八月十五日-②

「やっと終わった……」

 縮こまっていた上半身を反らすように、両腕を大きく突き上げて伸びをした。ノートパソコンの電源が落ちたことを確認し、ゆっくりと蓋を閉じる。これで、ようやく一段落ついた。

 一人きりの昼食を終えたばかりの昼下がり。紫は、大学の課題をこなすべく、自室にこもっていた。

 大学の講義は基本的に半期ごとの履修となっているのだが、中には通年のものもある。紫が履修している通年の講義には、いわゆる〝夏休みの宿題〟なるものが存在し、今朝からせっせとこれに取り組んでいたのだ。

 大学の課題といえば、主にレポート。『○○についてどう感じるか』や『○○するためにはどうすれば良いと考えるか』など、とにかく自分の意見について問われる。問われまくる。

 あまり自分の意見を表明することが得意ではない紫にとって、レポート作成はなかなかに苦痛であった。兄の助言もあって、なんとか形にできるまでには至ったけれど、いまひとつ説得力には欠けるだろう。

 大学に入学してたった四ヶ月。当然といえば当然かもしれないが、まだまだできないことのほうが圧倒的に多い。

「……何か飲んでこよ」

 休憩がてら喉を潤そうと、紫は台所へと向かうことにした。時刻は午後二時十三分。パソコンの隣に置いておいたスマホで現在時刻を確認し、おもむろに立ち上がる。

 自室から見た外の景色は、眼が灼けそうなほどギラギラしていた。軽い気持ちで、今度はエアコンのリモコンで外気温を確認したりしてみる。

 ——三十六度。

 直後、見るんじゃなかったと盛大に肩を落とした。この数字だけで、体感温度がぐんと上がったような気がする。

 廊下では、案の定熱の塊に襲われた。息苦しさすら覚える空気の中、涼を求めて台所を目指す。窓越しに見えた庭の石畳は、放射される熱で歪んでいた。

 日中のこの暑さは、いったいいつまで続くのだろうか。〝暑さ寒さも彼岸まで〟という慣用句のとおり、やはり九月の下旬ごろまで続くのだろうか。

 早く過ごしやすい季節になってほしい……などと小さく願いながら、辿り着いた先で冷蔵庫の扉を開けた。放出された冷気に、生き返る心地だ。

 麦茶、烏龍茶、ミネラルウォーター、それからスポーツドリンク。

 いつもなら、たいてい麦茶を選ぶのだが、長時間頭を使ったせいだろうか。今は、体が甘いものを欲している。ゆえに、紫は迷わずスポーツドリンクに手を伸ばした。

 五百ミリリットルのペットボトル。某大手企業から販売されている〝みずがめ座〟を意味するお馴染のスポーツドリンクである。

 キャップを捻って開栓し、ごくごくと喉を鳴らす。体は本当に正直だ。自身が自覚しているよりもずっと、水分と糖分を欲していたらしい。とりあえず半分を飲み干したところで、いったん食卓の上へと置いた。

 窓の外の陽光が、飲みかけのペットボトルに集まる。透明の容器と半透明の液体が、まるでビードロの海のように涼しげに煌めいた。

 このスポーツドリンクは、昨日の夕方、響に渡したものと同じものだ。

 あのあと、彼はすぐに寺をあとにした。『小父おじさんによろしくね』と、改めて法要を執り行った父への謝意を示し、足早に帰っていった。聞けば、まだ後片づけが残っているとのこと。よって、自宅マンションではなく、祖父母宅へと戻る彼の姿を見送った。

 夕日に照らされた背中は、心なしか、清爽としていた。

「……」

 そっと、自身の左頬に手を当てる。彼の手の感触と熱が、じわじわと蘇ってきた。

 家族以外の、それも男性に触れられた経験など、紫にはほとんどない。それも、顔を。あんなこと、彼が初めてだった。

 外国で生活しているから、イギリス人だから、あれくらい、なんてことないただのスキンシップなのだろうか。

 思い返せば返すほど上昇してきた体温。しだいに頬が赤く染まっていくのを感じながら、無言で一人狼狽えた。だが、けっして抵抗感を抱いたわけではない。悪い気は、まったくしなかった。

 高まる熱を冷ますため、さらにドリンクを仰ぐ。彼に触れられた事実と合わせて、紫には、もう一つ驚くべきことがあった。

 それは、彼に対してとった、自分自身の言動。


 ——家族だから!!


 まさか、あんなにも彼に——他人に、声を荒げて強く迫るなどとは思ってもみなかった。

 彼と母親との関係は、おそらく自身が想像するよりもはるかに複雑でデリケートだ。けれど、言ったことは本心だし、二人が話し合える日はきっとやってくると、そう信じている。たとえ何年離れていようとも、血の繋がりがなくなるわけでもなければ、〝家族〟という関係が変わるわけでもないのだから。

 互いに、生きているのだから——。

 台所での用事を済ませ、自室までのルートを逆戻りする。レポートを作成し終えた今、とくにすることもないが、再度勉強机に腰掛けた。

 向かって右側にある三段チェスト。その一番上の引き出しに、紫はそっと手を掛けた。ゆっくりと引き出し、視線を落とし込む。中から取り出したのは、A4サイズのファイルだった。

 そこに綴じられていたのは、語学留学に関する書類。

 紫が最近……否、大学に入学する以前からずっと、密かに関心を寄せていた事柄である。

 紫が今の大学への進学を希望したのは、言わずもがな、英語を勉強するためだ。看板学部である外国語学部、中でも英語学科はとりわけ競争率が高い。ハイレベルな環境に身を置くことで、少しでも夢を実現できる可能性を高めたかったのだ。

 その一つのプロセスとして視野に入れていたのが、留学である。

 書類には、留学に関する留意事項や、提携校の一覧などが詳細に記されてあった。並んでいる文言をじっと見つめていると、現実に留学が、それも簡単にできるような、そんな錯覚に陥ってしまう。

 留学をしなくても、夢を叶えることはできるかもしれない。通訳者に、翻訳家に、なれるかもしれない。しかし、留学という経験を経ることができれば、外の世界に触れることができれば、今よりずっと、夢までの距離が近くなるのではないかと考えた。

 家族に相談したことは、一度としてないけれど。

「……」

 留学にかかる費用が少なくないことは、人生経験の乏しい紫にだってわかっている。内向的な自身の性格が、枷となるかもしれないことも。

 留学したいと家族に伝え、拒否されるのならばそれでいい。ある意味納得ができる。

 でももし、快く了承してくれたら。了承してくれたことで、家族に何か痛みが伴うのだとしたら。

 そんなのは、絶対に嫌だ。

「……っ」

 今、自分は幸せだ。十分過ぎるくらい、幸せだ。これ以上の幸せを、望むことなんてできはしない。

「……お父さん」

 もしも父が生きていたら。

「……お母さん」

 もしも母が生きていたら。

 今のこんな自分の姿は、どんなふうに映るだろうか。


 明日は、八月十六日。紫紺の空に、大輪の花が咲く。

 五度目の〝夏〟が、めぐってくる——。

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