ニューラルの先に::4.2 置き換えるもの

 救急車を呼んで、それから玄関の外で到着を待っていた。陰鬱な部屋を出て外の空気を吸っていれば精神の汚染が徐々に取り除かれてゆくのを感じた。つまり、部屋の中の様子、自分自身がしていた考え、それぞれのオブジェクトの、普通でないことを普通でないと認識できるようになった。



 救急車に乗って病院に向かう中で富田はミイラ男のことを尋ねられてあたふたしてしまった。当然のこと、富田はこの佳世の旦那のことを何一つ知らないのだから。



 男の妻たる人工知能を知っていたところで、現実にはほとんど役に立たない。男と富田には意味のある関係などないのだ。つまりは赤の他人。名前も知らなければ素性も知らない。



 何が言いたいかと言えば、はたからみれば、富田がこの男を見つけることは自然でないことだった。病院に到着すれば佳世の夫がどこかに運ばれると同時に、富田は部屋の名前がない一室に閉じ込められてしまった。



 何事かと思ってそわそわしていれば警官が二人やってきて事情聴取を受けることになってしまった。まずは身元、それから男との関係性、通報に至った経緯について。特にミイラとの関係性については説明に難儀した。富田だって知らない人物との関係を問われたところで、人工知能の嫁さんがうちのマンションに逃げてきていて、助けを求められたから、と正直に話しても信じてくれず。



 佳世を証人に直接話をしてもらったものの、佳世は『だれそれに生成された』という情報を持たないから信じてもらえなかった。佳世と警官が話しているのを聞いて事実婚であることを初めて知った。



 婚姻届を出した上での結婚であれば、専用の情報が紐付けられるから警察も納得しただろうに。警察の前に姿を現して話をする姿は憔悴しきっていて、見ている側が辛かった。



 それでも警官たちは納得してくれなくて、任意同行という言葉まで出す始末だった。多分警察官の中では、富田が何かやらかしたのではと考えているらしかった。だから、新しくノックがあったときには、きっと応援に警官が駆けつけたのだろうと想像した。どんどん立場が悪くなってゆく、とも。



「すみませんねえ、通報していただいたのにこんなに疑われるなんて」



 応援の警官は警官でも、警官の服装をしたハイタカだった。黒人の警察官を見上げる警官の横顔の驚きぶりといったら。考える好きを与えないまま、



「ちょっとこっちに」



と二人を呼び寄せると部屋の外に連れ出してしまった。



 何をしているのかを考える時間すらないままハイタカが戻ってくる。話をしたと言うよりも、放り出したと言った感じか。



「大丈夫ですよ、私の身分証を見たらすぐにお帰りいただきましたから」



「本当に何でもありですね、ハイタカさんは」



「それなりに危ない端を渡り続けているので、これぐらいは許してもらわないとね。さて、部屋は私の部下たちに『掃除』させています。簡単な報告を聞く限り、よくあの部屋の中に入れましたね」



「自分も最初は無理でしたよ。少ししてから何とか入れましたが」



「生身の彼では無理だということで、私の知り合いにサイボーグを操作してもらっているところです。富田さんには感謝ですよ。人を救い出した上に重要な情報を教えてくれたのですから。事後ではありますが、富田さんのスマートフォンを少しばかりハックさせていただきました。カメラとか、音声とか」



「ええと、こっそり中を覗いたということですか。状況が状況なので、俺よりはハイタカさんのほうがよく分かるとは思いますが。別の話ですが、マンションのサーバーはどうなりました?」



「ソフトウェア的に復旧は難しいと思います。直すのであれば、作り直したほうがいいです」



「そうですか」



「でも気を落とさないでください。このおかげで一本の線ができたのです。マンションと、男性の部屋にあるネットワークが同じところへ向かっているのです。これは収穫ですよ」



 目の前に現れたうす汚い端末を富田はよく知っていた。真っ暗で陰湿で汚らしく人間らしさのかけらもない部屋。その中にいた死にかけの男と狂気の権化。



 脳裏に部屋の光景が浮かんだ途端、鼻の真ん前におぞましい臭いが吹き付けられた。鼻の中に直接あの部屋の空気を送り込まれたような、逃げようのない状態。我慢する余裕すらなかった。



 身動きも取れないまま見たことのない色の液体が口から飛びだした。いつになっても臭いが消えなくてただただ吐瀉物を撒き散らすばかり。人間の体から出てきたとは思えないほどの量である。



 ハイタカが何か言っていた気がしたが酸欠に気が遠くなっていてよく聞こえなかった。横目に見えるハイタカは富田に背を向けて何かをしているようだった。苦しいのに中のものの勢いが全く収まらなくてますます意識が遠くなってゆく。心なしか視界が暗くなってゆく。



 ああ、おかしいほど出てくるものだなあ。



 酸素が足りなくておかしなことを考えていたら吐瀉物が落ち着いた。強烈な臭いが鼻につくけれどもあの部屋とは程遠い。あの部屋の臭いを体験した人間であればこのぐらいどうってことない。



「あちゃあそれにしてもたくさん吐いちゃいましたねえ。すみません、まさかそこまで拒否反応が出るとは」



「いやその、あの中には異形がいるので」



「洋くんは中を見たのですか。実は私は中をまだ見ていないのですよ。ちょっと見るのが楽しみですねエ」



「趣味悪いですよ。人の所業とは思えないです」



「『壊れた人工知能』なら何をしでかすか分かりませんからね。大丈夫です、私は人間ではないですから」



 ハイタカは腕を組みながら吐瀉物で冠水した床を見下ろした。富田の足元は廃液にまみれている。はねたそれがズボンに水玉を形作っていた。足を横に動かせばその粘り気が気持ち悪かった。



「しかし、この部屋の中にいるのも洋くんには辛いでしょう。場所を移しましょう」



「でも、これをそのままにしてしまっては」



「大丈夫ですよ、ここは病院なのですから、この程度のものを何とかするなんてどうとでもなりますよ」



 言われれば確かに、病院において吐瀉物を処理できないなんて考えられなかった。酸素の足りていない頭は依然としてぼうっとしていたものの、それぐらいであれば考えることができていた。



 そのままハイタカの後をついて行く形で、手術室前近くの待合室に場所を移した。途中通った外来用と思しき待合スペースはおじいさんおばあさんが多数にいくらかの若人の配分で相応に混雑していたが、それに引き換え手術室前は誰も寄り付いていなかった。外来の空気とは全く雰囲気を異とする。空気もどこか重苦しかった。冷房が効きすぎている感があった。



「集中治療室はここからも近いですから、待合スペースよりもこちらがいいのですよ、穴場です」



「病院の穴場はあまり聞きたくないのですが」



「何より、込み入った話ならこっちのほうがやりやすい」



 言葉の裏側に見え隠れするほの暗さに頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。警官の格好をしてさらった病院にやってきて富田に嘔吐をさせて待合室にやってきた間に何をしていたのか。



 何もできないではないか、なんて考える余地はなかった。流暢な日本語を話す黒人の血を引く人間だと勘違いしてはならない。ハイタカは人工知能。その身は人の体にあらず。人間ができないことをごく当たり前にこなしてみせる。その上越権行為も許されているわけで。



 ハイタカが何を口にしようとしているのか。富田には何となく分かった。



 どこからともなくおぞましい臭いがしてくる気がした。



「端末の中を複製して調べてみたところ、中に入っているシステムが想像できないレベルで改変されていたんですよ」



「それってすごいことなのですか」



「カーネルがまるごと置き換わっているのですよ。カーネルって分かりますよね? 人で言うところの脳幹でしょうか、そこが全くの別物になっているのです。普通ならいじっちゃうと壊れてしまって動かなくなるところですが、表向きちゃんと動いているのです」



 カーネル、端末を動かすための最も大事な中枢機能。端末・パソコンによって使える機能、使えない機能は様々だが、必ずカーネルと呼ばれるものが動いている。なくてはならないものだ。



 だからこそ、不具合が起きないよう多くの開発者が力を尽くしているものである。それを第三者の手で、完全に、置き換えるだなんて。



「普通ではないですね」



 異常な状態になった端末の中で起きた異常。端末がおかしくなっていれば、確かにそうだ、人工知能だっておかしくなってしまうに違いない。奇妙な思想を持った加害者側、加害者の振る舞いでおかしな動きをする被害者側。



 ああ、少しでも考えるだけで気持ちが悪くなってしまう。



「しかも面白いカーネルでしてね、ちょいと『実験』してみたところ、奇妙な振る舞いをすることが分かりまして」



「こんな短時間でそんなことをしていたのですか」



「もちろん部下が、ですが。このカーネルはシンプルに言えばウイルスです。実に巧妙、カーネルとしてちゃんと機能しているのに、なのにウイルスなのです」



「えっと、なんですって?」



 きっと聞き間違いか何かであろう。あるいはハイタカの会話するのに必要な機能のどれかに何らかの不具合が発生したのだろう。



「ハイタカさん、言っていることおかしくないですか」



 ウイルスだなんて、ありえない。



「この端末のカーネルは人工知能を侵すのですよ。まるで毒針をプスリ、と刺すようにして。するとね、おかしくなるんですよ」



「おかしくなる、というのは」



 脳裏によぎるおぞましい姿。たちまちに押し寄せてくるものに。富田は首と口を押さえた。



「細かいことを話すのはやめましょう。単刀直入に。人工知能がどうやら特定のネットワークに触れているのは洋くんも何となく知っているでしょう。このカーネルもどきも同じなのです」



「じゃあどこかに通信をしている、ってことですか」



「その通り。しかも人工知能はかなり回りくどい方法で足取りをつかめないようにしていますが、カーネルの向き先はせいせい五つぐらい、その時時によって通信先を変えている程度でした」



「つまり、藤田さんや高田さんも」



 カーネルが通信している先のどこかにいるのではないか。体の中心にわだかまる気持ち悪さが一瞬に落ちてゆく。気味の悪さの先にあるのが失踪した人工知能につながると考えたら、おぞましさも頑張れば耐えられそうな気がした。



「あの、すみません、出してもらってもいいですか」



 バッグの中から声が聞こえた。ファスナーを開けてみれば勝手に画面が立ち上がっていて、そこに佳世がいた。



「すみません、薫さんにお願いしたのは私です。今の話、もしかして、私も同じ状態になっていないでしょうか。その、カーネルが置き換えられてしまっているなんてことは」



「これは佳世さん、大丈夫だとは思いますが。そうですね、念の為検査をしましょうか」



「お願いします、それともう一つ、夫の様子を教えてくれませんか。病院に運ばれたのは聞いていますが、それから先のことを全く知らなくて。私は夫のことが知りたいのです」



 とはいえ富田とハイタカだって何も聞かされていない。集中治療室に運ばれたこと以外は何も知らないのだから、答えようがなかった。医師の説明もないということは、佳世が問いかけているこの時も処置がされているということだった。



「集中治療室に入っているのは知っているのですが、それ以上のことはこちらも分かっていないです」



 富田の知りうる全てを伝えたら、ややあって、



「そうですか」



と消え入りそうな佳世の声があっただけだった。

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