第237話 キッチンスタジアム

 号砲と当時に飛び込んだ香は、少しの水しぶきを上げることもなく、溶け込むようにスッとプールに入った。

 水中を20メートルほど潜水して浮き上がると、例の、両手を伸ばしてドリルみたいに回転する泳ぎ方で、ぐんぐん進んでいく。

 息継ぎなしで、魚雷みたいに真っ直ぐ突き進んだ。


 確かに100メートル自由形だけど、自由すぎる。


 二つ隣のコースでは、スクール水着に水泳キャップのちまちゃんが、高速の犬掻いぬかきで香を先行した。

 ちまちゃんは目に見えないくらいの速さで手を回転させていて、それなのに顔がニコニコ笑っている。

 香のしのぐスピードで犬掻きしながら、周囲に愛想を振りまいていた(ちょっと怖い……)。


 確かに100メートル自由形だけど、自由すぎる。


 他にも、体が流線型に変形して一切の凹凸がなくなる選手がいたり、横になって水面を転がる選手がいた。


 その中で、正攻法のクロールで泳ぐしーちゃんが抜き出ていた。


 しーちゃんは、手や足に当たる水の一滴さえ逃さないって感じの完璧なフォームと、原子時計みたいに正確なピッチで泳いだ。

 ターンの前後でも少しもスピードが落ちずに淡々と泳ぐ。


 結局この競技、しーちゃんが一位で、ちまちゃんが二位。

 香は五位に終わった。


 ゴルフで縮めた得点差を、ここでまた少し広げられる。



「ごめんね」

 僕達の所に戻ってきた香が、眉尻を下げて言う。

 競泳用のぴちっとした水着から、まだ水がしたたり落ちている香(僕はガン見しそうになって視線を外す)。


「いや、香に性能の良い体を与えられたかった僕達のせいだから」

 柏原さんが言った。


「そ、そうだよ」

 僕も慰める。

 やっぱり、大企業や大学の研究室と比べたら、僕達の予算は桁が違う。

 費用対効果でみれば香も他のアンドロイドに決して劣ってはいないんだけど、単純な体力勝負になったらどうしても敵わない。


「切り替えていこう。次は料理だね」

 朝比奈さんが両手を顔の前でぎゅっとする。

「うん、がんばる!」

 香に笑顔が戻った。


 朝比奈さんと香は、これまでずっと料理の特訓をしてたわけで、いよいよその成果が試されるのだ。




 プールから競技場に戻ると、フィールドの中央に厨房が用意されていた。

 出場選手二十人分、ステンレスの調理台やシンク、ガス台にオーブン、冷蔵庫、調理器具や食材がそろったブースが並んでいる。

 ここで同時に料理をして、制限時間内に料理を完成させるのだ。

 ブースの周りにはカメラが何台もあって、スタンドのスクリーンにその映像が映っていた。

 ブースを見渡す一段高い席では、いかめしい顔をした10人がふんぞり返って座っている。

 多分、その人達が審査員なんだろう。


 香はさっそく調理ブースに入って、使い勝手を確かめた。


「どう? やれそう?」

 綾駒さんが心配そうに訊く。


「うん、道具は使いやすそうだし、大丈夫」

 香が親指を立てた。


 ピンクのエプロン姿の香。

 そのエプロンは、普段朝比奈さんが着けてるものだ。

 今日は香がそれを着けることにしたらしい。


「それでは関係者のみなさん、退場してください」

 そんなアナウンスがあって、各アンドロイドのスタッフがフィールドから出て行く。


「香ちゃん、落ち着いてね」

 朝比奈さんが言った。

「うん」

 香が頷く。

「いつも通り、食べてもらう人のことを考えてお料理するんだよ」

「うん」

 香がもう一度頷いた。

 見つめ合う二人は、深い部分で心が通じ合ってるように見える。


「それじゃあ、頑張って」

 係員の人が急かしてたし、僕達はスタンドの関係者スペースに移動した。

 ここからはもう、香に指示もアドバイスも出来ない。

 出場するアンドロイドは、自分の考えで料理をすることになる。



 関係者が退場して、出場選手が一人一人紹介された。

 香に向けられる歓声は、やっぱり大きくなっている。


「さあ、ここに揃った出場選手には、二時間の制限時間内に、テーマ食材を使った料理を作って頂きます。それでは、テーマ食材を発表しましょう」

 アナウンスのあとで、その食材がスクリーンに大写しにされた。


「テーマ食材は、旬の魚スズキと、旬のフルーツ桃です!」

 スクリーンに、でっぷりと太ったスズキと、みずみずしい桃が映る。


「やっぱりね」

 それを見たうらら子先生が大きく頷いた。

 8月だし、旬の食材が選ばれるんじゃないかって予想して、その辺のレシピは一通り調べてある。

 香はスズキや桃を使った料理を作ったことがあった。


「良かった」

 朝比奈さんも頷いている。


「でも、こんな普通の食材だと、なにを作るのか逆にセンスが問われますね」

 滝頭さんが言った。

 確かに、食材が普通なだけに料理には創作性が要求されるのかもしれない。

 普通のレシピの中から作ったら、みんな同じになりそうだし。



「それでは皆さん、料理を始めてください!」

 アナウンスに続いて、始まりの合図のホーンが鳴った。


 それぞれの調理台についた選手が一斉に動き出す。

 香も、エプロンの紐をギュッと縛り直して、シンクで手を洗った。


 香と違って、しーちゃんは純白のコックコートに赤いスカーフをしていて、本物のコックさんみたいだ。


 調理台に背が届かないちまちゃんは、足元に箱馬を置いて料理を始める。

 その衣装があざとかった。

 某クッキングアイドルま○んちゃんみたいなピンクの衣装を着ているのだ。


 ふう、危ない危ない。

 僕がロリコンだったら、すっかりちまちゃんに魅了されてたところだ。



 調理台に向かった香は、まず、丁寧にスズキをさばいた。

 その身を三枚におろして、透き通ったさくを取り出す。

 そのままお刺身にして食べたい綺麗な白身だった。


「うん、順調順調」

 真剣に香を見ている朝比奈さんが、こぼすように言う。

「淡泊な白身魚をどう料理するかが見所ね」

 腕組みしたうらら子先生が言った。


 すると香は、スズキの身をミキサーにかける。


「フリットとか、さつま揚げにでもするのかな?」

 烏丸さんが言った。

「うーん」

 朝比奈さんは固唾を呑んで見守っている。



 それぞれの厨房で料理が進むと、スタンドにも香ばしい良い匂いが漂ってきた。

 大きな炎が上がったり、フライパンから食材が空高く舞ったり、料理の様子は見ていて飽きない。

 それは、選手達の審査員や観客に向けたパフォーマンスなのかもしれない。



「千木良、どうした?」

 競技が進むなか、僕が抱っこしている千木良が難しい顔でうなっていた。

 千木良は、香の頭脳をモニターしているノートパソコンの画面を睨む。


「ええ、香のAI、やっぱりおかしいわ」

 千木良がそんなことを言い出した。

「こんなところが活発に活動するはずがないのに」

 千木良が続ける。


 千木良のノートパソコンの画面では、香のAIの活発に動いているところが、赤く表示されていた。

 千木良は、活動するはずがない場所が激しく動いてるっていうんだけど……


「見てる限り、どこも変じゃないけど?」

 香は普通に料理していた。

 普段、部室で料理してるときと変わらない。


「大丈夫、香を信じて見守ってあげよう」

 僕は不安そうな千木良を抱きしめて言った。


「そうね……」

 千木良が自分を納得させるように頷く。



 だけど、その時の千木良の悪い予感は的中してしまう。


 やがて香が作り上げた料理に、僕達は驚愕きょうがくする。

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