ニューラルの先に::2.5 パケットの残滓

 何かがおかしい環境を一つ閉鎖することは、人工知能たる薫でも苦労するものだった。できるだけの策を終えるのに三十分ほどかかっていた。ネットワークや仮想環境の基盤など、男の姿から女の姿になった薫は休憩中と言いながらも熱弁をふるっていた。疲れたから一休みしたいと言い出したのは薫だと言うのにまるで休めているように見えなかった。



 富田としては、早いところ話す熱が冷めてちゃんと休憩して、それから高田の部屋に入るための穴を一時的に開けてくれる手はずだった。完全に閉鎖している以上、薫の手がなければ部屋の中に入ることすらできない。ドアの前にドアを置いて鍵を閉められているようなものである。



「そろそろ中に入りたいんだけれど。もういいでしょ」



「ええ、まだ休みたいんだけれど」



「俺はずっと待ちぼうけで困る」



「しょうがないなあ、じゃあ準備するから待ってて」



 薫はリクライニングチェアを揺らしながら大きなモニターを広げていくつものウィンドウを開いていった。モニターを覆うほどの数を生み出した後はそれぞれにめまぐるしいスピードで命令を打ち込んでゆく。あっという間に文字で埋め尽くされるモニター。情報量が多すぎて富田にはすぐには理解できないのに対して薫は平然としていた。



 後頭部に手を敷いて枕代わりにしつつぼうっと眺めている様子だった。ときどき新しい行がせり上がって来るのを見つめるだけ、読んでいるのかどうかは薫の様子だけでは分からなかった。



 リラックスしているようなしていないような姿勢のまま、ややあってから、



「準備できたよ」



と富田を促した。



 彼女の言葉を受けて富田が管理用の画面を表示してみる。たしかに高田の部屋へ行けるようになっていた。残りは画面を操作して高田の部屋に乗り込めばよい。何が起きているか見当もつかない。薫が中にはいるのをためらうような場所。行けるのは生身の人g年のみ。



 薫に目配せして意思を確かめる。薫はしかし既にモニターに意識を集中させているようで、富田の視線には全く気づいてくれなかった。体制は整っていると暗に言いたかったのか。とにかく、薫がそのつもりであれば富田が立ち止まる理由はなかった。



 ボタンを押して高田の部屋に辿り着くのはいつもとほとんど変わらなかった。管理室から部屋に移る瞬間の一瞬のもたつきがあったぐらいで、ほかは何ともなかった。いつもと状況が違うせい、高田の部屋で何かが起きていることと同時に閉鎖環境となっているのが原因だと程度にしか考えていなかった。



 部屋の中はよい意味で生活感が残っていた。壁に配置された棚やタンスのモデルが並んでいた。部屋の真ん中にある小さなテーブルの上には置きっぱなしの単行本があって、四隅に揃えられていたベッドの上のシーツはしわくちゃになって隅っこで固まっていた。



 ふと見上げた時の窓の外が真っ黒で不気味なこと不気味なこと。まさか高田の好みではなかろう、きっと閉鎖しているせいで画像が表示できなくなっているのだ、信じ込むことで平静を保つのだ。



 異様なものを目の当たりにしてしまったせいか、たちまち部屋のおかしなところが目につくようになる。床のあちこちに見たことのないものが転がっていた。一見すればキラキラと輝いているように見えるきれいな塊、鉱石のようであったが、しゃがみこんで近づいてみると、錆びたトタンで表面を削った金属片だった。いや、そう見えるだけである。金属片のように見えるが、絶対に金属片ではない。だからといってリアルに存在するもので近いものがあるかといえば『ない』のだ。



 人を選ぶ言葉で表現するなら、VR空間のリアルタイムレンダリング時に何らかの問題が生じているのだ。そのために正しい描画ができていないのだ。



 別の破片に目を向ければ、金属片とは全く異なる様相を呈していた。空間の亀裂のように生じていたそれを覗き込んでみれば、向こう側に文字のようなものが流れているのに気づいた。幾重にも重なっていたために何が流れているのかは判別できなかったが『か』の文字が流れているのは見つけた。



 部屋を構築するにあたって、部屋の外にそのような奇妙な仕掛けとなるような部品を使った覚えはないし、そうなるように作り込んだつもりもなかった。見たことのない現象が部屋を覆い尽くしている。



 人の目に見えないところで繁殖範囲を広めるカビ。富田は電脳空間でそれに相応するものを見てしまったのだ。今まさに高田の部屋を冒そうと密かに広がってゆく脅威だ。薫の徹底した閉鎖作業を思い起こして少しホッとする。仮に一切の対策をしないでいたらと思うと。高田の部屋に生まれたカビがマンション全体に広がってしまうかもしれなかった。



 さて、部屋の異変にばかり気を向けていたが、そろそろこの部屋の住人のことを考えなければならない。少なくとも部屋の異変を見て回っている間に高田の匂いはどこにもなかった。



 そもそも富田が貸し出している部屋に隠れられる場所はほとんどない。なにせデジタルな空間において、収納なんてものは『目に見えないもの』だから。部屋の中にあるそれらしいものはいわば飾りである。部屋と密かに繋がっているストレージこそが仮想マンションの収納だ。そんな空間に住人が入れるはずがない。入れるように設計していないのだ。



 何が起きているか分からない部屋だ。もしものことを考えて収納の中を覗いてみるが、収納されているものの中に高田というオブジェクトは存在しなかった。



 収納には高田はいない。残りはどこだ? 壁伝いに部屋を一周して死角を全て確かめてみたが、富田の動きに合わせて高田が逃げている、という様子はなかった。



 高田は、部屋にいない。となると、どこにいるのだ? 部屋にいなければ部屋の外だ。薫に外の様子を確かめてもらおうと連絡をしてみればエラーになって、その時になって薫が閉鎖をしているせいだと気づいた。薫が閉鎖している以上、薫が許した経路以外では絶対に外とつながることができない。つまり、外に出られない。



 薫が部屋を閉鎖する前には既に外に出てしまっていた。考えられるのはそれぐらいしかなかった。もはや高田は富田と同じく、失踪してしまったとしか考えられなかった。おかしなことが起きて、それが原因で消えてしまった。今すぐに戻って通信の記録を確認すれば、もしかしたら高田がどこに向かったのかが分かるかもしれなかった。



 外を出るために管理画面を出せばどの部屋にも、管理室にも移動できなくて、薫が外に出るための手段さえも閉ざしてしまっていることを知った。どう外に出ればよいのかと考えて、ややしてから、強制的にVR空間を離れることを思い立った。強制ログオフしてしまえば現実に戻ることができる。そうすれば再び仮想空間につなぎ直して、管理室に何食わぬ顔をして入れば済む。



 思いつきを確かめるべく強制ログオフの画面をモニタに映して、思い通りのことができると確かめている時だった。



 背後に音。乾いた音。多分、靴底の硬い靴が発する小気味よい音。しつこいほど室内を確認した後では存在し得ないことがはっきり分かっている音だった。薫が全面閉鎖しているはず、外部から何かが侵入してくることも考えづらかった。



 もしや薫の封鎖に穴があった? 塞ぎきれていないところを突かれた?



 見ず知らずの侵入者を想像して振り返った富田にはその光景が信じられなかった。まず、高田がそこにいた。いなくなったと思っていた高田が目の前に立っていた。フローリングの上に土足なのはこの際どうでもよかった。見るからに具合が悪そうだった。上半身や肩に力が入っていなくて、両腕ががらんと垂れ下がっていた。



 薫の閉鎖は機能している。やはり高田は部屋の中にいたのだ。



「高田さん、メッセージを見ました。何があったのですか。大丈夫ですか」



 しかし高田は何も答えなかった。気を失いかけているような、虚ろな目をしていた。確かに高田は富田の方に体を向けている、目を向けている、しかしちゃんと見えているかどうかは怪しかった。



「高田さん? あんな量のメッセージを送っておいて何もなかった、とは言わせませんよ。何があったか教えてください」



 高田は何を思ったのか、富田に向かって指を差してきた。緊急事態だと思って動いているにもかかわらず、事情の説明もなしに、ただ富田を指し示すだけだった。心配した気持ちを踏みにじってきた。



 五秒耐えられれば気持ちの潮が引いてゆくもの、しかしふつふつと着実にこみ上げてくる怒りは五秒も経たない内に満杯となってしまった。口から悪い言葉が漏れでようとしたまさにその瞬間だった。



 指を差していたはずの手に拳銃が握られていた。ドラマでよく見る自動拳銃だった。おもちゃの銃のような質感ではなかった。



 銃口を向けられて富田の口からはみ出たものが引っ込んでしまう。



「高田さん? 何」



 耳をつんざく音と同時に火を体内に突っ込まれたような痛みが貫いた。二つ目の音の時も同じく、体にもう一本松明を突き刺されたかのような。



 腹、胸。撃たれた。撃ち込まれた弾丸がいつしか棘を持ってぐりぐりと体を壊し始めた。際限なくつり上がってゆく痛みは、現実と仮想現実の区別を奪うのだ。痛いという言葉で済ませてよいものか、こんなつらい目に合わせられるのであればいっそのこと殺してほしかった。



 急に視界が暗転する。



 ああ、死んだ、富田の直感がそう訴えていた。

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