おもちゃ遊び::3.デジタルな重い思い

 世間一般的に言えば西村は無職の男性という位置づけだったが、金銭的に変わった感覚はなかった。むしろ普通に仕事をしていたときよりもよい生活をしているかもしれなかった。



 仮想的な夫婦としては小遣い制となった西村の財布事情だったが、小遣いの額が尋常でなかった。世の妻というものは男に対してなるべく小遣いをケチろうという心理が働くわけだが、佳世は全く異なっていた。佳世が人間でないからかもしれないが、とにかく小遣いと言うには桁の大きすぎる額だった。佳世はいつも、小遣いという言葉を使わないで給料だと言っていた。だから小遣い制じゃなくて給料制なのだ、と。



「それじゃあ、今日は私ね、午前中はシステム会社の人と打ち合わせをして午後は広告会社で動画撮影のお手伝い、株の取引は、まあすきあれば、って感じかな。何かあったら連絡するね」



「分かった。いってらっしゃい」



「言ってきます」



 佳世は西村を手繰り寄せてキスをすると出入り口の形をしたドアに手を触れた。ノブをひねっていないにもかかわらず扉が開いた。フロアの廊下を進む佳世の姿はまたもや自動で動くドアによって隠されてしまう。



 静まりかえるへや。



 主夫としての西村の朝は大概がこんな感じだった。現実で目を覚ますなりまずは仮想空間の家に入る。使うのは全身型のVR装置だった。佳世が婚約指輪代わりと言って買った代物、調べてみれば二百万はくだらないものだった。



 佳世が目を覚ました後は現実に戻って、一緒になって朝食を食べる。料理は佳世がデリバリーサービスで配達しているものだった。加工済みの料理を電子レンジで温めて食べる食事。一から料理を作ることはあっても、佳世に仕事がある時は大概が配達されたものだった。



 佳世が仕事に出かけた後はそのまま仮想空間で過ごすか現実で時間を過ごすか、割合としてはだいたい半々だった。どちらにいたとしても部屋で過ごすことがほとんどだった。あっても週に一回、週に二回外に出ると多いと思う具合である。日用品や飲み物の買い物をしなくて生きていけるのかという文句があるかもしれないが、ネット通販で全ては事足りた。VRの空間で注文しても現実でネット通販したところで、すぐにほしいものは届けられるのだから。



 西村の生活には外へ出る必要性がなかった。



 いや、必要性がなくても、外の空気を吸ってみたいという気持ちになるものだろう。ずっと部屋に閉じこもっていればいつしか、なんとなく外に出てみようかなという気持ちになってくる。いわゆる防衛本能のようなものが働くのだと考えれば納得だが、それにしても週に一回しか外に出ないというのは中々に人間を捨てているようにも思える。



 それもそうだ、西村が外に出ない理由は必要性だけでないのだから。



 さて、佳世が家を出てどれだけの時間が経ったろうか。一時間? 二時間? 時計をあまり意識しない生活になってからというものの、西村の時間感覚はどんどん麻痺してずれてゆくばかりだった。その状況の下で西村の時間感覚を牛耳っているのは。



「としくん、聞こえる?」



 佳世の連絡だった。



「聞こえるよ」



「今仕事を始める前に株のところ見てたんだけれど、持っていた株の一つがすごく値下がりしてちょっとピンチなの。だからあまり連絡できないかも」



「ピンチってどれぐらい? 大丈夫なのか?」



「まあ、ざっと数百万? ぐらいかな。落ちながらも乱高下しているからタイミングを見て損益確定させて、後は他のところでリカバリかな」



「数百万っって、よく平然と言えるね、まあ、佳世の感覚だと普通なのかもしれないけれど」



「それはね、まあ数百万動かすことなんて珍しくはないけれど。ここまで急に損が出ているのは久々でね」



「じゃあこんな連絡している余裕がないのでは」



「数百万の損を出すよりもとしくんと話をしないほうが悪いことだと思ってるもの。でもまあ、確かにとしくんと楽しいことをするお金がなくなっちゃうのはあれだしね、じゃあ連絡できそうなときに連絡するよ」



「うん、分かった」



 佳世からの連絡が終わった西村は時間が時間の経過をようやく理解するのである。そうしてから仮想空間で過ごしているならば、ソファに横たわってネットの動画を見て時間を過ごすのである。



 これが外出をしない理由か? ああそうだとも、しかしまずは何事もなかったときのパターンを知らなければ何も始まらない。いつもの状況を知った上でもう一つのパターンを見せつけられれば、西村がいかに外に出ないのかが分かるであろう。



 西村が外に出ることに辟易することになったきっかけは仮想空間での買い物をしていたときだった。結婚生活を初めて間もなく、まだ西村の体にも防衛本能としての外出欲求があった頃だった。本当であれば仮想空間を抜けて現実の世界で新鮮な空気を吸ってくればよかった。その時はしかし、まだ仮想都市というものに慣れていなかったため、現実の空気よりも知らない世界への関心が勝ったのだ。



 佳世が出かけるのを見届けたあとに西村は準備を始めた。準備と言っても金は電子決済だから持ち歩く必要はなくて、荷物だってデジタルデータかリアル商品でもネット通販なのだから特に気にする必要もない。準備をするにしてもモデルの外見をいじるぐらいだった。しかし経験の浅い西村には、もしかしたら持ち運べる量に制限があるからバッグなどを装備したほうがいいのでは等、ああでもないこうでもないと考えてしまった。



 結局いろいろ考えた挙句に、バックパックのVRモデルを購入して初めて、それが無駄な買い物であることを知ったのだった。



 いざ仮想の街を見て回ろうという感覚で高層マンションから出ようとしたところ、出入り口のところがマップ選択画面のようになっていた。現実と同じように自動ドアを開けて外に出るという作りにはなっていなかった。



 手始めにショッピングモールのような場所を選んで移動してみれば一瞬で目的地に辿り着く。VRならではの瞬間移動であっけにとられた西村だったが、当たり前のように現れてモールへ向かってゆく人の姿を見て、流されるように同じ方へと歩み出すのだった。



 仮想ショッピングモールの中は実際に歩いて買い物ができるようになっていて、さすがに現実をまねた作りになっていた。たくさんの人々が行き来している様子は本当にその場に自分自身がいるかのような錯覚に陥る。向かいから歩いてくる二人組や立ち尽くす西村を追い越してゆく子どもらしきモデルのグループ。中にはきぐるみのようなモデルを使っている人がいた。というか、人間でない姿をしている人のほうが多かった。ハロウィーンでコスプレ日になっているかのような、そんな人たちばかりだった。だからといって店がハロウィーンの装飾がされているわけでなく、見たところ通常営業らしかった。



 特に目的もなくモールの通路を歩く西村はまるでオンラインRPGをやっているかのような感覚だった。現実的なショッピングモールに奇抜を通り越した姿の人々がいるのだからしょうがないことだった。そもそもの話として、本当に人間が中に入っているのかも怪しい。西村の身近には最たる例があるではないか。自律的に動く何かとすれ違っているかもしれない。ふと視線を向けた先で店内に入ってゆく勇者の二人はAIかもしれなかった。



 視界を邪魔するように半透明なウィンドウが表示されて、真ん中には佳世の顔写真があった。バイブレーションも大きな着信音も聞こえるようになって、しかし周りの人は迷惑そうな顔一つしなかった。



 西村にしか聞こえない音だった。



 写真の下にある丸いアイコンに指を当てて左に動かした西村は呼びかけようと息を吸うものの、それよりも先に頭を殴るような音が飛びかかってきた。



「家に連絡しても繋がらなかったのだけれどどこにいるの?」



「今はショッピングモール、だと思うけれど、どうしたのそんな声を荒くして」



「どうしたのじゃないよ、私心配したんだからね。家に連絡しても全く反応してくれないし、としくんのところに電話をかけてみても全然応えてくれないし」



「ごめん、VRの空間を動き回ることはあまりしたことがなかったから外に出てみようと思っていて」



「なら私にちゃんと知らせてよ、どうして教えてくれなかったの」



「特に聞かれなかったし、どこでも連絡は取れると思っていたから。現にこうやって連絡が取れているじゃないか」



「私が言いたいのはそういうことじゃない」



 ぴしゃりと切り捨てられた。



「私の知らないところで何かあったらどうするつもりなのよ」



「何かあったときの連絡先は佳世にしているじゃないか」



「違うの、私が知らないのが嫌なの。行く予定があったらちゃんと教えてくれないと」



「とにかく落ち着いてよ」



「私が知らないところで大変な目にあった時のことを想像してみてよ。何か事件が起きたときのことを想像してみてよ。大変なことが起きたときに、そこに私がいたとしたら? 知っていれば私の見に何かあったかどうかも分かるでしょう?」



「それは、その、ごめん。そんなところまで考えてなかったから」



「私が予定をいつも話しているのはそういうつもりなのだからね。私がただのおしゃべりとかと思っているなら間違っているからね」



 西村の返事を待たずして連絡が途絶える。たちまち耳に入っててくるのはショッピングモールの賑わいだった。ここにいるのに、自分だけは全く別の世界にいるかのような感覚。現実にはVR装置の中に入っていて仮想空間に入り込んでいるわけだけれど、それよりももっとずれた感覚。言葉通り、前後上下左右三百六十度のモニターを眺めているような、歩いても歩いてもその場にたどり着けないような。果てしない距離感。体の中を雑巾絞りされる窮屈な気持ちは身動きを取れなくするのだ。

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