4. デイワン

ニューラルの先に::4.1 リアル

 マンションに対する攻撃を聞いて、佳世が『分裂してしまった』きっかけたる事件を思い出してしまったという。今まで心配になっていなかったといえば嘘であるが、攻撃があったことで夫にも何か危険な事態が迫っているのではないかと考えたとのことだった。



 夫というのはサーバーの世界の存在ではないらしい。AIではなく、現実に存在する男だという。当然ながら富田との面識はない。頼むから様子を見て欲しいと言って教えられた住所も最寄り駅も、富田の人生の中で訪れたことがなかった。



 改札を抜けてロータリーに出てみれば、時間帯のせいだろう、人もまばらだった。タクシープールに車が停まっている姿もなかった。ベッドタウンの駅、といった雰囲気か。



 佳世から教えられた住所とGPS座標をマップアプリで検索してみれば、駅から数分のアパートらしき建物だった。大通りから何本か入った裏通りにマークが記されていて、アプリで見る分には過ごしやすそうな場所だった。



 スマートフォンの画面を眺めながらただ立っているだけなら多少温かいぐらいであるが、歩き始めると背中が汗ばむのを感じる、そんな日和だった。途中でコンビニにでも寄ろうかと考えていたものの、目的地に辿り着くまでにあるのはスーパーマーケットだけだった。とにかく戸建てとマンション、アパート。



 部屋は二階、角部屋だった。豆腐に扉と階段とベランダを付けたような、どこにでもありがちなアパートだった。特に注目することのないアパート、ここに佳世が住んでいた場所だという。人工知能はサーバーや端末の中をすみかにする、というイメージからはかけ離れていた。アパートの一室の中にある端末が本当のすみかなのだろうが、それでも佳世はこのアパートを家と言った。



 富田に佳世がお願いしてきたときも、後半は泣きじゃくっていた。彼女の言葉尻は、このアパートが自身の家だと言っているようなものだった。



 甲高い音を聞きながら階段を登り、突き当りまで。



 扉を前にしてようやく、嫁から鍵を受け取っていないことに気がついてため息が出た。鍵がなくてどうしてお宅に上がれようか。中に入れないのであれば来たところで佳世からの頼みごとを成し遂げることなんてできない。当たり前ではないか。



 しかしドアノブをひねれば、すんなりと戸が開くのである。佳世がこのことを見越していたかどうかと考える余裕はしかしなかった。はじめはとにかくびっくりして、ただただびっくりして、扉から離れることしかできなかった。何も考えられなくて、どうして開けたはずの扉が閉じているのか思い出せなかった。



 感情が追いつかない。そもそも驚いている意味も不明だった。



 ただの扉のはずなのに、異様に怖い。異常な恐怖感はどこから来ているのだ。



 訳が分からない。でも、佳世からの頼みごとは、この先にある。



 富田は恐怖の中に飛び込むしかなかった。ノブに伸ばした手がわなわなと震える。ヘッドセットを持った時以来だ。



 抵抗なく扉が開く。



 !



 富田は再びドアから飛び退いた。背後の手すりに背中をしたたか打ち付けた。背中をバットで殴られたかのような痛みの中でも痛むところを擦ることもできず、佳世の家に釘付けとなっていた。



 中は暗くてよく見えない。それは一旦棚に上げて。



 異様なほどの臭気が迫ってきた。臭いなんて言葉で言い表せるものではない、存在そのものが邪悪、瘴気というほかなかった。いろんな生ゴミ、野菜の皮から生肉までを下水に混ぜて数日炎天下に置いたような、とにかく強烈というほかない。



 まだ玄関にたどり着いていないというのに、すでにひどく気持ちが悪い。



 中に入れば死ぬ。臭いで死ぬ。隣人から通報がないのが信じられなかった。



 だからといって逃げ出してしまえば佳世からの頼みごとが達成できなくなってしまう。彼女を受け入れた家主として、事件に巻き込まれた一人として、彼女が苦しんでいるのであれば手を差し伸べたい。



 十分以上その場に立って異臭が外に漏れ出るのを待っていた。部屋の瘴気の濃度を下げて、それから中に入ろうという魂胆だった。けれども一向に臭いが収まる気配はなかった。ところが、なんだか慣れた『気』がしてきた。富田の鼻は壊れてしまったのか、逃げ出したくなる臭いは強烈にもかかわらず、だ。



 臭いものは臭い、でも我慢できるかもしれない。瘴気が濃い中を突撃しようと思い立ったわけである。



 玄関。



 調理場のスペース。



 その先は部屋。のはずだった。



 コンビニの袋、ではなさそうだった。暗がりに慣れた目では何とか袋のロゴを確かめることができた。多分、食事を配達してくれるサービスのそれのように思えた。それが無造作に、部屋中に、大量に。積み重ねられている。



 部屋の中央部には瘴気の元凶たる無数の袋がない代わりに、異形がモニターの光りに照らされていた。ついさっき食べたのだろうか、ビニール袋を下敷きに弁当用らしきトレーと汚れた割り箸があった。隣のノートパソコンと、その光に照らされる存在は歴史の授業で見たような姿だった。



 戦後間もない白黒写真。キャプションには、『終戦後の飢餓に苦しむ国民』といったところか。



 皮と骨だけ、目は異様に大きく見える。



 男は微動だにせず、ひたすらモニターを見続けていた。胸や腹がかすかに動いていなければ彫像かミイラかと思えるほどだった。少なくとも、命の灯火はついているらしかった。



「佳世さんの旦那さん、ですか?」



 まるで聞こえていなかった。



「旦那さん、聞こえていますか?」



 佳世から夫の名前を聞いてくればよかった。呼びかけるレパートリーがなかった。仮に佳世から聞いてきたワードを使えば反応するかもしれなかった。



「聞こえますか、旦那さん、佳世さんから頼まれて」



 言葉を遮るスピーカーの音を聞いたのと、生気のない男の方に手をかけたのは同時だった。聞いたことのある声色が流れてきて、しかも知っている調子とは全く異なるのだ。



「はいとしくウん、今日も元気かしらア?」



 呼びかける声は、どうしてだろう、黒板を爪で引っ掻かいた音の不快感に近かった。それだけで不快な音、背中をかきむしりたくなるような気味の悪さ。注意を引くという点では悪い意味で成功している。



 注意を引くための炎上的手法である。



 富田はその言葉に焚きつけられてノートパソコンのモニターを見て、その異常さに目を見張った。



 まず、端末として普通は存在しているタスクバーなどの部品が表示されていなかった。真っ白な空間に二人の人物が配置されていた。一人はいかにも、な風貌の女で、もう一方は頭に麻袋を被せられた裸の女。



 見るからに異常な光景。



 目の前の男は方に手を添えた瞬間にぐらり崩れて倒れてしまっている。支えである骨がなくなってしまったかのような倒れ方だった。



 見るからに異常な光景。



「あれエとしくんどうしちゃったの? ちゃんと見てくれないと困っちゃうよ。まあいいや、ほら、この女、乳首のあたりがあの女と似ているでしょ? だからね、こうしてあげる」



 モニターの中で、ボンテージが麻袋の胸に触れれば乳房全体が巨大な湿疹で覆われたようになって、代わりに乳首がなくなるのだ。かと思えばそれぞれのボツボツの上に乳首出しい突起が生まれてゆく。



 麻袋の中から異様な悲鳴が噴き出してくる。極めて動物的な声だった。しっくりくる言葉が見当たらないほど。言うなれば人ならざる音だった。



 音は激しさを増し、ますます麻袋の女が異形になってゆく。本来の乳房を覆った乳房のようなできものは次第にその範囲を腹へ、腕へと広げてゆく。



 間もなくして全身がそれに覆われて、しかし悲鳴は終わらなかった。



「あの女の乳首だらけになったら気持ちだって冷めてしまうでしょう? もっと徹底的に、冷めさせてあげる」



 どこからともなくボンテージは上半身ほどの長さのナタを取り出した。さも当たり前かのように振り上げる。腕とナタとがまっすぐ上を指した瞬間、平然と振り下ろした。



 削ぎ落とされる無数のできもの。



 溢れ出る赤い何か。人工知能の体液。多分血液のたぐいではないが、気持ちの悪さだけばかりを印象づける。まるで人間の悪意をじっくりコトコト何日も煮込んだような悪質さだった。



 けたたましい雄叫びが、やがて勢いを失って、終には静かになる。代わりに聞こえてくるのは必死に熱を排しようとする端末のファンの回転音だった。AIの異常な行動は端末に相当の負担だったのか、ふとタッチパッドに触れてみれば異常なほど熱くなっていた。



「ああ、もう終わっちゃったのかしら。それにしてもとしくんだめだよ、ちゃんと見続ける約束だったでしょ? 今回は私気分がいいから見逃すけれども、次は、分かるよね?」



 黒革ボンテージの人工知能は鼻歌交じりに画面外へとはけてゆく。異形となった人工知能はモニターの真ん中で崩れ落ちてぴくりともしなかった。壊れてしまった、間違いない。ありえない干渉をされてどうしようもなくなってしまったのだ。



 いわば『死んでしまった』人工知能。現実には倒れた男、人工知能の夫。異様な臭気を忘れてしまうほどの雰囲気。佳世からの頼みごとを放って、目の前に死にかけの人間がいても何も感じない。異常な世界の真っ只中にいていろんな感覚が麻痺していた。



 ファンがうなった。スマートフォンのバイブが震えた。



 外からの生活騒音は聞こえない。



「もしもし薫だけど、ねえ、今どこにいるの? 佳世さんから話は聞いたけれど」



「多分、佳世さんの家。リアルな方の」



「それで何か分かった? 旦那さんを探してほしいって話しだったのだよね」



「部屋の中は弁当のゴミが山積みで人間やめたような臭いで一杯」



 話し始めるとなんだか悪臭が気になるようになってきた。



「どういうこと? 想像ができないのだけれど」



「ゴミの山に囲まれる形でミイラ寸前の男が人工知能のスプラッタショーを鑑賞していた。女王様風の人工知能が麻袋を被せられた人工知能をぐちゃぐちゃにして、一方で男は倒れて」



「倒れたって、それ、生きているの? 救急車は呼んだの?」



「まだ」



「洋までおかしくなっていない? 今すぐこの電話を切って救急車を呼んで。それから旦那さんを介抱して、こっちは私がやっておくから。いいね」

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