第251話 秋の気配

「さあ、ここから逃げるわよ」

 千木良が言った。

 千木良が、研究室の暗闇の中に立っている。

 僕は作業台の上から千木良を見下ろしていた。


 デニムのシャツにカーキ色のショートパンツの千木良。

 勝ち気な大きな瞳とぷにぷにのほっぺた。

 いつも通り、その長い髪はツインテールにしている。


「逃げるって?」

 僕はわけも分からず訊き返した。


「あんた、このままママのところでいじくり回されたいの?」


「えっ?」


「ここにいたいの?」


「いや……」


「それなら私に着いてきなさい、逃げるのよ」

 千木良がそう言って僕の手を引っ張る。

 強引に引っ張られて、僕は作業台から下りて立ち上がった。


 僕の手足は自由に動くみたいだ。

 自由に動くっていうか、意識を失う前より体が軽い気がした。

 意識を失う前に、千木良のお母さんが僕のメンテナンスをするって言ってたけど、その効果だろうか。


「でも、そんなことして千木良は大丈夫?」

 ここから逃げるってことは、千木良がお母さんを裏切るってことなんじゃないだろうか?

 そんなことして大丈夫なのか?


「大丈夫よ、多分ね……」

 千木良は言ってからちょっとだけ目を伏せる。


「ほら、そんなことはどうでもいいからこの服を着なさい」

 千木良が僕にパーカーみたいな服を渡した。

 僕のサイズよりちょっと大きめで、重くてごわごわした黒いパーカーだ。


「ひとまず、これであんたの体に埋め込まれた追跡ビーコンは誤魔化せるわ。逃げても追ってこられない」

 そのパーカーには、よく見ると内側に銀色のメッシュが張ってあった。

 これでビーコンから出ている電波を妨害しようってことなのかもしれない。

 僕は千木良に言われた通り、そのパーカーを着てフードを被った。


「ビーコンはいいとして、簡単にこの研究所を抜け出せるの?」

「セキュリティシステムを乗っ取って監視カメラもセンサーも黙らせてあるから平気よ」

 得意げな千木良。

「ふうん、手際がいいね」

 このビーコンを無効にする服といい、準備がいい。


「あんたがシャットダウンしてから二週間たってるのよ。二週間もあれば、なんだって出来るわ」

 千木良が言う。


 えっ?


 作業台の上でちょっと横になっただけだと思ってたけど、僕が意識を失ってから、もう二週間もたってるのか。


「さ、行くわよ」

 急かす千木良の後に続いて、研究室を出た。



 エレベーターや廊下に人影はない。

 暗くて、非常口の表示灯や消火栓のランプだけが光っていた。

 ここに来たとき見たような、白衣の研究者の姿はどこにもない。

 ガラス張りの研究室の中で、電源を切ったアンドロイド達だけが、無言で佇んでいた。

 廊下にある時計を見ると、深夜二時半を少し回ったところだ。

 千木良は堂々としてたけど、僕は忍び足で後を追う。



 そのまますんなりと研究棟の外に出られた。

 空には無数の星が浮かんでいる。

 あれから二週間たったってことで、確かに空気に秋の気配が交じってる気がする。

 草むらからは鈴虫の声もした。


「こっちよ」

 千木良は研究棟の壁に沿って歩いて、来たときとは反対側の森に分け入っていく。

「ちょっと待って」

 僕は声を潜めて言って後を追った。



 夜の森の中は不気味だ。

 聞いたこともないような動物の鳴き声がしたり、なにかが見ている気配があった。

 枝葉を避けながら歩いてると、蜘蛛の巣に引っかかったりする。

 野犬とか蛇とかが突然出てきそうで身構えた。

 それなのに千木良はどんどん歩いていった。

 ちっちゃいくせに、案外度胸がある。


 森をしばらく歩いていくと、高いフェンスに行き当たった。

 暗闇に目を凝らすと3メートルくらいの高さがあって、上の方には有刺鉄線が巻き付けてある。


「ここよ」

 千木良が指すそこは、フェンスの金網が切られていた。

 人一人が通れるくらいの隙間がある。

 その隙間を抜けて、工場の敷地の外に出た。


 敷地の外も森で、余計に鬱蒼うっそうとしていた。

 しばらく行くと林道のような砂利道に行き着く。


 林道の路肩に、見慣れた車が停まっていた。


 見慣れた車、それはもちろん、うらら子先生のランドクルーザーだ。

 その無骨な車体が、深夜の森の中で頼もしく見えた。


 千木良がランクルに駆け寄って、僕も後に続く。


 すると、ランクルの運転席のドアが開いた。

 中からうらら子先生が出てくる。


「お帰りなさい!」

 先生はそう言って、僕を思いっきり抱きしめた。

 ぎゅっと胸に抱かれる。

 先生のシャツの開いた胸元から、先生の汗とダージリンティーが交じった香が漂ってきた。

 懐かしい匂いだ。


「ごめんね」

 先生が言った。

「ホントに、ごめんね」

 先生の大きな胸に押しつけられて息が苦しい。

 先生は、そのまま僕を胸の中に取りこんじゃおうっていうんじゃないかってくらい、強く抱く。

 まあ、アンドロイドの僕が、窒息ちっそくすることはないんだろうけど。


「ほら、あとにしなさい。さっさと行くわよ」

 千木良が言った。


「そうね、急ぎましょう」

 先生が名残惜しそうに僕を解放して、僕達はランクルに乗る。


「大丈夫だとは思うけど、しばらく身を低くしてなさい」

 うらら子先生に言われて、僕は後部座席に乗って横になった。

 同じく後部座席に座った千木良の太股に頭を乗せて、膝枕してもうらうような形になる。

 千木良の膝枕は、朝比奈さんの膝枕より少し頼りない気がした。

 まあ、幼女だから仕方ないけど。


「ちょっとあんた、くすぐったいじゃない。頭動かさないでよね」

 千木良が言って、ほっぺたを膨らませる。


 生意気な口を聞いたから、ぐりんぐりん思いっきり頭を動かしてやった。


「あん、ちょっと、止めてよ!」

 千木良が暴れる。



 うらら子先生は、夜通しランクルを走らせた。

 高速に乗ったり、山道を行ったり、一度コンビニの駐車場で休憩しただけで、夜が明けるまで走り続けた。


 僕に膝枕しながら、千木良は時々車窓から空に目を走らせる。

 頻繁ひんぱんにノートパソコンの画面も確認した。


 多分、ドローンか何か、僕達を追ってくるモノがないか、確認してるんだと思う。




「着いたわよ」

 四時間走ってうらら子先生が言った。


 そこはどこかのさびれた町工場、みたいな場所だった。

 鉄くずやドラム缶が無数に転がっている敷地の中に、学校の体育館を一回り小さくしたような建物が建っている。

 トタンの波板で作られた外壁は、錆びて所々穴が開いていた。

 入り口の看板はペンキで塗りつぶされている。


 先生が建物の中にランクルを乗り入れた。

 中は工作機械が運び出されていて、奥にプレハブの小屋が建っている以外空っぽだ。

 そこにランクルを停めると、先生が素早くシャッターを閉める。


 僕も車を降りた。



「西脇君!」

 すると、プレハブの小屋の中から声がして、女子達がドアから飛び出してくる。


 朝比奈さんと綾駒さん、柏原さん、滝頭さん。


 「卒業までに彼女作る部」の部員が、僕に向かって走って来る。

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