『完了だな』


バキッと音をたてて折れる。

それと同時にロットンウルフはまるで糸が切れた操り人形かのように地面へ崩れた。




 ◇




「じゃぁ、貴方はあのロットンウルフを討伐しに私達の『コーラスト村』に来てくださったんですか?」

「あぁ、と言っても依頼主の話じゃ生息地はもっと遠くの沼地ってことになってたからアンタの村に寄る予定は無かったけどな」


今私は助けてくれた彼と、談笑しながら村までの帰路を歩く


「いや、でも焦ったよ。あの沼地探しても小さい獣ぐらいしか居ねぇからさ」

「私も焦りましたよ、薬草の採取をしていたらいきなりロットンウルフが現れたんですから。でも、何故この森にまであのロットンウルフが来ていたのでしょうか?」

「さぁな、常識が通じない魔物は何しでかすかなんて分からないからな。いくら考えたところで正解なんて見つからねぇさ」


彼は口元を覆っていた防具を外し、両手にはこれでもかと改めて採取した詰めた大量の薬草の籠を持っていた。

流石に助けて貰っておいて、薬草採取まで手伝って貰おうだなんて申し訳ないと言ったのだが、彼は大丈夫だからと言って手伝ってくれたのだ。


「でも凄いです、あのロットンウルフを身体一つで倒してしまうなんて」

「そうか?」

「そうですよ!Aランクに指定されている魔物を武器も魔法も使わずに倒してしまうなんて普通の冒険者には無理です!」


ロットンウルフ

五感の劣化、腐食による弱点の露出などの欠点があるにも関わらず、Aランクに指定されているのは強靭な肉体。

確かに五感の劣化は致命的だが、奴は敵がいると分かった途端に無差別に暴れだし、そのあまりにも予想できない動きと尋常ではない攻撃力に近づいたものは瞬殺される者が殆どだ。

ロットンウルフを倒す定石としては、壁役として防御に特化したウォリアーを数人に、遠距離から魔法使いの魔法で倒すのが一般だ。


結局この知識も書物で読んだことがある程度で実際どうなのか確証めいたものはない。

だが、そんな相手を一人で倒すなんて凄いと思うし、それも数発だけで終わらせるなんて異様な光景だった。自分は勿論戦いなんてした事が無いし、見た事だって狩りで親や知り合いが小動物を仕留めている場面程度しかない。そんなレベルのものとは比べ物にならないロットンウルフとの戦いを見て私は興奮気味になってしまい彼へと迫る。


「それとも、その防具に何か特別な仕掛けでもあるんですか?」

「この装備にか?」

「はい、見るからに凄そうな感じがしますし」


そう言いながら、試しに彼の片腕に恐る恐る触れる。

若干表面がザラザラしていて、思っていたよりも重そうだ。最初は特殊な金属の何かと思っていたが、触ってみると明らかに何らかの生物一部だったことが分かる。一体何の魔物から作り出されて装備なのだろうか書物でしか魔物を知らない村娘の私には検討もつかない。


「確かに一般の装備からしたら上等なものだけど、これ自体に何か特殊な付加が付いてるとかはねぇさ。説明するとしたら凄ぇ堅い凄ぇ重い装備ってだけだ」

「こんなに凄い装備、どこで買えるんですか?」

「買えねぇさ。これは普通じゃ取れない珍しい素材でな。それを態々自分で集めてきて鍛冶屋に直々にお願いしに言ったんだからな。何ならこれ、持ってみるか?」

「え、良いんですか!?」

「別に構わんさ、ちょっとやそっとじゃ傷一つつかないし」


若干、好奇心で興奮気味で聞きなおすと、彼は苦笑しながら腕に着けている防具を外して私の目の前に掲げてくれる。


「この紐の部分だけを持てよ」

「紐だけ、ですか?」

「まぁいいからいいから、言う通りにしなって。持てみれば分かるさ」


彼の発言に疑問を抱きながらも言う通りに紐を掴む。別にこの段階で変わった様子は無い。


「んじゃ、離すぞ」


ドキドキしながら両手で掴みむ私だったが、彼が手を離した途端


「え―――」


グイッと重力に逆らわずにそのまま両手ごと地面へと持っていかれ、手が完全に地面に着く前にこれは不味いと頭で考える前に手が勝手に離れた。

その防具はドンッ!と重い音をたてて地面へと落ちる。

あまりの驚きで固まってしまい、だんだんとこの状況に理解が追いつくと大きさに対しての異常な重さに驚いた。腕に着けるのだから、そんな重くしている訳がないだろうと思っていたが、予想を遥かに上回る重さだった。

それに何が凄いってこの防具を要所要所とは言え、この重みのする物を複数身に纏いながら闘っていた事だ。もし、この防具を着けたら私は立つ事すら出来ず、そして力自慢の男の人でも歩くことも難しいだろう。


「ははは、まぁそうなるわな」

「分かってるなら教えて下さいよ!!」

「先に言っちゃぁつまらないだろ?それに助言はしたし」

「もうッ」


不貞腐れる私を横目に、笑いながら防具を拾い再び腕へと装着する。


「……貴方はもっと優しい方だと思っていました」

「男ってのは優しすぎるより、少し悪餓鬼っぽさがある方が良いんだよ」


そう言いながら、先程と同じように優しく頭を撫でてくれる。

その心地よさにまた目を細めて、気持ちよさそうにしていると、まるで悪戯が成功したかのような表情で私の顔を見ていた。


「だろ?」

「……ぷぃ」


そっぽを向く私の反応に満足したのか、彼は高笑いをする。

……確かにこういう人の方が一緒に居た方が楽しいのかなって、思ってしまったけどもッ。

私が拗ねて顔を横に逸らしていると、彼が背伸びをして骨をボキボキと鳴らし始めた。


「……さてと」

「どうしたんですか?」

「村も目の前に来た事だしな、そろそろ俺は戻ろうかなと」


「ぁ」


彼の言葉を聞いて目の前を見ると目の前には見慣れた村の門があった。

私は無事に帰れたという事になると同時に彼とのお別れの時間が来た知らせともなる。


「そ、そうだ、私の家でお食事でもどうですか?お礼もまだですし!」

「こんな怪しげな男が突然現れたら村人が驚くだろ」

「そ、それは私が皆に!」

「もうギルドに連絡したし、あのロットンウルフの死体を回収係が来るまでハイエナみたいな奴等から守らないといけない」


Aランクのロットンウルフの素材は需要が高く、高値で取引される。

そんな金になるモノを長時間放置していると、偶然見つけた人間が勝手に持ち出す場合がある。だからギルドが回収に来るまで、そういう相手から討伐した死体を守らなければならない。


「う~……」

「そうウネることはねぇさ。別にもう会わない訳じゃない」

「……また会いに来てくれます?」


少し不安の気持ちを抱きながら尋ねると、彼は再び苦笑すると頭に手をポンッと置く。


「あぁ、アンタみたいな美人にならこっちから望んで会いにくるさ」 


変わらず飄々とした態度で答えると、彼は後ろへ振り向き歩き出す。。

このままで別れてはいけない。そんな思いに駆り立てられ、私は慌てて引き止める。


「せめてッ!せめて貴方のお名前をッ!!」

「名前?あぁ、言ってなかったか」


彼は笑いながら後ろに振り向き、言った。


「アドルフだ、今は『ノーランス村』っていうド田舎の村に住んでる」


その姿を見て、胸がドキッと高鳴る。


「アドルフ様……」

「ハッ、様はやめてくれ、ガラじゃねぇ。……じゃぁまた。今度は魔物なんかに襲われるなんて場面じゃなくて、平和な再開をさせてくれよ」


そう言うと彼は足を曲げ腰を落とし、空へ跳ぶ。あの装備を着けての跳躍に驚きはしたがリアクションを取る暇も無く私は彼に聞こえるように叫ぶのだ。


「私はマルタ!マルタですッ!!この村で貴方が来るまで待っていますッ!!」


声が聞こえたのか、彼は振り向かずに腕だけを上に上げて答えてくれた。

やがて姿は見えなくなり、寂しさが胸を締め付ける。胸の前に手を組み、目に焼き付けた彼の背中を思い出す。


「アドルフ様……」


私は彼と再び会う未来を、想い願うしかなかった。




 ◇




「マルタ、か」 


風を切りながら叫ばれた彼女の名前を呟きながら、彼女の事を思い出す。


シルクの様に滑らかで柔らかい長い黒髪。

年齢より幼く見える顔立ち。

ぷっくりとした可愛らしい唇。

そして、低身長でありながらもその体型に不釣合いな大きな胸。


そんな彼女が俺が自分から離れてしまうと理解して浮かべた表情は、まるで愛する恋人が離れていくような悲しい表情だった。あの美人な彼女が俺に対してその表情を浮かべたのだ。


あの美人な彼女がだ。


「おっしゃぁぁぁぁぁあッ!!!!!」


実感して体が震えだし、あまりの高揚感に空中を跳んでいるのにも関わらず両腕を天へと突き上げる。

そのあまりにも大きい声に周り一体の鳥達が驚いて空へと飛び出したが、そんなことは関係ない。このまま歓喜の思いを抱きながらロットンウルフの死体の番をしようと、目的地一歩手前の木の枝に着地しようと跳ぶ。


「来たぜ、来たぜ俺の時代がッ!!これでやっと!これでやっと俺はこれまでの生活とおさらばでき―――」


着地と同時に足元からバキッと小気味良い音が聞こえた。


「―――る?」


何の音だろうと視線を下に向けると着地した筈の枝が根元からへし折れていた。あまりに予想外の展開に頭が状況に追いつかなかったが、それは着地失敗という結果とこれから起きる事をすぐに理解させてくれた。


「あァァぁぁぁッ!!」


絶叫しながらなんとか枝を掴もうとするが、如何せん装備が重過ぎる為に掴んだ瞬間から根元からへし折れていくから意味が無い。

まったく誰だ、こんな重い装備なんて作ったのは。

抗議の思いを抱きながら、抵抗虚しく死体の近くにあった湖に激しい水飛沫を上げて落下した。


「………ッ!」


水中でぷかぷか浮かぶとかは一切無く、まるで船から降ろされる碇の様にドスンッ!と水中であるにも関わらず、鈍い音を響かせて地面にめり込む。

必死に地上へ上がろうと踠くがまた装備の重みが邪魔をするので着たまま上がる事を諦め、手間になるがここで装備を脱いでからにしようと決断する。


「…………ッ!!」


ここでまた問題が発生した。

指先が帷子で覆っている為、太くなった指での細かい作業が難しくなっている。先程から何度も腕部分の防具を必死に外そうと紐を解こうとするが、焦りもあることから手間取ってしまう。しかも、戦闘中に解けないようにする為に、紐の数も多く、今のこの現状でそれは迷惑以外の何ものでもない。

やっと両手の防具が取れたと、喜びながらも苛立ちを解消するかのように、そのまま地面へ叩きつける。少し苛立ちを解消出来て、笑顔になって地面にめり込んだ足の防具を外そうとした。


そして、またまた問題が発生。


紐が固結びになった。




「…………ッッッッ!!!!!!」




先程の雄たけびよりも激しく叫ぶ。

だがそれは声にはならず、ただただ自分の体内の空気量を減らすという自殺行為にしかならなかった。




 ◇




「ごほッ!かはッ!!」


水中脱出出来た瞬間に飲んでしまった水を咳き込みながら吐き出す。

あの後、なんとか時間をかけて全ての防具を外して水中を出ることが出来たが、自分の許容範囲の時間を越えてしまっていた為、中での焦りは尋常ではなかった。


「クッソ、マジで死ぬかと思った……」


だが、良かった。

彼女を助ける時にこんなみっともない姿を見せてしまったら、ただの敵の前で湖の中に突っ込んで出れなくなった変な黒い野朗としか思われなかっただろう。そんなザマでは女を惚れさせる事など到底出来はしない。一筋縄ではいかない難しい世の中だ。


「……まったく」


真剣に悩んでいると、上の方から声が掛かった。その声は随分と聞きなれたもので俺の知り合っている数少ない女性の一人。

疲れ果ている為、肩で息をした状態でゆっくりとだが視線を、声の聞こえる方へ向ける。


「アンタ、何やってんのさ」


思った通りの女が呆れた表情で此方を見ていた。

釣り目気味の長身かつグラマラスで、肩より少し下で切り揃えられた綺麗な緑がかった黒髪の美しい女。

確か年齢は俺より少し下と言っていたか。

服装は襟首のボタンまできっちり留めている黒い長袖の服に、少し短めのタイトスカートで網タイツは穿いている。

春夏秋冬、暑くても寒くても仕事中は一貫して同じデザインの服を着続けるので、もう見慣れたものだ。まぁ見慣れたとしても、この服装は眼福ものだけど。


スカートなどの部分も勿論だが、一番重要なのは上の服だ。

デザイン的には男装の様に見えるが、女性の胸部を窮屈させないようにそこだけ白いブラウスが出ているデザインとなっている。確かに機能性を考えれば素晴らしいが、彼女の様に胸の大きな女性が着ると胸を強調し過ぎるという問題がある。

こっちとしてはありがたいから文句は一つも無いから良いのだが。


「ちょっと若さ故の過ちをな……、深く聞かないでくれ」

「何言ってんだか……。もうお互いにいい歳でしょうに。それにアンタがやることに深い部分なんてある訳無いじゃない、深さなんて風呂桶程度の浅さしかないでしょ」


なんとも心外な事を言ってくるのだ。

ここは大人として、しっかりと論さねばならない。


「バッカ、俺のやる事は全て山より深く、海より高いに決まってんだろ?」

「つまり全て薄っぺらという事ね、分かったから早く帰る支度してなさい」

「あれ、何か俺間違えた?」

「間違えてないわ。アンタの全てを表した見事な一言。他の男には真似できない素晴らしい事だから誇っていいわ」

「よせやい、照れるだろ」


何故そんな呆れたような顔を俺に向ける?

若干釈然としない部分はあるが、ここは流しておくのが大人の余裕というものだ。


「それより、なんだって湖から出てきたのよ。それも下の服だけで防具も無しに。……まさかロットンウルフ相手にその格好で挑んだとか言わないわよね?」

「流石にそんな遊び心はねぇよ。ただ木の枝を踏み場にして跳んでたら枝が折れて落下しただけだ。それであの防具つけたまま上がるのは無理だったから脱いで、こんな格好になっちまってる」

「道理で少し前から湖の表面にぶくぶくと泡が出てきてたのね」

「気づいてたなら確認して助けてくれよ」

「嫌よ、下手に藪をつついたら蛇が出てくるかもしれないじゃない」


確かにその可能性は無くは無いかもしれないが、お前が多少の事で怖がるタマかよと言ってやりたい所。だが、ここでそんな事を言ってしまえば仕返しが来るのは分かっているので言わない。


「それに、あんな重い防具で枝を足場にしたら折れるなんて馬鹿でも分かる事じゃ―――あ…(察し)」

「おい、今の「あ…」ってなんだ。「あ…」って。まるで馬鹿を見るような目でこっちを見るんじゃない」

「見るような目じゃなくて馬鹿を見てる目なんだよ」

「うっさいわ、ちょっと舞い上がってただけだよ。そんな当たり前な事がすっぽりと頭から抜け落ちちまってただけだ」

「抜け落ちてたのは頭のネジだろうに」

「お前は一言も二言も多いな」


俺が軽く睨んで彼女を見るが当の本人はまったく気にせず手元の資料を見ている。


「それに舞い上がってたって、ロットンウルフを倒した事に?」

「まさか違ぇよ、今更こんなデケェだけの犬倒したくれぇで喜びはしねぇよ」

「犬って……」


俺の発言に若干引く彼女。

確かにAランクに分類されているのに犬扱いは流石に可哀そうか。ならトナカイ位が良いかな。角生えてるし、愛嬌感じるし、犬より大きいし。きっとそっちの方がこの子も納得するだろう、死んでるけど。

俺のさんな考えが通じたのか心なしか嬉しそうな眼を……駄目だ、濁りきった死んだ魚の様な眼をしている。


「本題に戻すけど、このロットンウルフの死体を見る限り依頼主は喜ぶでしょ。討伐目的だけだったら引く手数多だけど、死体をなるべく原型に留めて綺麗な状態で倒してもらうとなると途端に頼める人数が限られてくるからね、この討伐依頼は」

「そんなに難易度高いか、こいつ」 


そう言いながら頭をペシッと叩く。

しまった、叩いた拍子に濁りきった死んだ魚の様な眼がボロッと落ちてしまった。

不幸中の幸いか死体をチェックする彼女は手元の資料に何かを書き込んでいる途中のため気づいていない。気づかれる前に何とかしてこの目玉を元に戻そう。


「確かに討伐としてならAランクとしてまずまずの難易度だけど、死体を原型に留めると話が変わるわ。普通ならパーティーを組んで前衛後衛を作り、前衛が攻撃を防ぎ後衛の魔法で倒す。これがロットンウルフを倒す定石。しかし、こうなると殆どが焼死体やら傷だらけの死体になるの。見たところこの死体の損傷部分は頭部と両手に脊髄のみ。完全に原型を留めている訳では無いけど、そこらのギルドの人間にが持ってくる死体よりは断然マシと言っていいわ」


その断然マシと言われた死体から飛び出てしまった目玉。

先程から眼の穴に入れ直すのだが、またすぐにポロッと落ちてしまう。どうしたものかと試行錯誤で色々と試してみる。それまで此方に視線が来ない様に何気なく会話を続ける。


「こんな奴に大人数で行く必要あんのかよ」

「アンタと一般人を一緒にするんじゃないよ。ギルドがロットンウルフ討伐で推奨しているパーティー人数は4名、前衛2人、後衛2人。減らしたとしても後衛だけで、前衛は基本2人以上。それを前衛一人だけで討伐って普通じゃないの。さっき言った前衛2人は壁役で攻撃は基本しないになってるのよ。それを守る楯も武器も持たない軽い防具の装備だけで倒すだなんて……」

「盾なんて邪魔なだけだろ。防御なんて腕とか足で受ければ―――」

「ロットンウルフ相手に普通の人間がそんな事したら、へし折れて吹き飛ばされて終わりよ」

「鍛え方が足りないんだよ、鍛え方が―――ぁ」


返答に気をとられ、目玉の周りの粘膜みたいなもので手が滑ってベチャッと地面へと落ちる。

何という事だ、目玉が軽く潰れてしまった。

これではもう元に戻して誤魔化す事はもう難しい。オロオロと慌てて周りを見渡すが、隠せそうな茂みはここから少し離れていて隠せそうに無い。


「どんな鍛え方したら、そんな頑丈な体が出来るんだか……。全身にオリハルコンでも埋め込んでるって言われても頷くレベルだよ」

「俺は人造人間か何かかよ―――オラッ!」


彼女が此方に視線を向けると分かった瞬間、ヤバイと思い手に持っていた目玉を俺が沈んでいた湖へと蹴り飛ばす。

蹴り飛ばす時に、グチョっと嫌な音をたてたがバレなければどうでもいいか。


「さっきからボソボソと何一人で言ってんのさ」

「え、いや、足元に蟲がくっ付いてたから取るのに大変だったんだよ」

「……アンタの足、何かの体液みたいなのが凄いんだけど?」

「きっと蹴った時に色々と飛び出したんだろ。まぁ大した事な―――うぉ、クサッ!」

「……あまり近寄るんじゃないよ」


ジト目を此方に向けながらサササッ!と素早く俺から離れる様に後ろへ下がる。

美人に向けられるジト目、存外に悪くない。何かクセになってしまいそうな感覚に陥ってしまいそうになったが、足元から臭う悪臭に目を覚まさせられる。

それにしても本当にクサいな。牛乳を拭いた布を長時間放置した時の臭いよりクサい。

俺が自分の足に引いていると、フリージアがある事に気づく。


「―――あれ?死体の眼が無くなってる……」

「え、元から無かったよ、そんな物」

「そうでしたか?……見間違えたかな」

「ロットンウルフは全体的に腐ってるからな。一つや二つ見落としていても仕方ねぇよ」

「また書類書き直さないと……まぁいいわ、無いものはしょうがないし」


良かった、ここでバレて叱られては折角の努力が無駄になってしまうところだった。平然を装いながらも心の中でホッと安堵する。

だが美人に説教されるという状況も悪くは無いと思えるので、少し残念ではある。


「無駄話はここまで。報酬は後日、ロットンウルフの死体の査定を終えてから渡すわ。面倒臭がらずにちゃんとギルドに来る様に。良いわね」

「もう別にいつでも良いっていうか無くてもいいよ、金に困ってる訳ではないし。この依頼を受けたのだって『フリージア』がやってくれって頼んできたからやっただけの暇つぶしだし」

「私に頼まれたから、ですか……」

「どうした、いきなり笑い出して」


口元に手をやり、頬を少し紅く染める『フリージア』。その表情は大人な女性である彼女からは滅多にお目にかかれない可愛らしいものだった。

だが、俺が指摘したらすぐに普段と同じクールな表情に戻ってしまった。


「……いえ、笑ってないわ」

「え、いやでもさっき確かに」

「笑ってない」

「いやでも」

「笑ってない」

「でも」

「叩くよ」

「えぇ~……」


紙の束を俺の頭に叩きつける為に上へ掲げながら眼をキッと吊り上げ睨んでくる。

後半はもう脅迫と言えるのではないかと思う程の凄みだった。まぁ行動は脅迫そのものだったが……。普通の女性なら脅すだけで実際やらないものだが、彼女の場合は容赦なく実行してくるから素直に引き下がるしかない。

そんな彼女は振り返り、書いてる紙を整えて歩き出す


「はやく帰るよ、まだ何か言ってくるならここに置いて行くからね」

「それはご勘弁を……いや、待て。そうなっても助けた彼女の家に泊まることが―――」

「その話、詳しく教えなさい」グイッ!


言葉を言い切る前に俺の目の前には、前を歩いていた彼女の顔がすぐ近くにあった。

彼女からほのかに香る甘い匂いが鼻孔をくすぐり、少しドキッとしてしまうが彼女の目を見ると直に冷めた。

怖い、怖いよ。その血走った眼は怖いよ。なんで何気ない一言でそこまで喰らいついてくるのさ。


この後、助けた『マルタ』との大体の話をし、あまりの怖さに死体の眼玉の件を口走ってしまい説教を喰らってしまった。最初は色々と楽しんでいたが、罰として防具を再び装着し湖の底からあがって来いと言われた時には震えが止まらなかった。

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