27 エミリー・テンプル・キュート③

次の日…朝6時。

私は桜乃森大学の研究室で目を開けます。


鍵を預かっていてよかった。

研究室からなら…イノさんの家まですぐです。





研究室を出てから10分ほど歩き、イノさんのマンションの下まで到着します。

昨日のうちに身を隠せる場所を見つけていた私は、まっすぐその場所に向かいます。


自転車置き場とロビーの間にある狭いベンチ。

ここなら誰がマンションにやってきても見える…

逆に私の姿は見えづらい。

最高のポジションです。



「…」



冷たい空気で…

心が落ち着きません…


まるで心臓だけが身体の中でふわふわ浮いているような。

そんな感じです。


けれど感覚は研ぎ澄まされています。

頭もよく回ってます。



「…」



気づけば…

張り込みを始めてからもう4時間が経過していました。


…藤田沙綾は現れません。

何時に来るのかはわからなかったので、さすがに不安になってきます。


昨日の件で、イノさんが少しでも今の状況に違和感を感じてくれていれば…

きっと藤田沙綾に対して何かしらの行動を起こしてくれるはず。


運が良ければ彼女が失ったモノを知るキッカケになる。

彼女から能力を取り除けるかもしれない。

私にはそんな考えもありました。


けどそれは、藤田沙綾が強硬手段にでなければの話。



『イノの視力を全部奪って…本当に私だけしか見えないようにしちゃうよ?』



あの人は追い詰められたら…絶対にやる。

数回会っただけの私でもそれがわかります。

私が出会った人の中で、一番危険なロストマンであることは間違いありません。


それにしても何時に来るんだろう…

もしかして…もうイノさんの家にいる…?

見逃した…?それとも私が来るより先に…


その時。



「…!」



マンションの入り口に向かってくる女の子が私の視界にはいります。

とっさに身をひそめた私は、その女の子をじっと見つめます。


ガーリーで可愛らしい服装。

おしゃれなバッグ。

右手にはスーパーの袋を持っています。

…藤田…沙綾。



「…イノさん…私に…勇気をください。」



私は小さくそう言って立ちあがります。

藤田沙綾はマンションのエントランスに入り、まっすぐエレベーターに向かいます。


私はすぐに階段に走ります。

藤田沙綾の乗ったエレベーターが動きだしたのを横目で確認しつつ、イノさんの部屋がある階へ上がります。


イノさんの部屋は2階。

階段でもそんなに遅れることはありません。



カンカンカン…



2階。

私は階段の手すりに身を隠して、上ってくるエレベーターを見ます。




コーン…



エレベーターから藤田沙綾が出てきます。

嬉しそうな顔をしてる…

彼女は真っ直ぐにイノさんの部屋の前までいき、チャイムを鳴らします。



ピンポーン



死角から出ないように場所を移動して…

藤田沙綾がイノさんの部屋に入ったことを確認します。



ガチャ…



「おじゃましまーす」


「あぁ。いらっしゃい。」


「ちょっと…朝からなんか暗いんですけど…」



バタン…



2人が中に入ったのを確認して、私もイノさんの部屋の前に行きます。

私は、ドアのポストのフタを開けて中身を確認します。



「…」



私が昨日帰り際に入れた紙は…

2つ折りでまだそこにありました。



「…イノさん…」



…ふう…。

勇気を出せ…勇気を出せ…


私がイノさんを助けるんだ。

私は…イノさんと藤田沙綾のいる部屋の中に忍びこみます。



カチャ…



「イノ、もう少し小さく切ってよ。玉ねぎ、火が通りにくいじゃん」


「このくらいの方が好きなんだよ。大きい方がいいだろ?カレーの具って。」



話し声が聞こえます。

イノさんの部屋が広くてよかった。

ドアを開ける音は聞こえていないようです。


どうやら2人はキッチンにいるみたい。

私は廊下を音を立てないようにゆっくりと進みます。


洗面所を横目に通り…

リビングに入って…ソファーの後ろへ…

私は2人を視界にとらえます。



「…ふう。」



2人は仲良く料理を作っています。

イノさん、いつも自分でご飯作ってるのかな…

にんじん…じゃがいも…たまねぎ…

カレ―か。


そうえば私、昨日から…何も食べてないや…

お腹すいたな。


イノさん…これが終わったら…一緒に…


鳴りそうなお腹をおさえながら2人を観察していると…

藤田沙綾がイノさんから離れます。



「…」



どうやらゴミを捨てようとゴミ箱を探しているみたいです。

…ゴミ箱…何か…嫌な予感が…



「…!」



そこで私は気づきます。

藤田沙綾の目が、ゴミ箱の中にある物をとらえました。


そしてゴミ箱からそれらを拾い上げます。

…昨日、私がイノさんと会話した…置手紙。



ドクン…

ドクン…



鼓動が…うるさい。

イノさんは気づいていません。

藤田沙綾はその紙を広げ、中身をじっと見ています。


昨日の…私達の会話がばれた…

私が、昨日ここに来たことがバレた…



「…」



藤田沙綾の表情が、明らかに変わりました。

彼女はそれをクシャクシャにして、手の平に隠します。



「あたしトイレ行ってくる…お鍋まかせても良い?」


「あぁ。」



!!??

まずいッ!

こっちへ来る!



「ねぇ…トイレどこ?」


「洗面所の横。」



私はすぐに廊下へ戻ります。

たしか洗面所に小さな物置きがあったはず…

私は音をたてないように…なおかつ急いで物置に入ります。



パタン…



扉を閉めると…



タッタッタッタッ…



足音が近づいてきます…ばれた…!?

私は、何かできないかと物置きの中を見渡します。



天上に…小さい扉がある…



物置きの中は駅のロッカー程度の小ささです。

その上にある扉なんて、扉ともいえないくらいの小ささです。


けれど私は無意識にその扉を押し開けていました。

天井裏だ…


ハシゴすらなかったので、物置に置いてあった段ボールを踏み台にして上へのぼります。

なんとか身体を滑り込ませ、扉を閉めます。



バンッ!



その時、真下で音がしました。

物置を勢いよく開ける音。

隙間から下を見ると、藤田沙綾の腕が見えます。



ドクン…

ドクン…



藤田沙綾は…

しばらく物置きの中をキョロキョロとします。



ガチャガチャガチャ…



天井裏のドアに気づきます…

どうやら取手を探しているようです。

私の鼓動は苦しいくらい鳴っています。



どうする…

どうする…

そうだ



私は扉の上に乗り、小さい声で言いました。



「『ここにいて』」



藤田沙綾ではありません。

私自身に…『イエロー・スナッグル』をかけるために。



ズゥンッ!!!



…!

私の体重が重くなります。

自分の細胞一つ一つが重くなって…

吐気がするぐらい…苦しい…

しかし絶対声は出しません。



ガチャガチャ…



この天井裏への扉は…押し戸です。

4倍近い体重になった私が上に乗っていれば、ピクリとも動きません。

力で無理矢理扉を押せば誰かいると思われてしまいますが、これなら…平気なはず…



ガチャガチャ…



お願い…行って…





「…」




音がやみました。

隙間から下をのぞくと…



パタン…



物置の扉がちょうど閉められるところでした。

その後もう一度扉の開く音がします。



カチャン



音が少し遠い…

物置きを開けた音ではなく、おそらくトイレに入った音…

昨日の私の痕跡を探しているのか…少し時間が空きます。

しばらくすると、もう一度扉を開ける音が聞こえて…



タッタッタッ



足音が遠のきます。



「『ごめんね』…わたし…」



私は自分の能力を解いて、音をたてないように下におります。

物置きを出て廊下を確認し、もう一度キッチンへ向かいます。

危なかった…まだドキドキしてる…


周囲を確認しつつ、私はもう一度2人の会話をのぞきます。



「…」



私が部屋をのぞくと…

イノさんの表情がさっきまでと違う事に気づきます。

あの表情…



「なぁ…沙綾。今日…よく一人でここまで来れたな」


「…え?」



その表情は…何度か見た事のある…

私の知っているイノさんの表情でした。


イノさんが…何かに大切なことに気づいた時の顔。

真実に近づいたときの…あの表情。



「…昨日言ったじゃん。何度も来たことあるからって。」


「…」


「ねぇ…イノ。…どうしたの?」


「…じゃあ…なんでお前…俺の部屋のトイレの場所知らないんだ?」



何度もこの家に来たことがあるのに…

トイレの場所も知らない彼女、藤田沙綾。


…気づいた…。

イノさんが…気づいた…

藤田沙綾が…イノさんにとって奇妙な存在であることに…

私とはまったく違う角度から、イノさんは答えに辿りついた。



「お前なのか…沙綾…」


「…イノ。」


「お前が…」


「イノ…私…」



昨日の会話で…

イノさんは自分が誰かに記憶を消されたと思ってる。

そしてその答えをイノさんは確かめようとしている。


「…」


けど…私にはわかってしまったんです。



ドクン…



今のイノさんにとって…

藤田沙綾は愛する彼女なんだ…

迷っている。

真実を知ることを…


藤田沙綾の表情も変わります。

普通ならここで「私じゃない」と否定する場面。

けれど彼女は…




「私は…ただイノに…愛して欲しかっただけなの…」




イノさんの問いに…

彼女はそう答えました。




「…沙綾」


「私が、イノを好きになった気持ちに…嘘は無い。本当に大好きなんだよ。」


「俺だって…沙綾を大切に思ってる…なのに…どうして。」




イノさんは…完全に気づいてます。

自分の記憶を奪った相手が…藤田沙綾であること。

なのに…なのに…



「イノ。好きな人と…ずっと一緒に居たいって思うのは当たり前じゃん…」



藤田沙綾の言葉が…イノさんを惑わします。

追い詰められているのは藤田沙綾なのに…

彼女はゆっくりとした口調で穏やかに語ります。



「好きな人に、愛して欲しいって思うのは…当たり前じゃん。私にはもう…イノしか見れないんだよ。」


「…」



まって…イノさん…

その人を…信じちゃダメ…


私は心の中でそうつぶやきました。

しかしその時。




ドクン…




冬の空気よりも冷たい…

嫌な寒気が走ります。





「イノはもう、私の事しか見えないんだよ…。」





藤田沙綾の身体が…光を帯びます。

ダストの光…

能力の発動光…



『イノの視力を全部奪って…本当に私だけしか見えないようにしちゃうよ?』



まさか…ッ!

待って!やめて!





「『そうでしょ?』」





「ダメェッ!!!!」



その言葉を止めようと、私は身を乗り出していました…

藤田沙綾…この人…本当にやった…


イノさんが…自分しか見えなくなるように…

イノさんの瞳から…本当に世界を奪った。










「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」



イノさんはその場に崩れ落ちます。

その目はどこを見ているのか…視点が定まっていません




「大丈夫よ…イノ…私はここにいる…」


「何も…ッ!何も見えないんだッ!沙綾…ッ!沙綾ッ!」


「大丈夫…大丈夫…私のことは見えるでしょ?」




目が見えなくなったイノさんは…

まるで暗闇に取り残された子供のように怯えています。

唯一見える藤田沙綾に…イノさんは飛びつくように抱きしめます。




「イノさんから離れてッ!」


「やっぱりいたのね…沖田さん。」


「なんてことしてくれたの!?イノさんを本当に…盲目にするなんてッ!!」


「盲目なんかじゃないッ!私だけを見えるようにしたのよッ!コソコソ隠れて…他の女と手紙のやりとりなんてさせないようにねッ!」




藤田沙綾の目は血走り…

あんなに可愛かった女の子は…

もうどこにもいませんでした。



「…さ…さあや…」


「なぁに?イノ…私はここよ…大丈夫…これから私があなたの面倒をみる。ご飯だってお風呂だってトイレだって…私がお世話する…。大丈夫…私はここにいる…」




私はそんな2人を見て…

気づけば…足元から崩れ落ちていました…


もう…手紙で何かを伝えることもできない…

それどころか…イノさんはもう…藤田沙綾しか…認識できない…


イノさんの世界から…

藤田沙綾以外の全てが…

…失われた。




そして…




「沙綾…あぁ…」


「…私はここよ…イノ。」


「ふじた…さあや…」


「なあに?イノ…」













「もらうよ…きみの『エミリー・テンプル・キュート』」





そして…

私の作戦が…成功したのです。






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