第9話 訪問
「ま、彼のことだから心配はないと思うけど……」
そう言いつつも、美崎絵里奈も心のうちでは丸1日連絡が繋がらない彼を心配していた。
所長とはこの事務所のオーナーだが、彼は表立った事が嫌いなので、部屋の名義も彼女の物だ。
表の仕事も裏の仕事も営業からスケジュール管理、接客、依頼の難易度にあわせて部下に指示を出すのも彼女。つまり、所長の仕事は全部彼女の仕事だった。
従業員は彼女とその妹の美崎憐、それから所長の三名。
所長とは、絵里奈と同い年の青年で、妹の憐とはいわゆる『友達以上恋人未満』の関係だ。
その三人がマンションの一角をわざわざ事務所にしてどんな仕事をしているのかと言うと、一言で表すとすれば探偵業をしていた。
だが、浮気調査や人探しよりも、彼女らには暴力関係の解決を求める依頼人が多く、この事務所に来る人間は探偵所の名前ではなく、別名の方が知名度は高かった。
人はこの事務所を『暴君の影(ヴァイオレンスシャドゥ)』と呼ぶ。
相手が誰であろうが頼んだ次の日には相手に恐怖をとり憑かせて解決すると評判で、その名は闇から闇へ、裏側の世界に鳴り響いていた。
だから、所長は裏の世界では恨まれている可能性は十分にあり、拉致、殺されてる可能性だってないとは限らない。
「電話も繋がってるのに、全然返事ないし~」
憐が携帯電話を見つめながら、不安を口にした。
こういう風に、感情を素直に出せる彼女を、所長は好きになったのかもしれない。
自分のように、自分の気持ちをうまく表に出せない不器用な女よりも……
美咲絵里奈は軽いため息をつきながら、そう思った。
「大丈夫よ。あの人、携帯は常にマナーモードにしてるから気がつかないだけかもしれないし。明日には連絡あるわよ」
そう明るく答えたが、絵里奈の気持ちも晴れなかった。
『ついていない日は何をしても一日中うまくいかない』という迷信(ジンクス)を彼女は信じていた。
これは所長の口癖でもあったから。
ピンポーン
ふいに、そのジンクスの始まりを告げるかのように、玄関からチャイム音が鳴った。
「あ、ダーリンかな」
「あの人だったらチャイム鳴らさないでしょ」
そう言って、はしゃぐ妹の脇を通り、少し警戒した心もちで受話器をとる。
今日は依頼者が来る予定はない。
「……はい、どちらさまでしょう?」
(あ、絵里奈ちゃん、、木下だよ)
その声を聞いた途端、絵里奈は受話器を戻しそうになった。
できれば会いたくない知人をあげろと言われたら、絵里奈は彼の名前をあげるだろう。
木下とは、所長の中学時代からの腐れ縁、つまりは友人と呼べる間柄だった。
所長を通じて絵里奈も何度か顔をあわせ、話をする知人から、食事を誘われる友人へ進展していき、一時は恋人と呼ばれるような関係になる。
だが、付き合う前は積極的に木下は自分からアプローチをしてきたのに、いざつきあうといなったら急に、まるで飽きたかのような態度をとるようになった。
そんな彼に激怒して一週間で別れてしまった。キスもしていない。
いま思えば、所長に対してのあてつけだったのかもしれない。
いずれにせよ、絵里奈にとって木下は昔の自分を思い出すきっかけなので、できれば顔も見たくなかった。
木下と別れた事を所長に告げると、もう二度と彼をここに呼ぶことはなくなり、しばらくは顔を見ていなかったのだが。
「所長は本日不在ですので、雨の中お越しいただいたのに恐縮ですが、どうぞお引取りください」
(ああ、違うよ。今日は依頼で来たんだ)
「依頼?」
絵里奈が、意外そうな声で聞き返した。
確かに、木下という男は依頼などの用事でもなければ自分から雨の日にぶらっと来宅するような自発的な人間ではない。所長と約束もしていないのだからなおさらだ。
(そうなんだ。とりあえず話を聞いてよ)
「……わかりました」
それだけ答えると、絵里奈は受話器を置き、振り返りもせずに憐にお客が来たから案内するように伝えた。
「は~い。木下さんでしょ」
憐ががばっと、顔を起こして、ネットを観ていたノート型パソコンも閉じずにとててっ、と玄関に小走りで向かった。
「いらっしゃ~い」
がちゃっ、と鍵をあけて、ドアを開くと黒っぽい傘を持っている木下が立っていた。
雨の勢いがかなり強かったのか、木下の肩と足元は一目でわかるほど濡れていた。
「こんにちわ。あいかわらず元気だね」
「看板娘ですから、なんて。でも、今はちょっと元気なかったんだ」
「へぇ、なんで?」
ドアを開いて玄関に足を入れた木下がちょっと驚いたような表情で聞いた。
「それがね、昨日からダーリンと連絡が……」
「憐、早く入ってもらいなさい。タオルも忘れないようにね」
「あ、いけない。どうぞ」
靴入れの中に入っているタオルを憐は一枚とりだし、木下に渡すと部屋に招き入れる。
「スリッパは好きなのどーぞー」
「ありがとう」
笑顔で答え、案内された部屋に入るとそこには絵里奈が立っていた。
「雨の中、ようこそいらっしゃいました。どうぞお座りください」
眼鏡をかけた知的美女、絵里奈が客間の中心に置いてあるソファーの横で営業スマイルを浮かべながら、まるで木下の事を初めて来る客のように、頭を下げて営業挨拶をする。
しかし、その眼だけは笑っていなかった。
「…………」
木下は彼女がかもしだす、絶対零度のような雰囲気に圧倒され、一瞬後ずさる。
「どうぞ、お座りください」
座れ、と繰り返す。有無を言わさない口調に、木下はさらに萎縮してしまった。
ただならぬ雰囲気だったが、話をしないで帰るわけにもいかず、どうしたものかと悩んでいると、後ろから燐が小声で背中を押す。
「どうしたの?お姉ちゃん、すごい怒ってるよ。こういう時は逆らわず、言う通りにしたほうがいいよ」
とどめを刺された木下は、あわててソファーに座った。
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