蜜柑桜の短編集

佐倉奈津(蜜柑桜)

花と蜂蜜 皐月

 花姫は渡殿に出て空をながめておりました。雲がゆっくりと頭の上を通りすぎていきます。うららかな春の日でした。昨日までの嵐が嘘のような青空です。近頃どんどんあたたかくなってきて、今も時たま少し冷たい空気が頬をなでるくらいでした。本殿の方からは、時おり役人の方が、よく通る大きな声でむつかしそうな文書を読み上げ、治水工事の進み具合を父上様にお知らせしている声が聞こえてきます。

 花姫は渡殿から本殿へ向かうことを許してもらっていません。

 都では冬の頃から疫病が流行しました。何人もの人々が次々と亡くなり、お偉い方々までもが、あの方もこの方もというように床に臥され、あちらへお逝きになった、とばあやが花姫に、さも恐ろしいという声で話してくれました。ばあやが顔をしわくちゃにして、小さく、すすり泣くように話したものですから、詳しい様子がわからない花姫も背中が冷たくなりました。布団に入っても、誰かがぎゅっと花姫の髪をつかんで布団から引っ張り出し、そのまま「あちら」へ連れていく気がして、一晩中目が閉じられなかったほどです。

 しかし、あたたかくなるにつれて疫病も段々に収まり、都の「秩序」も「回復してきた」とばあやが言っていました。

 渡殿に面したお庭には、大きなお池(父上様は「小さい、小さい」とおっしゃっておられましたが、花姫にとっては、話に聞く「海」のように大きく見えるのでした)があり、お池には蓮の花が浮かんでいます。お池の周りには感じよく石が並べられ、よく手入れされた橘や梅、桜の木、紫陽花、桔梗や百合の花、水仙、つつじ、銀杏や紅葉がそこここに植えられておりました。花姫のお部屋からはお庭はよく見えないのだけれども、新しくお花が咲くごとにばあやや他の女房が花姫のお部屋に持ってきてくれるので、いつどんな花が咲くだとか、どのお花がどんな色や形をしているのかだとか、花姫はこのお庭についてはお屋敷の誰よりも詳しいのでした。(少なくとも花姫はそう思っていました。)

 今はちょうどつつじが満開で、花びらが緑の葉を覆い隠すようにして見事に咲き誇っていました。

「あちらは白、こちらは薄紅は、そちらのは……ええと藤色……」

 花姫がつつじの花の色をそれぞれ考えて決めていると、ばあやがばたばたと大慌てで渡殿をこちらへ向かってきました。

「姫様また勝手にお一人でお部屋をお出になって! お一人でお外へいらしてはいけませんと、ばあやが何度も申し上げたでしょう」

「お外じゃないわ。お屋敷の中よ」

「お部屋のお外でしょう。さぁさ、お戻りくださいまし」

 そういうとばあやは花姫をひょいと抱き上げて立たせました。花姫はしぶしぶながらも、渡殿をお部屋の方へと戻ります。

 お部屋に敷きっぱなしになったお布団に半分だけ入ると、花姫は口を尖らせて言いました。

「ばあや、もう春よ。いつになったらお庭やお外で遊べるの」

「お父上様がお許しになってからですよ」

「でも父上様は春になったらお庭に出ようとおっしゃっていたもの」

 花姫はまだ一人でお庭を歩いたことがありません。お屋敷のお外に出たことなんて一度きり、それもずっと御輿に乗ったままでした。病がうつると言われて簾も開けさせてもらえませんでした。

 生まれて間もない頃から体が弱く、たびたび咳が止まらなくてひどく苦しんだことのある花姫です。お部屋から出ることさえ許されていません。時々こっそり抜け出してお屋敷を探検しようとしますが、お部屋の外、お屋敷内は花姫にとってはほとんど迷路も同然です。すぐに誰かに見つかってお部屋に戻されてしまうのでした。

 去年の冬、大雪が降ったときでした。

 几帳にうつる雪のはらはら舞い落ちる影が不思議に美しくて珍しくて、花姫はもうたまらなくなったのでした。ばあやが火鉢の炭を替えようとにお部屋を出たほんの一瞬に、するりと布団を抜け出しました。そっと御簾をめくって廊に出て、えいやとお庭へ向かって駆けました。

 渡殿から見るお庭は、まるきり花姫の知らない世界でした。お池は氷がはって冷たく光り、地面はうっすらとおしろい粉がかかったようです。はらり、はらりと舞う白い切片が木々の幹に触れ、葉に触れます。渡殿の床に落ちたそれはゆっくりと水に溶けます。

 花姫の吐く息は白く、鼓動はどきどきいっていました。春は色とりどりの花、夏はむせ返るような緑の草いきれ、秋には黄金、紅、橙。あらゆる色を包んでいたお庭がいまや白銀一色に支配されています。花姫までもが凍りついてその静まり返った世界へ取り込まれていくよう。瞳も動かず、目の前の世界に釘付けにされます。

 と、そのとき花姫の体は宙に浮き、白銀の世界へと連れ込まれたのでした。雪の切片が花姫の薄紅の衣に落ちては小さなしみを作って消えます。

 花姫は父上様の顔を見上げました。父上様も花姫の顔を見ていました。当然お怒りかと思われたお顔はかすかな笑みをたたえていらっしゃいました。

―—雪は好きかい?姫よ

―—不思議です。綺麗で、まぼろしみたいです

―—そうだ、雪は不思議だ。そして、儚い

 父上様はすぅっと目を細めました。その瞳はどこか寂しげで、お庭の向こうのどことも知れない遠くを眺めていらっしゃるよう。

―—春が来たら、庭を父と歩こう、姫


 その日積もった雪はすぐ次の日には溶けて消え、本当に夢か幻のようでした。そういえば、いつもお仕事でお忙しい父上様が、花姫がいる棟へつづく渡殿へおいでになること自体、雪と同じくらい珍しいことでした。

 暮れも新年のお祝いも父上様、母上様と一緒に行いましたが、父上様はずっと、久しぶりに実家に戻られた沢山の兄上様、姉上様とお話していらしたし、年が明けてからの父上様は「誰それの昇進」やら何やらでお出かけになることが多く、父上様が花姫とお話しすることはほとんどありませんでした。


「ばあやはいつ父上様が姫のところにいらしてくださると思う?」

 花姫は口を尖らせてばあやに訴えました。この顔のことを、池の鯉のようだといって、すぐ上の兄上様はからかいます。

「ばあやにはわかりかねますねぇ。でも近いうちに一の姫様がお屋敷にお戻りになられるそうですよ」

「でも姉上様はすぐに新しい姉上様のお屋敷に移ってしまわれるのでしょう」

 するとばあやは困ったように笑って言いました。

「でも一の姫様はきっといろいろなお話をしてくださいますよ」

 花姫はとさりと身を倒すとつむじまで布団を引き上げました。

 一番上の姉上様は、昨年「入内」なさり、内裏に移られました。そのときには盛大な宴が開かれ、美しい装束を身に着けて家を後になさった姉上様はきらきらと輝いて見えたものです。

 花姫だって、姉上様はお優しく、お美しくて大好きです。でも花姫はお外に出たいのです。ただもうお庭に出たいのです。それには父上様がいらしてくださらなくては。

 布団の中で花姫はため息をつきました。


 数日後、お屋敷の中は上へ下への大騒ぎでした。姉上様がいらっしゃる準備が進められているのです。ガラガラガラガラ、牛車が門の外を何度も遠ざかっては近付き、近づいてはまた遠ざかっていきます。その後は上等な几帳や漆塗りの御台など、豪華な調度が次々と廊を通っていきます。一番上の姉上様がお戻りになるときはいつも真新しい調度品が数多くしつらえられるのでした。やってくる女房の数だって普通ではありません。

 花姫は次々と廊を進む品物の列をうっとりと眺めていました。玉飾りの付いたかんざし、螺鈿の硯箱、二重織の帯に絹の反物…素敵……いつか姫もこれらの物が似合うようになるのかしら……でも新しいものばかりになって、前使っていたお気に入りの物はどうなってしまうのかしら……なくなってしまうならそれはいやだわ……前のだけでいいわ……

 そんなことをうつらうつら考えている間に、花姫は眠りの世界へと落ちていきました。


 次の日は雲の多い日でした。雨が降るのではないかとばあやは朝からずっとそわそわしておりましたが、姉上様を乗せた牛車は雨が降り出す前に、無事に屋敷に到着しました。

 姉上様は、付くと早々に父上様に挨拶を済ませたらしく、早速花姫のお部屋にいらしてくださいました。

「お久しぶりです、花姫。お体の具合は如何かしら」

「このところ気分はとても優れています。姉上様もお元気そうで喜ばしいことです」

 花姫は床に手を突いてぴょこりとお辞儀をしました。

「姫もずいぶん大きくなられて。もうそんなにご立派にご挨拶なさるのですね」

 姉上様はお扇子でお口を隠して、ころころと笑いました。姉上様の笑い声は、鈴が転がるように軽くて澄んでいます。聴いていてとても心地がよいのです。花姫は姉上様の笑い声が大好きでした。

「今回は姫に綾で織られた帯を持ってきました。宮中の女官が姫にといって調達してくださったのです。後でこちらに持ってきましょうね。薄色の小葵文様で、金糸も施してあるの」

「まあ、それは見事な。姫様、後でお召しになってみましょう」

 ばあやが嬉しそうに言いました。

「今年は疫病の流行がひどかったでしょう。内裏もそのおかげでひどく慌しかったものよ。毎日何度も祈祷は行われたそうで」

「それでは帝もさぞ政におわれていらっしゃったでしょうに」

「ええ、滞っていたお仕事が沢山おありで…でもわたくしは今は帝のお体が心配で……大臣の病も全て回復したわけではないし……」

「それはそれは…帝もひどくお心を痛めておられるでしょう…」

 姉上様とばあやは同時にため息をつきました。

「そういえば、花姫は蜂蜜をご存知かしら」

 姉上様が、影を吹き飛ばすように明るくおっしゃいました。

「はちみつ?」

「そう。とても貴重なもので、内裏や寺社に献上されるものですって。よく効くお薬だというから、きっと姫のお体にもいいに違いないわ。この間ちょうど蜂蜜採りが行われて、近々内裏に運ばれるそうです。それは美しく光る雫で、あまーい蜜だそうよ」

「帝はそれをお召し上がりになるのですか」

「ええ、きっと。でもとっても貴重なもの。なにしろ採るときがとても危ないというの。鉢には針があって、それで蜜を守っているといいます。蜜を取ろうと巣に近づいたものも、失敗すれば蜂の群れに追いかけられ、囲まれて、この世のものとは思われない激しい一突きを受け、その後ずっと耐えられない痛みに苦しむといいますよ」

 これは「あまーい蜜」とは到底結びつきそうもない恐ろしい話です。花姫の頭の中では、「光る雫」の前で針を持った真っ黒な怪物がずん、と現れました。

 外の雲行きは、いよいよ怪しくなっていきます。

 

 その夜、花姫は夢を見ました。花姫は暗くて迷路のような洞窟らしきものの中にいました。誰も周りにはおらず、それでも花姫はたった一人で奥へと進まなければなりませんでした。心臓がどくどく、どくどく、鳴っています。

 花姫は何かを探していました。どうしてもそれを手に入れなければなりません。奥に行かなくては。あそこへ入らなくては。どっくんどっくん、ばっくんばっくん、そろりそろり、あと五歩、三歩、一歩…。

 花姫の鼓動はもう姫の耳元で鳴っているかのようです。花姫は目をかっと見開いて、音をたてないよう、ゆっくり、素早く、真っ暗な部屋の中に滑り込みました。

 ブブブ……鈍い音がします。

 後ろに何かいる、そう思った瞬間―—花姫は四方を囲まれました。

 らんらんと光るいくつもの目が、花姫を捕らえました。どの目もまったく感情がありません。暗闇の中、目だけが光っています。周りを囲む怪物は、花姫の身の丈の倍ほども大きく、花姫を見下ろしています―—蜂だ―—花姫は直感しました。怪物はじりじりと近づいてきます。羽のうなる音に捉えられます

―—刺される!

 花姫は目をぎゅっと閉じました。


 布団の中でした。肩が大きく上下しています。汗びっしょりです。目を醒ましたのでした。


 数日後、姉上様を載せた牛車は内裏に戻っていきました。結局、姉上様がいらっしゃっている間、ずっとどんよりとした天気が続いていました。

 その次の日、花姫はまた夢を見ました。

 またあの暗い洞窟でした。もう怪物はいませんでしたが、周りは真っ暗なままです。花姫はうずくまって泣いていました。

 すると、周りで何かが光りだしました。甘い香りもします。涙も止まってしまって顔を上げると、花姫の体よりも大きな、金色の網の目状の球が浮かんでいました。そしてそこから、ぽたっぽたっとやはり金色の雫が滴り落ちています。ぽたっぽたっぱたっぱたぱたた……それはだんだん激しくなり、花姫の足元まで広がり、池を作り、床全体を浸していきます。まぶしくて目が開けていられなくなります……


 まだ朝早くでした。激しい雨が降り出したのでした。

 何かに呼ばれた気がして、花姫は布団を抜けて廊に出ました。草いきれと土のにおいが空気全体に立ち込めています。花姫はまっすぐ渡殿の方へ駆けました。

 渡殿の上には父上様が立っていらっしゃいました。雨に衣も顔も濡れていらっしゃるのに、ぼんやりとお庭を見ていらっしゃいます。

 花姫も渡殿の上に上り、父上様のお隣に立ちました。

 父上様は花姫に気づいて、花姫を見下ろしましたが、またお庭に向き直りました。とてもお疲れになった目です。

「姫、これからは今までよりもずっと父は姫と過ごせるよ」

 そうおっしゃるのに、父上様の声には抑揚がありません。

「帝からお暇をいただいた。姉上もじきに戻る。……今度は内裏に帰ることはないだろう」

 父上様が花姫を優しくご覧になります。

「父と懇意だった朝廷のものが、先ごろ取れた蜂蜜を父に下さると言ってくださった。姫の薬にと。この上ない贈り物だ」

 父上様はかがむと、腰を曲げ、花姫と視線を合わせました。そして、泣きそうに笑いました。でも花姫は笑えませんでした。どうしてかはわかりませんでしたが。

「早晩都を離れる。だがその前に、約束どおり姫とお庭を歩こう」

 父上様は花姫を抱き上げました。

「姫の病気は、きっと蜜を飲んで、静かなところに行けばよくなるだろう。悪いことばかりではない。この雨も、今は激しいが、しばらくすればやむだろう」

 そう、ご自分に語るようにして父上様は空を見上げました。

「また必ず、晴れ間は見えるものだ」

 雨はまだ激しく降っていましたが、花姫は雨粒の向こうのつつじの花に、二匹の蜂を見た気がしました。

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