ニューラルの先に::3.4 デイ・ゼロ
一夜明ければ体にへばりついていた嫌な感覚はすっかりなくなっていた。一方で身の回りに起きた異変には戸惑いばかりが押し寄せてくる。
さあ何が起きたのかということだが、富田が店に出勤してくれば、知らない男がエプロンをして店の準備をしているではないか。富田しか持っていないはずのシャッターの鍵を開けた何者か。目が会った瞬間、
「おはようございます店長」
と爽やかな挨拶をしてくるのだ。どこかの飲食店で働いていたらイケメンとしてちやほやされそうな面立ち。客のいない店にいるような人物には見えなかった。
とは言え、異変らしい異変はそれだけだった。たったそれだけだったけれども、戸惑いの一波が超えたかと思えば再び気になり始めて、第二波、第三波、と襲い掛かってくるのである。ふと視線を上げれば店員がいる。自分自身の店であるにもかかわらず、奇妙な雰囲気に逃げ出したくなる。
そうだ、管理室に、行こう。いつもどおり、管理室へ向かって状況を薫から聞こう。店先でやるつもりだったことを全て見知らぬスタッフにされて、やることを失った富田ができることマンションの様子を確かめることだった。
けれどもヘッドセットを持てばたちまち体がこわばって言うことをきかなくなった。心臓がおかしくなって、目がおかしくなって、でも手放しさえすればすぐに症状が軽くなる。何回か繰り返したときにはヘッドセットを手放しても動悸が収まらなくなってしまった。本当に壊れてしまったかもしれないと思ったが、それでも数分間のちに症状が落ち着くのである。
富田の体が覚えてしまっている。どうして一体、VRヘッドセットと銃撃とを体が紐付けてしまったのだろうか。いや、体か? 体には何の問題もないはずだった。では心か? まさに今仮想現実に行こうと思い立っているではないか。どこの誰がどうやって、富田を仮想空間に行かせまいとしているのか。
開店時間になってもなおマンションに顔を出せずにいたから薫からモニターのところに出向いてきた。モニターの隅に顔をひょっこり出してこちらの様子をうかがってきて、目が合うなりすっと出てきた。
「ねえ、昨日は大丈夫だった? やっぱりまだだめなのかな、管理室に来なかったし」
「体は多分、大丈夫だと思うのだけど」
「随分曖昧な言い方だね」
「マンションの方に行こうとするのだけれど、心臓がドキドキしちゃって、他にもいろいろおかしくなって」
「撃たれたことを引きずられているに決まっている。トラウマってやつでしょう」
「でもアレってフラッシュバックがあるようなものでしょう。気持ち的には気になっているって感じがしないのだけれど」
「だって普通にVR付けられないんでしょ。十分トラウマだって。じき別の症状が出るに決まっている」
「まあ、マンションの方に行けないのは間違いないからなア。しばらくそっちに行けそうにないよ」
「今はVR断ちをして心身を休めることに徹したほうがいいよ。ほら、管理室と同じ機能が洋から見えるようにすればいいのだし、そこは私の腕の見せ所でしょ」
二の腕を叩いてみせる姿は頼もしい限りだった。勝手な行動を取ることが多い薫だけれども、ここぞというときに自由に動けるというのはありがたかった。
「でも、VRマンションの中に管理室を設ける形にしたのはセキュリティのためじゃなかったっけ。大事なデータが外に漏れるかもって。特に今は藤田さん、高田さんの件があるし」
「管理できないんじゃしょうがないでしょ。もちろん一時的な措置だよ。こっちに来られるようになったら塞ぐつもり。藤田さん高田さんの件は怖いけれど、でもなおさら管理はしっかりできるようにしないといけないし」
「分かった、任せるよ」
「うん、大事にね」
モニターを去ってゆく薫の姿を見ているとなんだか気持ちが落ち着いた。歩いている姿を見るだけで、任せておけば何とかなると思えた。自信がにじみ出ているのか、単に愛着があってそう感じているのか。多分両方だろう。腹を痛めて産んだわけではないが、感慨深いものがあった。
さて、と。
マンションを任せてしまった富田にはやることがない。できることと言えば目の前の違和感を眺めるばかりだった。狭い店内に並んだ棚の間を縫いながら商品を確認してゆく姿には呆れてしまう。彼は既に一ヶ月分の商品確認をしている。無論、富田にとっての、である。ひょっとして彼は暇になることを忘れるべく何周も店を回っているのではなかろうか。
そもそも彼は何者なのか。十中八九ハイタカの息がかかった人物なのだろうけれども、しかし、店主に何も連絡がないというのもそれはそれで不用意にしか思えない。あんな場所を使っているハイタカには人を紹介する時間がないのだろうか。
まあ、本人に聞けばよい。
「ところで、君はハイタカさんのところの?」
「はい、でも捜査官から聞いていませんか?」
「捜査か、ああ、はい、何も聞いていないんですよね」
「それは失礼しました。私は捜査官の下で捜査をしている者です。今は富田さんの身に危険が及ばないよう警備を任ぜられています。カモフラージュのため店員に扮していますが、お気になさらず。私のことは、そうですね、高橋とでも呼んでください」
「店員に扮装ですか。まあ大丈夫です、この店に人はほとんど来ないので。適当に暇をつぶしてください」
「私のことはお構いなく。この手のパーツを見るのは好きなので。あまり見ない部品も眠っていてなかなかですね。あ、何かあれば私もちゃんと店員できますから」
彼の言葉をまとめれば放っておいてよい、ということか。しかも店員のようにできるというところ、ますます富田にはやることがなくなってしまうというものである。マンションの様子を見に行くこともできなければ、店の面倒を見る必要もなく、そもそも誰も来ないわけで。
たっぷりある暇をどう処するかというハードルが頭をもたげるのだが大したことではなかった。暇をつぶす道具は大量に転がっている。スマートフォン、端末で何か見たり読んだりしてもよい。あまたあるパーツを使って見たこともない、動く保証もない端末を組み立ててもよい。
いくつもある選択肢を前にした富田はひとまず端末に向かった。ネットサーフィンでもして、ついでにいろいろ調べ物をしてみようという魂胆だった。気になることはいくつもあった。VRマンションで使っているプログラム、技術。ハイタカが口にしていた言葉。
不具合。脆弱性。
最初に検索する言葉は何にしようと思案しているところで、視界を遮るポップアップが現れた。瞬間、心臓が外圧で一気に潰された。
高田がメッセージを送ってきた画面だった。緊急時にだけしか使ってはいけないとしている、高田が数百のメッセージを送り続けた、あの画面。
富田は使っていない。
薫がこの経路を使うわけがない。
ハイタカはどこにいるか知らない。
藤田、高田? 連絡してくるとは思えない。
「すみません、富田さんと至急お話をしたいのですが」
冷静な調子で、高田がしてきたときのような切迫した雰囲気は一切感じられなかった。わざわざ緊急用の線を使わなくてもよさげな、もしかしたら使うアカウントを間違えてしまったのではと思うぐらいだった。
「どうかしたのですか」
「とにかく、マンションから離れた場所でお話をしたいのです。かなりの急ぎなのですが」
「であれば、薫に案内させましょう。少しお待ちを」
薫とのやり取りに使っているアカウントでメッセージを送ってみても返ってくるはずの返事が返ってこなくて、代わりに緊急用アカウントにメッセージが飛んできた。
「手が離せないから一九二.一六八.七.一一に行って。鍵は渡すから」
次の瞬間には佳世がメッセージ画面の横に立っていた。
「なんだか急いでいる様子でした。何かあったのでしょうか」
「さあ、自分にもよく分かりません。それで、急ぎというのは何でしょうか」
モニタの中でずっと立たせたままでいるのは申し訳なかったから椅子のモデル、しかもよりによってパイプ椅子のモデルしかなくて、それを佳世に渡した。
「実はその、マンションの雰囲気と言えばいいのでしょうか、空気とでも言えばよいのでしょうか。どう説明したらいいのか、伝わるか判別つかないのですが、臭いのです」
「臭い? 悪臭がただよっているとでも?」
「とにかくいつもの感じじゃないのです。部屋の中はまだしも、エントランスはひどい感じでした。慌てて部屋に戻りましたが、その時には部屋にも嫌な臭いがし始めていて」
以前も確か似たようなことを口にしてはいなかったか。どう説明すればいいか分からないがとにかくおかしい、と。
高田がおかしくなった瞬間だ。藤田が失踪したというところにやってきた佳世がエントランスで嫌な雰囲気を感じ取ったのだ。まさにその時。サーバーの構成で考えたところで、エントランスは仮想サーバーのホスト機能の部分に乗っている。対してマンションの各部屋は仮想サーバーのゲストだ。独立しているはずのそれぞれが嫌な臭いに侵される。
おかしい。ホストとゲストは、それぞれ独立しているはずだ。
ホストの『臭い』がゲストに『立ち込める』わけがない。
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