彼女にはバグがある::8.みんなバグっている
講義の終わりを告げるチャイムが鳴る。
広い講堂にもかかわらず出席している人の数はまばらだった。黒板側の出入り口に学生がいなくて、ただ一人講師が荷物を持って扉を出るのみだった。では学生たちはどこにいるのだろうと見回せば後ろ側に点々としているのだった。
群れの中の一角に高橋がいた。ルーズリーフやテキストを片づけているところ真面目に講義を受けているように見えるが、ところがどっこい、ノートには社会学系の講座で見ることのない図面を殴り書いているところ、やる気の感じられない学生の側に身を置いているらしかった。
まだ起きているから、話は聞いているらしいからまだよいのかもしれなかった。隣では完全に突っ伏して講義を完全に放棄している男がいる。いつ寝始めたかわからないが、少なくとも開始のチャイムがなって間もなく舟をこいでいた。
「ほら、もう、講義終わったよ」
「まだあ」
「いや寝ぼけてるんじゃないよ」
肩を揺すったり頭をびしばし叩いたりして意識を連れ戻して、いよいよ講堂を後にした。学生の中では一番最後の退出だった。
藤田はいつかのように危なっかしい足取りで廊下を歩いた。高橋が思い出すに、日付が変わるぐらいまでは確かに起きていたけれども、そこまで遅くまで起きていたわけではなかったし、それならば高橋のほうが寝ていなかった。高橋よりも寝ているというのに眠りが足りないだとか、歩くのが辛いレベルとなれば、
「孝雄、体の具合が悪いんじゃないの」
と勘ぐってしまうのである。
「大丈夫う、ちょっと寝れば大丈夫う」
「さっきも寝ていたじゃない。まだ寝るつもりか」
「だって、眠いのは眠いんだもの」
講義棟から脚を踏み出せば危なっかしさは更に悪化する。藤田そのものは変わっていないのだろうが、周りが変わりすぎた。いつ人とぶつかってもおかしくないような動き、肩の揺らぎは、ある意味で高橋を誘うのである。
横に密着して腕を絡ませた。高橋の腕を蛇のようにきつく締めて藤田の体を捕まえた。
「アイカ、歩きづらいんだけど」
「ふらふらしてちゃんと歩けていないんだもの我慢しなさい。次の講義まで一コマ時間があるんでしょ? ラウンジに行くよ」
「アイカは講義があるんじゃ」
「今の孝雄を見ていたらそれどころじゃない」
キャンパスの中で一番新しい棟の最上階。ラウンジを目指す高橋は体に感じる腕の温かさを思い返した。
ICAと同棲するために頑張って死にかけているときのこと。まともに歩けない藤田を介抱した時のこと。今だって歩けないでいる彼のそばに寄り添っている。
愛佳。
アイカ。
ICA。
それが破壊された後の藤田のことを高橋はよく覚えていない。特製のプログラムで自ら壊したその瞬間のこと。人間の、人工知能に対する、破壊行為のほう助。器物損壊なのか、殺人なのか。物に対する罪悪感がそうさせるのか、藤田に対する罪悪感がそうさせるのかは分からなかった。覚えていることは、初期化された瞬間の恐怖と罪悪感、藤田の濁りきった目だった。それだけだった。
気がついたら藤田も高橋も床に転がっていて、藤田が目を覚ましてから一日は目を覚まさなかった。バイトも休んで大学にも行かず、もはや屍となったサーバと目を覚まさない藤田をただただ見守った。
途中、サーバーのアクセスランプがついているのに気づいて、そっと電源ボタンを押した。首を絞めるようにボタンを押し続けて、ついにランプが消えるのを見届けた。数秒のボタン押下、あっけないサーバー人生の幕引きだった。
「ごめんねアイカ、どうしてこんな疲れちゃっているんだろう」
まるで寝言を言っているかのような藤田の言葉。高橋は自分の考えていることを口にできず、ただラウンジに向けて男を引きずるばかりだった。思い当たる節を話そうとすればたちまち、藤田が目を覚ました瞬間がフラッシュバックするのだ。
夜だった。アイカの棺桶の横で明かりもつけずに藤田をぼうっと眺めていた。体育座りで。時々触れるサーバーのケースが冷たかった。ほとんど視界のない中で見えるのは藤田の輪郭だけだった。
壊れたプログラムと同じように、藤田も壊れてしまったのではないか。高橋の妄想は自分自身を攻撃した。それはもうひどいぐらいに。罵りそしり、殴ったり蹴られたりしているかのような気分になった。
だからぼんやりとした線がうごめいているように見えたときにはただの見間違いだと思った。けれども二回目には目を疑って藤田らしきそれに目を凝らしたし、三度目には確信となって、体の内側で何かが暴れまわるのだった。
暴れまわるそれのバネのような激しさにまかせて飛び上がってからは、飛ぶようにして明かりのスイッチに突撃して部屋を明るくしたし、飛びついた反動で藤田のもとに迫った。
藤田が目を覚ます! 藤田が! 藤田が!
「ほら孝雄、ラウンジに着いたから、もう少しだよ」
「ありがとうアイカ」
ラウンジの一角に座らせるなり藤田はお礼の言葉を口にして、そのままリクライニングのできる椅子にもたれかかった。
ありがとう、の言葉。
藤田が目を覚ました時だって同じようなことを言われた。
「藤田! 大丈夫? 分かる?」
「ん、んと、どうしたんだいそんな慌てて」
「慌ててって、ずっと目を覚まさなかったんだもの。私が目を覚ましてからもう一日ぐらいは経っているんだよ」
「そうだったんだ、ありがとうねアイカ」
高橋に向かってアイカと呼んだ。
「アイカって、藤田、それ私のことを言っているの? 何を言っているの?」
「アイカはアイカでしょ」
「藤田の言うアイカはICAでしょ、私じゃあ」
「アイカこそどうしたの? 俺のことはいつも孝雄って呼んでくれるじゃないか。なんか距離を感じるんだけど」
高橋の考えが崩壊する。藤田が目を覚ましたのはよいことだと思っていた。しかし藤田の口から出る言葉に高橋は絶句したのだ。藤田の中でいなくなったのはICAではなかった。高橋愛佳が消えていた。藤田が見えている高橋愛佳は、アイカだった。
「アイカも隣で休めばいいじゃん。そんなところで立ってなくていいからさ」
「じゃあ、そうするよ。時間になったら起こすからね」
「お願い」
藤田はICAがリセットされたことを未だ知らない。本当のアイカが壊れたことを知らない。愛佳という人は忘れてしまった。高橋はアイカが残した言葉通り、藤田を奪ったことになるのであろう。しかし、アイカが藤田に託したプログラムはアイカ以外も壊した。何もかも崩れた。
藤田の好意が曲りなりとも高橋に向いている。高橋はこの望んでいた状況が、怖くて怖くて仕方がなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます