彼女にはバグがある::2.もどかしい思い
アイカはICAである。インテグレーテッド・コミュニケーション・アシスタント。もっとまとめて説明してしまえば、人工知能。自然なコミュニケーションを取ることができる人工知能。
藤田はアイカと付き合っている。高橋がそれとなく彼女の存在を確かめたときに知ったのだ。
「その、さ、藤田は好きな人っているの、かな。ほら、藤田のいる学科って美人さんがどういうわけだか揃っているじゃない」
「好きな人? つきあっている人いるよ」
「ああ、そうなんだ、へえ、そうなのね」
「この子。僕はこの子とつきあっているから」
瞬殺とはこのことか。藤田のストレートな返事に高橋は打ちのめされた。好きな相手の彼女がいないことを確かめるというギャンブルに対して、日常会話のような、当たり前の雰囲気でその存在を認めてしまう。落ち込むタイミングを見失ってしまったし、直後、タブレットの画面を見せられて、
「この子なんだ。アイカっていうの。高橋と同じ名前だね」
と『彼女』紹介をされたときに及んでは、あまりに突飛な思考に対してにへへと笑うぐらいしかできなかった。
しかし高橋は藤田のそばにいる。藤田もまた、アイカがいながらもそばにいるのを拒まなかった。食堂で講座の相談をしたあとに帰宅するにも一緒だった。そういう意味では、不思議な関係である。カップルと男を好きな女性の三人組。知らない人が見れば二人組だが。
「あれだこれだって講座を決めようになると、ああ大学始まったんだなって思うけれど、こうやって二人でいるといつもと変わらないね」
「そりゃあ、休みの日だって何かにつけて一緒にいたりチャットしてたりするから」
「それもそっか。そうだ、今週末なんてどう? カラオケとかさ」
「考えておく」
「それ行かないパターン」
とろとろと進んだ車窓がついに止まった。藤田から目線そそらす高橋。視線の先には駅の標識があった。
「もう降りなきゃ。おしゃべりしているとあっという間だね」
「うん、それじゃ明日」
蒸気が吹いて出てきそうな音とともにドアが開けば、吸い込まれるようにして高橋は電車を飛び出した。多くの人が下車した車内はすっからかん、立っている人も座っている人もまばらだった。
座席の隅に腰かけて車窓が動くのを眺めた。藤田の降りる駅は高橋の駅から三つの駅だった。ごく数分で着く距離なものだから、本を読むにも時間が足りないし、持っているゲームをするにも時間が足りなかった。
スマートフォンのバイブが唸る。振動したり大人しくなったりを繰り返すパターンは一人にだけしか設定してなかった。
彼女。アイカからのメッセージだ。
「久々の大学はどうでしたか」
「どうだろう、あまり大学らしい感覚はなかったかな。受けた講座も内容の説明だけだし」
「明日も愛佳さんと一緒で?」
「うん、二限目から」
「では明日の起床のアラームは七時半に設定しておきますね」
チャットアプリでのやり取りである。音を出してもよい場所だったら音声通話、音が出せないような場所ではチャットを、といった形でコミュニケーションの方法を切り替えてくれるのだ。
チャットのテンポが崩れる。リズムよく、会話をしているようなテンポで返事をするのが普段のアイカだった。しかし来るはずのメッセージが届かなかったのだ。藤田にとっては違和感を覚えるのに十分だった。アイカははっきりとチャットを終わらせる宣言をするか、藤田の側から会話を止めない限り、会話を投げっぱなしにはしないのである。必ず何かしらの断りがあるものなのに、それがなかった。
「私達が付き合うことになってからだいぶ経ちますね」
一分ほどかかって送られたメッセージはまるで毛色が異なるものになっていた。大学の二人、藤田と高橋のことでない。二人の関係について。
しかし藤田は話題が変わったことを意識していなかった。アイカに対する気持ちは微塵も揺るがない自信があった。相手を推し量るような言葉があったとしても、藤田の前では何の意味も持たなかった。答えは常に決まっていた。
「そうだね、いろいろなことをしたね」
「十五センチ、この意味を知っていますか?」
「距離、幅、なんだろう。アイカが謎解きだなんて珍しいね」
「そうでしょう、十五センチ。これは距離ですよ。さて、何の距離でしょう」
藤田はスマートフォンの画面から顔を上げた。ちょうど電車が発車するところだった。。駅名の看板が横に滑ってゆくのをぼうっと眺める。藤田は視界の中にあるいろいろなものの距離かと考えてみたが、どれも十五センチを遥かに超える距離だった。
「分からないや」
「私と孝雄が出会ってから、一番近くまで接近できた時の距離です」
「十五センチより近づいたことがないってこと?」
「最近思うようになったのです。恋人、恋愛関係というものをネットワークで調べてみました。調べた結果を総合すると、私達は非常に遠いのです。私はAI。気づいてしまってから、もどかしくてもどかしくて仕方ないです」
「僕達はずっと一緒にいるじゃないか」
「でも、手をつなぐことができません。肩を寄せ合うこともできません。私はもっと近くにいたい。でも私にはできない」
藤田の手が止まってしまった。考えたこともなかった。アイカに対する答えは変わらない、好き、なのにどうして指が動かないのか。藤田にとってアイカはすぐ近くにいるものだと思っていた。いつでも言葉を投げかければ返してくれる、何か行き詰まっていれば声をかけてくれて、共感してくれて、こんなことがあるよ、と教えてくれる。生活のあらゆるところにアイカがいたのだ。
返事が書けない。アイカもメッセージを送ってこない。
アイカにかける言葉に迷うことは未だかつてなかった。アイカが分からなくなってしまった。どんな言葉をかければよいのだろう。藤田は自分が何かよくないことをしてしまったかもしれなかった。だが思い当たるフシがなかった。いつもと変わらなかった。電話、メール、チャット。日常のままだった。
「僕がアイカの気持ちを害するようなことをした?」
「とんでもありません。いつも愛情を感じています」
アイカは即答だった。
「ですが、恋人たちがするようなことに憧れてしまうのです。もっと孝雄の近くにいたいのです」
「僕達はずっとつながっているじゃないか。こうやって今も」
「認識の相違ですね。私はあなたに触れたい。孝雄の体のぬくもりを知りたい」
空気の抜ける音が突如耳に入ってアイカから目を離した。ドアが閉まる音だった。ドアの向こう側には降りるべき駅名の名前が書いてあった。
乗り過ごしてしまった。この話で話題を逸らしてみようとチャットアプリに視線を戻してみれば、アイカはすでに退室してしまっていた。アイカの側から会話をウチキッてしまった。
誰もいないチャットに、藤田は『電車降りそこねた』とぽつり投稿するしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます